第39話 疑惑の女

「あ、それと。この度一恵かずえがめでたく授かり婚することになりまして。彼女、カフェの管理と営業とデザイナーの三つのわらじ履いてるんですけど、無理はさせられへんので。カフェに専属の管理者、雇って下さい。あ、それから美葉みよの後のデザイナーも、早く雇って下さいね。もう、戻ってきませんからね、彼女は」

「分かってる、そんなこと。帰りに採用担当者をせっついて」

「管理職でも無いのに?」


 憮然と言葉を返すと、佐緒里さおりから倍返しにあった。すかさず「そうだ」と美雪みゆきが手を叩いた。


咲良さらちゃん、カフェに回したらええんと違います? 古賀こが君仕事出来るようになったんやし。このオフィスに二人のクリーンスタッフは多いと思うんですよ。咲良ちゃん結構仕事出来そう。コンペの最終選考にも残ってるし」

「お前……。先に見たんか」

「どうせ選んどけって言う癖に」


 ぷいと頬を膨らませてそっぽを向く。こいつ……。悪いとは微塵も思っていないようだ。


 しかし、咲良にカフェの管理者は、適任かも知れない。明るくて元気で機転が利くし、外国の観光客の対応も出来る。


 確かカフェの制服は、作務衣風だったな。


 制服姿の咲良を思い浮かべる。


 ……何となく、色気が足りない。どうせなら、メイド風の白いエプロンドレスがいい。ミニスカートの。

 いやいや、それでは色んな男が咲良の足元に注目してしまう。それはけしからん。


 和服も良いな。しっとりとした和服姿は、京都らしいし、和服の咲良をまだ見ていないし。しかし、日常的にとなると、着替えが大変か……。


「社長?」

「おーい、社長?」


 遠くで誰かが俺を呼んでいる。俺はポンと手を打った。メイド風のエプロンドレス、スカートはフリルだが、丈は膝下。これで行こう。


「改革しよう。我が社の改革を、本格的に。まずは、カフェ店員の制服を見直す」


 きっぱりとそう言って、俺はコンペのレジメを手に取った。視界の端に、欧米人のように肩を竦める二人が見えるが、無視する。



「あ、そうそう。社長。今朝美葉から苦情が来ましたよ」

 佐緒里がおもむろに、スマートフォンの画面を眼前に差し出してきた。


 ハッと息を飲む。


 スズランのアイコン。LINEで美葉が使っているアイコンだ。それを久しぶりに目にした。昂揚したように鼓動が速くなる。佐緒里からスマートフォンを受け取り、内容に目を通した。


昇陽建築しょうようけんちく住田貴和子すみたきわこさんという方から、建売住宅の設計を頼まれています。それが結構しつこくて、困っているんです。何処で私の事を知ったのか伺ったら、九条社長経由だと。個人情報を簡単に流出しないよう、佐緒里さんからそれとなく注意して頂けませんか?』


 それとなくと書いているんだけど。そ・れ・と・な・く、と。画面のメッセージをそのまま見せるのは、それとなくなのか?


「昇陽建築の社長夫人に美葉の居場所を教える約束をしたのは確かやが、まだ教えてへん。……正直言って、忘れとった」

「マジですか。ってことは、この住田貴和子さん、美葉の居場所自分で調べたんですかね。怖ー! 蛇みたいな女ぁ。」

「……今、何て?」

「蛇みたいな女」

「そうやなく!」


 もう一度画面を凝視する。


 住田貴和子。


 俺はその名を、何度も目で辿った。佐緒里にスマホを返してから、眉間を指で揉む。


『その後、貴和子は三回結婚し、二回夫と死別している』

『三人の夫は皆高齢者』


 瀬戸口せとぐちの声を耳で反芻する。

 昂揚建設の社長は確か、八十代。……住田貴和子は、瀬戸口一哉が追っている人物なのか?


 あのパーティーの日、咲良と俺が踊るのを住田貴和子は見ていた筈だ。


 あの一件から貴和子は咲良に接近し始め、瀬戸口一哉がそれに気付き咲良に付きまとった。そう考えると、瀬戸口の一連の行動が腑に落ちる。


 俺はハッと息を飲んだ。今日の痣は、もしかしたら住田貴和子絡みなのか?


『知り合いの家に行ったんです。旦那さんが認知症で、暴れてしまって、そのとばっちりを喰ったんです』

 

 咲良の言葉を思い出す。確かに昇陽建築の社長は、ここ数年立ち居振る舞いに老いを感じるようになった。その代わりに、妻が表舞台に立つようになったという噂だ。


 女帝と呼ばれるあの女が、咲良に近付いているとしたら、その目的は何だ?


 なにか得体の知れない危険が咲良に迫っている。そのきっかけを作ったのは、俺だ。俺が、咲良と踊りさえしなければ、貴和子は咲良に気付かなかったかも知れない。


「では社長、カフェの件よろしくお願いしますね」

「では社長、佐緒里をお見送りして参りますね」


 メガネザルと古ダヌキとが立ち上がり、ぺちゃくちゃとしゃべりながら退室していく。佐緒里を見送る必要があるのか? 来客者じゃあるまいし。


 呆れた行動に思考が中断された。しかしお陰で沸騰しかけていた頭の温度が下降した。


「昇陽建築。住田貴和子。女帝……」

 冷静さを取り戻した思考に、隙間が生まれた。その隙間にこの三つのキーワードが引っかかっていた。俺は人差し指を折り曲げ、第二関節で額を擦る。


 業界で、女帝について囁かれていることがある。


『嫁が実権を握るようになってから事業が急拡大しているが、その割に利益が伴っていない』


 素人の女が経営に口を出すから失敗するのだと、住田貴和子を貶す意図のある囁きだ。裏には若い妻を娶った昇陽建築社長への妬みや、女性蔑視の思想が隠れている。大して興味が無いので聞き流していたのだが。


 ふつふつと、ある疑念が腹の底に湧いてきた。


 俺はスマートフォンを取り出し、久しく連絡を取っていない男の電話番号を探した。

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