第38話 謎の痣

 会議が終わり社長室に向かっていると、モップを掛けている咲良さらを発見した。相変わらず背中から一生懸命がダダ漏れだ。思わず足を止めてその背中を見つめる。


 咲良は手を止めて身体を伸ばした。その姿に、ふっと違和感を持った。


 とても大きなマスクをしている。目の下から顎まですっぽり隠してしまうような、大袈裟なマスクだ。風邪を引いたのかと声を掛けようとして手を上げたが、その手は空中で行き場を失った。


 咲良はマスクを外し、腰に下げていた水筒を開けた。その口元に、紫色の痣がくっきりと浮んでいた。


「咲良!」


 自分でも驚くくらい大きな声を出してしまう。足は勝手に咲良の元へ駈けていた。慌てたように咲良はマスクを付けなおす。


 無言で向かい合う。一瞬視線が絡んだが、咲良は避けるように視線をさげた。自分の口元からハァッと息が漏れる。


 手を伸ばし、耳元からマスクのゴムを外す。


 口元から頬にかけて広がる赤黒い痣が露わになる。


「これは……。一体誰にやられたんや」

「誰にって、自分でですよ。転んだんです」


 へへ、と咲良は笑った。今まで感じたことのない熱波が腹の底から湧きあがり、拳を握った。咲良は口元をマスクで隠し、肩を竦める。


「柱の角でガンって。鈍臭いんですよ、私」

「そんな話、信じると思うんか」


 震える自分の声に動揺した。ハッと息を吐き、咲良が顔を上げた。その瞳に一瞬涙が浮んだのを見逃しはしなかった。咲良の手を取ろうとし、手首のアームバンドに気付く。そのバンドをそっとずらすと、指の形をした痣が現われる。


 手首を掴む自分の手が、ワナワナと震える。


「これも、自分でやったんか……?」


 咲良は俯き、小さく首を横に振った。肩を揺らし、浅い息を何度か繰り返す。


「知り合いの家に行ったんです。旦那さんが認知症で、暴れてしまって、そのとばっちりを喰ったんです。病気がしたことなので、仕方ありません」


 力なくそう言って目を細めた。無理に笑いの形を作っているけれど、泣いているようにしか見えない。俺は咲良の顔を覗き込んだ。


「知り合いって?」

「昔から、良くしてくれている人がいるんです」


 目を伏せながら咲良が言った。


「昔からの? ほんまに?」

「本当です。私にだって、そういう人いるんですよ、これでも」


 頑なな言葉の真偽は測れない。俺は嘆息し、咲良の肩に手を置いた。


「あ、いたいた! 社長! 来客ですよ! クリーンスタッフ口説いてる場合と違います!」


 パタパタと美雪みゆきが駈けてくる。俺は思わず額に手をやった。


「誤解を受けるような事を敢えて大声で言うな」

「だってそう見えますよー。さ、油売ってんと!」


 せっつく美雪にもう一度嘆息をしながら人差し指で彼女を呼び寄せた。美雪は嫌な予感がすると顔に書いて歩み寄る。


「今日は三時に退社する。後の会議は文書の報告で。夜の接待は専務に代行させて」

「はあ?」

「ほな、すぐ行くから先に向かっといて」


 しっしと手で払うと、美雪は憎々しげな顔で舌を出し、背を向けた。声が聞こえないくらい離れたと判断してから、咲良に顔を近付ける。


「今日から俺の家においで。荷物を運ぶから、仕事が終わったら僕の車の傍で待っといて」

「え!? えええ!!??」


 咲良は困惑し、額を真っ赤に染めた。その額にそっと触れてから、社長室へ向かった。


***


 昼休みを終えて社長室に戻ろうとドアノブに手を添えた時だった。部屋の中からけたたましい笑い声が聞こえてきた。俺は溜息をつき、音を立てずドアを細く開ける。


 来客用のソファーにパンダのようなフォルムの後ろ姿が見えた。向かい側には美雪がいて、大口を開けて笑っている。俺はドアを大きく開けて咳払いをした。ソファーに座っていたパンダ……もとい佐緒里さおりが振り返る。


「来客用のソファーに座って、何してるんや」

「ええやないですか。まだ後五分昼休み残ってます」


 美雪が足を組んで言った。こいつ本当に社長を舐めているなと、眉間に皺を寄せる。


「佐緒里さん、なんか用事?」


 デスクの椅子に座ってから問うと、狸顔を不快そうに歪めて佐緒里が口を開いた。


「社長が最近サテライトに来ないんで。決裁が必要な書類が溜まってるんです。それと、コンペの最終選考作品三点持ってきましたよ」


 佐緒里は分厚い茶封筒とレジメを三通デスクに置いた。控えめに言って、叩き付けるように。


美葉みよが退社してから、めっきりサテライトにお越しにならんようになりましたね。それはええんですけどね、決裁の権限を私に下されば」


 決裁の権限をくれ、というのは役職を付けろということだ。俺は眉間に皺を寄せる。我が社の役職は歴代男性と決まっており、例外を作ると幹部連中が機嫌を損ねる。


 だが、確かに距離の離れたサテライトオフィスに管理職がいないというのも何かと弊害がある。今更佐緒里を差し置いてデザイナーの片倉かたくらにポストを渡すというのも、部内を不穏にしそうだし。


「佐緒里を部長に昇格させましょうよ。ええ加減、仕事に見合ったポスト与えましょうよ」


 足を組んだまま美雪が言う。俺はチラリと時計を見た。十二時五十九分。一分後にその態勢を続けていたら、怒鳴りつけてやる。俺の思惑を知らぬ美雪は言葉を続けた。


「大体うちは周回遅れなんですよ。中身が昭和のまんま。今、何時代か知ってます? 令和っすよ、れ・い・わ。職歴長い連中ほど残業代目当てに仕事さぼって遅うまで会社に居座って、『残業あるから家事できへん』って嫁に豪語してるんっすよ。そやから『女は家のことしてたらええ』って思考から抜け出されへん。大した仕事してへん癖に、部下の手柄を自分の手柄にすり替えて幹部にええ顔見せてねー。そーんな会社やから若い子はどんどん離職していくんですわ。女子社員を未だにお茶くみ要員やと勘違いしているおっさんとか、いっぺん死ねばええのに」

「そうそう。教育システム整ってないから、下手な先輩の下に付いたら地獄絵図やしねぇ。スパルタに指導するのか格好ええと勘違いしている中堅社員全員、犬のうんこ踏んだらええのに」


 一時になった。同時に美雪は立ち上がり、俺に向かって人差し指を突き立てる。


「このままやと、この会社潰れますよ」

「な、なに!?」

「そうそう。人材は宝。そして今の若い子のメンタルは豆腐。そのくせSNSという絶大なる武器を持ってます。矛盾だらけの教育で潰したら、ブラック企業のレッテルを貼られて優秀な人材にそっぽ向かれてしまいますよ」

「そろそろ改革が必要って事です」

「「ねー」」


 二人揃って顔を見合わせ、首を傾けながら声を揃える。俺は思わず人差し指を耳の穴に突っ込んだ。




 


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