第37話 ダンスをするはずだったのに
昼下がりの日差しが、レースのカーテンを通して床に透明な影を作っていた。白いテーブルクロスを敷いたテーブルに、ローズピンクのバラを活けた花瓶が置かれている。部屋はオリエンタルな甘い香りで満たされている。
ダンスを踊りましょうと
貴和子さんは男役をすると、黒いパンツスーツを着ていた。私には、貴和子さんが先日のパーティーで着ていたドレスを貸してくれることになっていた。
身体のラインを強調するデザインの上、背中と胸元が大きく開き、太ももにスリットが入っている。かなりセクシーなドレスで恥ずかしい。ドレスに負けないようにと貴和子さんは私に濃いめの化粧を施し、髪をアップに結い上げ、甘いの香りの香水までふりかけた。
ソファーでは
「咲良さんがお見えになりましたよ」
「お、起こさなくても……。ゆっくりお休みになられていた方が……」
「いいのよ、この人咲良さんとおしゃべりしたがってたんだから」
起こされた義雄さんは、不機嫌そうな顔で目を擦っている。
「お、お邪魔いたしております」
頭を下げると、無愛想に会釈を返された。貴和子さんは私の隣に座った。
「ジャスミンティーはお好き?」
耐熱硝子のカップには、琥珀色のお茶が湯気を立てている。
「大好きです」
私は頷いてお茶を啜り、思わず目を見開いた。
「凄く香りのいいお茶ですね! ジャスミンの花束を抱えているみたい」
鼻腔に抜ける甘い香りは、ティーパックのお茶とは比べものにならないくらいふくよかだ。旦那さんもお茶を啜り、満足げに頷いている。
「ねぇ、あなた。咲良さんを見て。このドレス、よく似合っていると思わない?」
「ん? ああ……」
旦那さんは私を見たが、その視線がすぐに下がる。
胸元を見つめられている。私は思わず両手で隠くそうとした。けれど、貴和子さんの手が私の右手を掴んで引き留める。
「若いんだから、少しくらいセクシーさを強調した方がいいのよ。ねぇ、あなた」
「ああ……」
そぞろな返事だが、視線はきっちり谷間に固定されていた。貴和子さんは立ち上がり、オーディオセットへ向かった。木製の大きなスピーカーから、花のワルツが紡ぎ出される。まるで本物のオーケストラがそこにいるような、立体的な音質だった。貴和子さんははしゃぐような足取りで戻ってきて、私の手と義雄さんの手を取った。
「まずは、あなたと咲良さんが踊って!」
義雄さんは小さく頷いて私の手を取った。背中に手を回し、身体を密着させる。ステップはぎこちなく、辿々しい。私はその動きに、慎重に合わせた。ハイヒールの爪先がフローリングの床を滑る。
義雄さんの手に力がこもる。まるで腰にしがみつかれているような状態だ。逃れようと身体を捩ったとき、ドアをノックする音が聞こえた。貴和子さんが返事をし、ドアに向かう。少し空いた隙間から、小柄な男性の姿が見えた。
「固定電話に着信がありまして、奥様と直接お話ししたいという事です」
「そう。すぐに参ります。……ちょっと失礼しますね」
貴和子さんは微笑んで会釈をし、ドアの向こうへ姿を消す。後には義雄さんと私だけが取り残された。
彼はもう脚を動かしてはいなかった。私の身体を抱きしめ、首元に顔を埋めている。太ももに、硬いものが押しつけられた。背筋に悪寒が走り、私は身体を離そうと足に力を入れて義雄さんの胸元を両手で押した。
義雄さんの身体と私の身体に隙間が空いた。さらに腕に力を込めて腰を掴んでいる手から逃れようと上体を捻る。「逃げられる」と思った時、臑を蹴飛ばされた。痛みで足が体を支えられなくなる。義雄さんの身体が覆い被さり、側にあったソファーに背中を押しつけられる。見上げると、彼の目は赤く血走っている。唇の端から唾液がこぼれて糸を引き、私の鎖骨にぽたりと落ちた。背骨に電流を流されたような悪寒が走る。
ゴツゴツした手が、スリットの隙間から入って来る。悲鳴を上げて身体を捩ると、頬に衝撃を受けた。口の中に錆びた味が広がる。頬が熱い。しばらく遅れて、殴られたのだと察した。頭が真っ白になり、恐怖が全身を雁字搦めにする。その間に、胸元を広くこじ開けられていた。ブラジャーの内側に入り込んだ手が、胸を強く鷲掴みにしている。
「や……」
喉が引き攣り、声が出ない。身体を翻して逃れようとするけれど、彼の力は老人とは思えないほど強い。スリットから入り込んだ手が、下着をずらす。硬いものが太ももに押し当てられている。振り回した腕を強い力でねじり上げられる。痛い。もの凄い力だ。呻きながら歯を食いしばる。このままでは、陵辱されてしまう。ねじり上げられた腕の痛みと、胸の上を舌が這い回る気持ち悪さで頭が痺れる。耳元に興奮した息遣いが響いている。思わず目を閉じ、顔を背けた。
スカートの裾が捲り上げられる。
「あなた!」
貴和子さんの声が遠くに聞こえた。もうろうとする意識の中で、血相を抱えた貴和子さんが走ってくるのを見た。義雄さんはうめき声を上げたが、尚も私から離れようとしない。最早理性の無い獣と化しているようだ。貴和子さんはサイドボードを開け、こちらに駆け寄ると旦那さんの顎を掴んで口の中に何かを押し込む。手にあったのは小さな水薬の容器だ。旦那さんは顔をしかめた。そして、我に返ったように私から身体を離す。貴和子さんが私の肩を抱き、立ち上がらせてくれた。
ドアの向こうには身体の小さな初老の男性が立っていて、私を手招きした。
「傷の手当てをいたしましょう」
そう言って、私に付いてくるように促した。
***
茶室のような小部屋に付くと、彼は座布団を二つ並べて座るように促した。すでに救急箱が用意されている。私は座布団に、崩れるように座った。
「スマートフォンを貸して下さい」
そう言って、トートバッグを差し出した。なぜだろう。ぼんやりそう思ったけれど、余り多くのことを考えられなくて、言われるままスマートフォンを鞄から取り出した。
「証拠を残しておきましょう。何かの折に、役立つかも知れません」
彼はそう言って私からスマートフォンを受け取るとへの字の口を歪に動かした。それが笑みだと少し遅れて気付く。笑みを浮かべたまま、彼は私の顔や手や臑を撮影した。はだけた胸元やずれたブラの肩紐までも。
パシャパシャという音をぼんやりと聞く。私のスマートフォンで撮影した後、自分の物でも撮影していた。証拠、と言うけれどそんな証拠を何時何処で差し出せというのだろうか。私が貴和子さんを訴えることはないのに。
スマートフォンを私に返すと、男性は黙って唇の傷を消毒してくれた。
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