第40話 改革

 確かにメガネザル美雪古ダヌキ佐緒里の言葉は真を突いていた。


 創業百六十年の木寿屋は申し分ない財務状況で、堅実に事業拡大を続けている。長い年月を掛けて積み上げてきた信頼と実績は、新規参入者の追随を許さない。業界において確固たる地位を築いていると、誰もが疑っていない。しかし、実情は違う。


 父の余命宣告を受け、実家に戻り社長就任の準備に取りかかった時には、すでに多くの歪みを抱えていた。


 歴代の経営陣は、「歴史」が築いた台座に胡座をかいていた。その台座の置かれている場所が平らな大地ではない事を忘却して。


 台座が置かれているのは、「時代」という不確かなものだ。それは複雑に隆起し、間断なく動き回る。「時代」の動きを無視した経営は、内部に多くの亀裂を残してきた。


 殊に、先代の社長時代に亀裂は一気に広がった。経営手腕が悪かったとは思わない。その世代に、「時代」が一気に変貌を遂げたのだ。


 経済は大きな山と谷を描き、そのまま緩やかな下降を続けている。


 日本は混乱し、やがて慢性的な絶望に覆い尽くされた。それに伴い常識は一変し、人々の価値観が変わった。


 企業は社員の一生を担う力を失い、人々は企業に安心して身をまかせるのをやめた。


 日本経済を支えていた企業戦士の忠誠心は、「レトロ」と呼ばれる陳列棚に片付けられてしまった。人々はもう身を粉にして働きはしない。


 人間のツールは、言葉を使うコミュニケーションから、自分の身体を殆ど使わないものへと置き換わった。


 匿名性が高く、相手の反応を面と向かって受け取る必要が無く、居心地が悪くなれば何時だって退散できる。そんな世界に身を置く時間が増え、社会を形成するために必要だった繋がりが希薄になった。


 人間は、自らの手で人間であるために必要な力を手放していったのである。


 そういったことは、とても急速に進んで行ったのだ。


 企業が各々の職を全うするためには、人の力が必要だ。その質的な変化に対応し手を打たなければ、内部から腐っていく。その事に父は気付かなかった。


 木寿屋の内部は昭和のまま取り残され、腐りかけている。


 「年功序列主義」は社員から効率化への意識を奪い、部下へのハラスメントを産んでいる。


 人材教育も昭和のままだ。「先輩の背中を見て育て」と言われたら、今の若者は黙って背中を眺めるだけだ。具体的な指導をせず無能だと罵倒されれば、平成生まれの若者は「ブラック企業」というレッテルを貼って去る。


 「男尊女卑」の風潮は、女性社員から成長する気力を削いでしまう。彼女らは結婚か仕事かどちらかの選択を迫られる。彼女らの多くは、木寿屋に生涯を捧げはしない。


 待ったなしに改革を行なわなければ。


 就任直後一度精力的に動いたが、父の代からのさばる重役達の反対勢力に、残念ながら屈してしまった。しかし、その重鎮達も老いて力を失いつつある。


 もうそろそろ、動き出して良い頃だ。

 大きな改革を、自分がなさねばならない。業績拡大の足を一旦止めても。多くの流血を覚悟しても。そんな熱いものが、胸の内で確かに燃えている。

 

 熱源を思い出させたのは、古賀の存在だった。


 俺は彼の中に、輝季の面影を見ていた。輝季が生きていれば彼と同じ年齢であり、恐らく同じように成長し、同じような困難に苛まれていただろう。


 古賀は、周囲の心ない言動でたやすく傷付き、体調を崩した。俺は、彼を庇護することばかり考えていた。しかし、それが間違っていると言う事を、咲良が教えてくれた。


 咲良の指導で、古賀は人並みに業務を遂行できるようになった。要はどのように人を育てて戦力にするかと言うことなのだと、この事例は示している。実に明確でシンプルに。


 手元に、コンペへの応募用紙がある。最終選考に残った、咲良の作品だ。


『四季の風が吹き抜ける、そこが我が家です』


 キャッチコピーはとても爽やかで目を惹く。それに続くコピーも申し分ない。


 庭を眺めながら旅の疲れを癒やしつつ団らんを楽しむ風景を描き、建物の存在感をアピールしている。京都駅から一駅、最寄り駅から十分という立地は、観光拠点としてはいささか不便だ。狭い路地に面しており、駐車場からも離れている。そのデメリットを「商店街で、夕食の買い物をしながら京都の日常を肌で感じる」「閑静な住宅地で、静かに時を過ごす」とメリットに置き換えて伝えている。


 視点はとても良く、建物のコンセプトにマッチしている。しかし、技術的には拙い。


 もしも木寿屋に学歴に寄らない採用基準があり、教育システムがあり、能力を的確に評価するツールがあれば、と思う。そうすれば彼女の感性は、我が社の宝になる筈だ。


 様々な思いが去来し、目が回りそうだった。時計を見て十五時を過ぎていることに気付き、不満げな顔の美雪に手を上げて帰路につく。


 駐車場の植え込みの片隅に、細い野草が生えていた。その姿に見覚えがあり、足を止めた。


「これは、確か野蒜ノビルやったかな」

 名を思い出し、一人呟く。


『食べられる草なんですよ』


 と駒子が細かく刻んで汁物の浮き実にした。『臭い』と輝季が顔をしかめた。確かにニラのような強い匂いがした。


 輝季の顔を思い出したら、数珠の玉のように別の想い出が蘇ってきた。


 輝季が道端にしゃがみ込み、牛乳の空き瓶を眺めていた。底には蟻が入り込んでいて、多くの黒く小さな身体が濁った液体に沈んでいた。


 だが、一匹だけ生きている蟻がいた。


 蟻は仲間の身体の上に立ち、必死にガラスを昇ろうとしていた。だが、手はツルツルとしたガラスの上を滑るばかりだった。時々手の動きを止め、困ったように触覚を蠢かし、しばらくしてまた懸命に手を動かす。まるで、手に届かない希望に縋るように。


 輝季は、近くに生えていた野蒜を摘み、瓶の中に差し入れた。しばらくして蟻は天から伸びた救いのはしごに気付き、縋りついた。輝季は、小さな命が乗った野蒜を注意深く瓶から引き抜き、地面に下ろした。蟻は触角を大きく動かし、そろそろと野蒜から降りて地面に足を降ろした。


 しばらくそこに留まり、ただひたすらに触角を動かしていた。まるで神に感謝して天を仰いでいるように見えた。やがて蟻が歩き始めると、輝季は嬉しそうに歯を見せて笑った。


「何かいるんですか?」


 いつの間にか俺は植え込みの隅にしゃがみ込んでいた。咲良が横に同じようにしゃがみ込み、俺の顔を覗き込んでいた。黒目がちな大きな瞳が、キラキラと春の光を反射していた。


「蟻、おるかなーと思って」


 照れ隠しにそう言ってから俺は立ち上がり、咲良に手を差し出した。咲良は一瞬戸惑い、頬を染めながら手を取って立ち上がった。


 あの夜。


 青いドレスを着た咲良は、自分は瓶の底のような穴に落ちてしまったと言った。どんなに足掻いても、そこから抜け出すことは出来ないのだと。


 俺は、咲良に野蒜を差し出すことが出来るだろうか。今いる絶望から救い出すことが出来るだろうか。


 木寿屋の改革と咲良の現状を救う事は、一直線に繋がっている気がする。


 それは、俺にしか出来ない事なのだ。

 いや、しなければならないことなのだ。

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