第四章 別れ

第41話  別れ

 咲良さらの家は、想像以上に古くて狭かった。


 近隣には、同じような木造アパートや文化住宅が並んでいた。人の気配の無い、空き箱のような町だ。唯一見かけた人間は、腰がくの字に曲がった老女だった。この町に住んでいる人々はきっと同じように老いていて、音も無く静かに残った命を灯している。


 そんな想像をしてしまうほど、町は静かだった。耳を澄ませば、猫の足音が聞き取れそうだ。


 外階段を上がり、簡素なドアを開けると三畳ほどの部屋だ。一口のガスコンロとシンクのあるクッションフロアのスペース。おそらく本来はキッチンなのだろう。そこに布団が畳まれていて、紺色のスーツケースが横向きに置かれている。鴨居には、春用の上着が掛けられていた。スーツケースの横には段ボールを造作したチェストがあり、薄っぺらくて小さな鏡がおかれていた。スーツケースには大きな熊のぬいぐるみが座っていて、小窓にはハルジオンがプラスチックのコップに活けられていた。


 荷物をまとめるように、と伝えて三十分ほどで咲良は作業を終えた。大方の服はスーツケースに入っており、そこに段ボール製の引き出しから数枚洋服を加え、鏡とその周囲に置いてある化粧品を詰めたら終わりだ。


「引っ越し貧乏なんですよ、うち。そこに飽きたら引っ越しするんです。だから、いつでも移動できるように身軽にしてあるんです」


 咲良はそう言って笑い、襖を開けた。こちらは六畳の和室になっていて、片隅に一組布団が畳んであった。押し入れの襖の前に、紙袋と市指定のゴミ袋が二つおいてある。うら寂しいという言葉がとてもよく似合う、古びた畳の部屋だった。


 咲良はゴミ袋を開き、藤色のセーターを取り出した。


「仁美さんに、届けて欲しいって頼まれてたんです。でも、今日は行けないな。マスクしてたら、風邪ひいたのかって心配されちゃう」


 咲良はそっとセーターを撫でながら言い、小さな溜息をついた。


「これ、捨てるつもりだったんですよ。私がプレゼントした奴。気に入ってくれてると思ってたのに……」


 プッと頬を膨らませるが、その横顔に寂しさが滲んでいた。


 カウントダウンを始めた命に寄り添うのは、労力がいる。愛情を感じていない父親の時ですら、ごっそり身を削られるような毎日だった。


 遺品整理はもっと大変だった。彼には「宝物」と呼んでいた物が余りにも多かった。値段以外の何かを推し量り、残す物と残さない物を分類するのは苦行と言って良かった。その苦行を後に残さないよう自分の手で纏めたのは、仁美ひとみの優しさだと思えた。


「きっと、咲良が捨てるか残すか考えんでええようにしてくれたんと違うかな。想い出があるものほど悩むし、残しておいたらおいたで、悲しい気持ちを想起させると思うし」


 信じがたい言葉を聞いたように、咲良は顔を上げて俺を見つめた。


「でも、捨てるのが惜しくなったみたいやね。これは、最後まで仁美さんに大切にして貰って、その後は咲良の手元に残しておいたらええ。見たくなければ見えないところにしまっておいたらええ。時が流れて、想い出の取り扱い方が変わった時、手に取りたくなるかもわからへんしね」


「そんな日が、来るのかな……」


 ぽつり、とそう呟いて咲良はセーターを胸に抱き寄せ、静かに紙袋にしまった。


***


 車を降りると、ピアノの調べが耳を揺すった。俺はセーターの入った紙袋を手にぶら下げながら、音色を辿っていく。病棟の外れに、壁と一体化したような白い金属製のドアがあった。ドアはぴったりと閉められていたが、ピアノの調べはそこから漏れていた。


 ここにピアノがある。病院という場所に楽器は不釣り合いに思えたが、切ない調べはホスピスの空気に丁度良く馴染んだ。水に濡らした画用紙に水彩絵の具が染み渡っていくように、いつもどこか湿り気のある空間を静かな音色が満たしていく。俺は目を閉じて、しばらくその音色に身体を浸していた。


 ドビュッシーの「月の光」だ。


 淡い月光を思わせる音色の中に、さらさらとススキが揺れいてた。十五夜の茶室で輝季こうきと見上げた月を、時を隔ててもう一度見上げる。


 黒い雲がとても早く流れていて、時折月を隠していた。その度に輝季は心配そうな顔をして「お月様おらんくなった」と呟いた。「すぐに見えるから安心し」と手を握った。湿った、温かい手だ。雲が流れてやがてまた顔を出すと、輝季は安心したように笑った。


 ドアの開く音で我に返る。ドアから出てきたのは、白衣を着た中年の女性と顔色の悪い痩せた初老の女性で、笑顔で言葉を交わしながら前を通り過ぎていく。


「あの」


 二人の間には、とても大切な時間が流れているような気がした。一瞬躊躇ったけれど、思い切って声を出す。二人は振り返り、俺を見た。


「すいません。ピアノの音が聞こえたのですが、その部屋にピアノがあるんですか?」


 白衣の女性が微笑んで頷いた。頬に大きなほくろがあり、微笑むとそれが波打つように動いた。


「ありますよ。作業療法の治療として使用しています」

 どうやら彼女はセラピストのようだ。


「僕の知り合いがここに入院していますが、昔音楽の教師をされていた人で……。もしピアノを弾けるのならば、勧めてみたいと思ったのですが……」

「今日、これからですか」

「ええ、できれば」


 彼女は頷き、ドアまで歩いて行った。足音を立てずに静かに歩く人だ。彼女はドアの鍵穴に銀色の大きな鍵を差し込んだ。ガシャリと鍵穴が音を立てた。


「鍵を開けておきます。五時になったら閉めに来るので、それまではご自由にお使いください」


 一礼をして、彼女は足早に患者の元へ戻った。


 二人の間の大切な時間は、何の苦も無く復活を遂げたようだった。俺は、安堵の息を吐いた。


***


「一哉君に逢わせてくれて、ありがとう」


 車椅子を押し始めてすぐに、仁美が言った。ああ、と気のない返事を返してしまい、素っ気なさ過ぎたと後悔した。


「彼はね、本当に良い子だったのよ。ただ、音程は少し良くなかったかなぁ。声が大きいから、合唱コンクールの時には、彼のポジションを何処にしたらいいのか凄く悩んだものよ」


 仁美の声はすっかり教師のものに戻っている。俺は大口を開けて下手な歌を得意げに歌う瀬戸口一哉せとぐちかずやを思い浮かべて苦笑した。


 車椅子を押していると、仁美の後頭部しか見ることが出来ない。老女のように薄くなった後頭部を見つめながら、彼女が誇りを持って教壇に立っていた姿を思い浮かべる。だがそれは、曖昧なイメージにしかならなかった。


 白く重いドアを開けると、立派なグランドピアノが現われた。仁美は歓声を上げて音を立てずに拍手をした。


「五時まで自由に弾いてええそうですよ」


 そう言うと、仁美は勢いよく振り返った。クリリと大きな瞳が俺を見つめる。


「本当? 本当にいいの?」

「ええ。職員さんに許可をもろうてます」


 歓声のような息を吐いて仁美は車椅子から立ち上がり、病が癒えたようにピアノに駆け寄った。椅子に座り、ポロンと鍵盤をはじくと目を見開いて微笑む。


「さあて」


 小さく呟いて、両手をこすりあわせた。俺は悟られないようにポケットからスマートフォンを取り出し、動画撮影の準備をする。彼女は手をこすりあわせながら、頭の中にある楽譜を捲っているようだった。


 やがて一つ頷き、目を閉じて息を吐いた。両手を鍵盤の上に起き、深呼吸をしてから旋律を奏で始めた。ゆったりとした、美しいメロディーだ。閉じた瞼の裏に、朝日が差し込む体育館が見えた。ああ、これはショパンの「別れ」

だ。音楽の先生が、卒業証書授与式で弾いていた曲だ。


 仁美は目を閉じて、音符と一体になったように身体を揺らしてピアノを奏でていた。情緒的な音色がもの悲しい心情を語り掛けている。きっと卒業式の度、旅立つ生徒達の想い出を心に描きながら弾いていたのだろう。


 ピアノの旋律によって、俺の脳裏に音楽教師であった頃の仁美が、鮮明な像を結んだ。体育館の端に置かれたピアノを、胸元に大きなコサージュを付けた仁美が懸命に弾く。壇上に上がる生徒達一人一人の記憶を辿りながら。


 曲調が変わる。激しく重苦しい調べが胸を圧迫するようだ。仁美は険しく顔を歪め、蹲るようにして鍵盤を叩く。息が詰まる程重く盛り上がっていく最中、その旋律は唐突に途切れた。


 代わりに、悲鳴のような嗚咽が響いた。不協和音が部屋を満たす、仁美が鍵盤にうつ伏せになり、激しく身体を震わせている。


「どうしました……」


 我ながら間抜けだと思える言葉を掛ける。この朽ちかけた小さな身体から、ほとばしる無念を感じていた。それなのに、「どうしました」はないだろう。


 仁美は激しく声を上げて泣き続けた。


「私達は、普通に生きていただけなのよ」


 悲鳴によく似た呟きが、泣き声に混じる。


「あの人は、何一つ悪いことはしてないの。道端に唾を吐いたこともない。私もそう。娘もそう。私達はみんな、普通に生きていただけなのよ」


 しゃくり上げる背中を、見つめるしか出来なかった。彼女の言う言葉が事実なのかどうかは、はっきりとは分からない。けれど彼女の中でそれは紛れもない真実であり、彼女らの平和はある日突然、不条理に剥奪された。そして、迫害から逃げ回った末、無念だけを胸に抱いて、この世を去ろうとしている。


 こんなことがあっていいのだろうか。


 言いようのない怒りと悲しみが胸に沸き起こり息が止まりそうになる。


 一度ドアが薄く開いたが、音も無く閉じられた。時計を見ると、五時ぴったりを指していた。


 しばらくして仁美は身体を起こし、手の甲で涙を拭った。それからおもむろにピアノを弾き始めた。途切れたセンテンスの少し先、怒濤のような戦慄が収まったところから曲は始まり、やがて序盤の美しい調べに戻った。だが最初の調べとは同じで、全く違う。ただ別れを悲しんでいた序盤から、数々の苦難が昇華したような深い調べに変わっている。


 曲は静かに終わり、仁美はだらりと腕を下げた。


 ゆらりと揺れるように立ち上がり、彼女はゆっくりと車椅子に戻った。


「娘とは、生き別れになりました。……咲良は娘の身代わりです。あの子をどうか、傷つけないでください」


 仁美はしゃんと前を見つめてそう言った後、電池が切れたように項垂れた。

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