第42話 涼真の家で

 涼真りょうまさんの自宅は、法観寺の五重塔を見下ろす高台にあった。エントランスにコンシェルジュが常駐している、ホテルみたいなマンションだ。


 高層住宅を建てることが出来ない地区としては、一番高層階の五階。広いリビングには四人掛けのソファーとテレビがあり、ダイニングには大きめのテーブルがある。


 私のために、一番奥の洋室が用意されていた。いつ入籍しても良いようにと、ベッドやサイドテーブル、洋服ダンスとチェストが添え付けられていて、内側から鍵を掛けられるようになっていた。


 どの家具も無垢の木でできた上質な物ばかりだ。スーツケースの中にあるのはワゴンセールの洋服ばかり。タンスに頭を下げて謝るように衣類をしまった。


 涼真さんは仁美さんへセーターを届けに行ってくれている。いない間に掃除や料理をしてもいいというお許しを貰い、合鍵を受け取った。私は腕まくりをして雑巾を手に取る。


 せめてものお礼に、プロの腕で家中をピッカピカにしちゃおう!


 とは言え、散らかったところは全くない。正確に言うと、散らかっていないどころではない。生活感そのものが欠落している。


 掃除は、定期的に家事代行サービスを利用しているらしい。最終の利用が先月だから、そろそろ埃が溜まっているかもと涼真さんは苦笑いしていた。


 確かに、家具の上にはうっすらと埃が積もっている。これは磨き甲斐があるぞ。今日はラベンダーの精油を少量使うのだ。職場と同じ香りだと、くつろげないもんね。


 革張りのソファーを磨きながら、全く傷んでいないことに驚く。リビングはショールームみたいに、人の気配が感じられない。ここに一人で暮らしていて、涼真さんは寂しくないのだろうか。


 壁際にはローチェストがあって、綺麗なグラスと半分くらい中身の減った洋酒のボトルが置いてあった。それだけが、生活の気配だった。寝る前にお酒を少し飲むと、前に話していた。家に帰ってきて、スーツを脱いで、シャワーを浴びて、洋酒を飲んで眠る。そんな姿を思い浮かべると切なくなり、グラスをそっと持ち上げた。重量のあるグラスには、繊細なカッティングが施されていた。


 洋酒の瓶の横に、伏せられたフォトフレームを見付けた。真っ白なフレームに思わず手を伸ばしてしまう。


 表を向けて、私は猛烈に後悔した。


 涼真さんが、女の人と腕を組んでいた。とても美しい人だ。身につけているのは地味なデニムのワンピースだけれど、はっと目を惹く華やかさに包まれている。こちらを見つめる瞳は、強い意思を持つ人特有の輝きが宿っている。涼真さんは彼女の方へ少し首を傾けて微笑んでいた。隣にいる人の事を、心の底から愛しいと感じている、そんな表情だ。


「見るんじゃなかった」


 白いフレームを元の位置に戻して、呟く。


 何時だったか、涼真さんは私のことを、この人と似ていると言っていた。確かに背格好は似ているのかも知れないけれど、足元にも及ばない。まるで出来の悪いイミテーションみたいだと、艶やかなチェストの表面に映る自分を見つめた。


「何言ってんの。そもそも、偽物なんだよ」


 そう言って、両頬を叩く。自分は期間限定の、契約上の婚約者なのだ。勘違いしてはいけない。


***


 エレベーターを降りると、甘い醤油の匂いが鼻腔をくすぐった。夕食時に家に帰るのは久しぶりだとぼんやりと考えていたら、匂いは自宅から漂っている。新鮮な驚きでドアを開けると、パタパタと足音を響かせて咲良が走って来た。俺は思わず息を飲んだ。


 水色のエプロンを着た咲良さらが、一瞬美葉みよに見えた。


「お、おか、お帰りなさいませ!」


 咲良が身体を折り曲げるようにして頭を下げる。右手に菜箸、左手にお玉を持ち、その手を水平にあげている。飛行機の真似をしている子供みたいで、思わず吹き出してしまった。咲良はハッと顔を上げ、次の瞬間顔を真っ赤に染めた。滑稽な姿に気付いたのだろう。慌てて身体の前で手を合わせる。


「ただいま。お玉と菜箸両手に持って、何作ってたん」

「えっと、今まさに味噌を溶こうとしていたところで……」


 ハッと咲良は顔を上げた。


「吹いちゃうっ! 焦げちゃうっ!」


 くるりと回れ右をしてバタバタ走っていく。知らず知らずのうちに笑い声を上げていた。食欲をそそる匂いに満ちたリビングは、いつもよりも華やいで見える。


「すぐできますのでっ!」


 キッチンには慌ただしく手を動かす咲良がいる。俺はネクタイを緩めた。心もホッと緩んでいくような気がした。上着をソファーの背もたれに掛けて首をぐるりと回す。ああ! と咲良が声を上げた。


「私! 失敗しましたね! お帰りなさいませは三つ指ついてですよね! ご飯にするかお風呂にするか、お伺いもせずに先に食事の準備をしてしまって! ……ああ! そうだ! 上着とお鞄をお預かりしなければ! ああ! 焦げちゃう!」


 キッチンからこちらに駆け寄ろうとするとフライパンが煙を上げ始め、コンロの前で右往左往する。笑いが止まらなくなる。腹を抱えて笑ったのは、何時以来だろうか。


「昭和のホームドラマとちがうんやから、普通に出迎えて」

「はい……」


 シュンと身体を丸めて咲良がこちらに歩いてくる。咲良には、水色よりも暖色系のエプロンの方が似合うと思った。そう言えば、過去に女性がおいて行ったエプロンを手渡して、美葉の機嫌を損ねたことがあったな。


「エプロン、今度咲良に似合うの買いに行こう」

「え? どうしてです? こんなに綺麗なエプロン、勿体ないですよ」


 きょとんとした顔でそう言ってから、ハッと口元に手をやった。


「このエプロン、もしかして大切な想い出の品だったとか……。すいません、勝手に使って……」

「いや、そう言う意味と違うて……」


 手の平を翳して否定する。エプロンの存在自体、忘れていたのだ。他にもありそうだと思いながら、ポリポリと頭を掻く。


「僕、そう言う女性の遺留品に無頓着らしいねん。洗面台に口紅とかアクセサリーとか置きっぱなしになってたり……。そういえば、美葉が使ってたシャンプーもそのままや。そういうの見て感傷に浸る趣味はないから、見付けたら捨ててくれてええし……」

「いえ、シャンプーだったら、勿体ないから使います。他のも、一応確認します。勝手に捨てるのは……。写真も、飾ってあっても私気にしませんから」

「写真?」


 咲良の視線が一点に向いた。その方向へ首を巡らして、存在を思い出した。


 どこかへ出かけた折に二人で撮った写真を、折角だからと美葉が飾ったのだった。別れた当初は酒を飲みながらちらちらと眺め、胸の痛みに浸っていたが、最近はその存在も忘れてしまっていた。


 大体ここには寝に帰るだけだ。早く帰ろうと思えば可能なのだろうが、この広い部屋に一人でいるのもなんだか間延びした感じがする。幸い仕事はしようと思えば無尽蔵にある。帰ってきたらシャワーを浴びて酒を飲んで寝る。そんな生活が身についてしまっている。


 俺は写真立てから写真を剥がした。久しぶりに美葉の顔を見たが、驚くほど何の感情もわかなかった。ああ、こんな日があったなと思うくらいだ。


 写真をゴミ箱に捨てる。


 咲良が心配そうに瞳を潤ませてこちらを見ている。似ていると思っていたけれど、咲良は咲良で、美葉は美葉だと改めて思う。


 豊かな感情を余すことなく表に出す、彩り豊かな咲良。


 胸が締め付けられるように熱くなる。咲良の髪に手を置くと、抱きしめたいという衝動が沸いた。


 慌てて手を離し、一歩身体を離す。家に招いて初日に距離を詰めたら誤解を招いてしまう。これは彼女を守るのが目的なのだ。


「今日のご飯、なんやろ?」

「あ、そうだった……。すぐ用意します」

「いそがんでええよ。部屋着に着替えてくるから」


 頬を赤く染めたまま、また駆け出そうとする咲良を制する。慌てて皿を割りかねない。

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