第34話 自転車の荷台
塀の影にその姿を見付け、思わず溜息をつく。隣で
前回はランナーに扮していたが、今日はママチャリに跨がっている。成る程、自転車通勤の
そうはさせじと社屋正面にある来客用の駐車スペースに車を停めた。時間を気にする美雪を先に戻らせ、正面玄関から敷地をぐるりと回り、背後に回り込んで自転車の荷台に跨がった。荷台に尻を付けていないからか、
しばらくして門が開き、咲良が自転車を押して出てきた。裏門を閉めてから自転車に跨がり、走り出す。すかさず瀬戸口もペダルに足を掛ける。俺は荷台に腰を下ろし、両足を地面について強く踏ん張った。瀬戸口の状態が、前方に大きくつんのめる。
「お前、ほんまに警察官?」
声を掛けると、瀬戸口は驚いた猫のように飛び跳ねた。
「く、くぅ……」
悔しそうに呻く。俺は嘆息し、人差し指で咲良とは反対方向を指さす。
「行くで」
「ど、どこへ……」
「ちょっと離れたとこ行って話ししようや」
肩に肘を置いてにやりと笑う。瀬戸口は不快そうに眉を寄せた。
「お前と二ケツかよ」
「ほは、レクサスで行くか? 警察へ」
くそっと吐き捨てるように言って、瀬戸口はペダルを漕ぎだした。
自転車の二人乗り、というのは随分久しぶりだ。自分の育った環境下ではそもそも許されない行為だ。見つかれば「はしたない」と叱られるだろうし、荷台の付いたママチャリに乗っている友人など周りにはいなかった。
いや。
そう言えば小学生の頃に荷台に跨がってあちこちでかけていた時期がある。
あれは、三年生くらいの頃、だったろうか。
通っていたのは幼稚園から大学までエスカレーター式の、良家の子息が通う私立学校だった。しかし、たまに「良家」というカテゴリーからはみ出す子供も混ざっていた。
彼はお笑い芸人の息子だった。いがぐり頭でおしゃべりで、冗談を言って周りの人間を笑わせるのが得意だった。クラスの中ではかなり浮いた存在だったが、
彼の自転車は大人用のママチャリだった。身体よりも随分大きな自転車を器用に乗りこなす姿は、鳥のように自由に見えた。俺はその荷台に乗るのが大好きだった。彼の活動エリアは色んな匂いがした。いわゆる下町の商店街だ。ソースの焦げた匂いや合成された甘味料の匂い。ショルダーバッグを小脇に抱えてふらふら歩くおじさんは酒の臭いをプンプンさせていた。
色んなにおいの風を切っていると、自分も自由な鳥になれた気がした。
ある日父の前で彼の事を話題にしてしまった。父は眉間に皺を寄せた。
『付き合う相手は将来利益をもたらす人間に限りなさい。そんな浮き草みたいなことをしている親の子供とは付き合うな』
矛先は、母に向いた。
『お前の監督不行き届きだ。交友関係くらい見張っておかないか』
母は無表情で夫に『申し訳ありませんでした』と頭を下げた。
翌日学校から帰ると、クラス名簿が机上に広げられていた。全員の名前に、赤いボールペンで○か×が付いていた。どうやら友達になって良い人間のリストらしい。お笑い芸人の子供の名前には、大きな×が付けられていた。
「んで! どこいくんだよっ!」
ハーッと息を吐きながら瀬戸口が言う。俺はハッと我に返り、辺りを見回す。細い路地の両脇には、古い家屋が並んでいる。その一角を指さした。
向かったのは会社近くのカフェだ。京町屋を可愛らしくリノベーションしたもので、スペースデザイン部門の見奈美という女性設計士がデザインを担当した。京町屋の情緒を際限なくそぎ落としているのが気にくわないが、人目に付きたくない話をする時には重宝する。四人掛けのボックス席が一列に奥に向かって並んでいる造りなので、ここで誰が誰とどんな様子で過ごしているのか、間近に行かなければ分からない。
最奥のボックス席に向かい合う。窓は格子戸で、中から外の風景は見えるが外から中は見えない。窓の外には桂川と鴨川の合流地点である佐比の河原が見えていた。賽の河原の由来となった場所だ。嘗てここでは野辺の送りが執り行われており、地蔵や小石塔が建てられていたと言う。
「ストーカーご苦労さん。今日は家までついていくつもりやった?」
「こ、これも、任務の一環で……」
モゴモゴと聞き取りにくい声で言う。短髪は不細工に跳ね上がっていて、目の下には隈ができている。どんな任務かは知らないが、忙しいのは確からしい。俺はトントンと机を指ではじいた。
「昨今おまわりさんやからって、善人とは限らんからな。本人が教えようとしない個人情報を、不法に得ようとするのは犯罪やろ」
「違うって! もう一回本人に連絡先を教えて欲しいって頼むつもりだったんだよ。ただ、会社の前だと彼女も人の目を気にするから、ちょっと離れたところで声を掛けようと思ったんだ。自転車の後を付けるなら、こっちも自転車じゃないとまずいだろ? 走って追いかけたり車で追いかけたりしたら、いかにも怪しいじゃん」
「後を付けるつもりやったのは、認めるんやな。おまえ、まだ咲良に未練があるのか?」
頬がさっと赤くなった。本当にわかりやすい奴だと、奥歯を噛んで笑いを堪える。
「お前が元彼だと、咲良から聞いた」
「え、ええ!?」
瀬戸口は目を丸くして身を乗り出す。
「そして、介護士をしているとも聞いた。……あの警察手帳は、おもちゃか?」
「違う! 本物だ! 介護士の方が嘘……。あ……」
椅子の背もたれに背を預け、腕を組んで瀬戸口を睨む。瀬戸口の視線が忙しなく左右を彷徨っている。
メイドのようなエプロン姿の女性がオーダーを取りに来て、異様な空気に一歩後退った。俺は彼女に手を上げてアイスコーヒーを注文した。瀬戸口も同じものを頼み、手渡されたおしぼりで額を拭う。汗をかいているようだが、それが自転車のせいなのか動揺のせいなのかは判別が難しい。
「何故嘘をついて彼女に近付こうとするんや?」
オーダーで間が空き、瀬戸口は少し冷静さを取り戻したようだ。正面から俺を見て答える。
「それは、捜査に関することだから言えない」
「と言うことは、やはり彼女に何かの容疑が掛けられているということやな?」
戦う気ならば受けて立つと、視線を正面から受けた。彼は小さく首を横に振る。
「容疑者ではない。彼女が何かしたわけでは無いので、雇用関係を見直そうなんて思わないで欲しい。彼女自身がコンプライアンスに反することは何もしていない。これ以上は、雇用主のあんたにも話は出来ないし、する必要は無いと判断する」
警察権力を傘に逃げようというのか。そうはさせない。容疑者ではない人間を警察が追う理由はなんだ。俺はそれを知らなければならない。
俺はカードを一枚切ることにした。
「そういう訳には行かん。社長として従業員の安全を守る義務がある。そして彼女は俺の婚約者や。婚約者へのストーカー行為を黙認するわけには行かん。容疑者ではない人間をつけ回す理由を話せ。なんならお前の上司から聞こうか?」
「こ、婚約者!?」
瀬戸口は身体を大きく後ろに引き、唇をワナワナと震わせた。背もたれが立てたがたんという音が格天井に反響する。やはり、こいつは咲良に気があるのだと俺は確信した。咲良をつけ回しているのも、復縁を迫ろうとしてのことだろう。そうはさせない。
だが、ふと疑問に思う。
二人が出会ったのは関東で、高校を中退して咲良は関西に流れてきた。こいつはどういう経緯で京都に来たのだろう。咲良を追ってという事であれば、とっくの昔に咲良の前に姿を現しているはずだ。
「つかぬ事を聞くが、お前は警察官になって何年になる?」
突然の質問に瀬戸口は狼狽える。衝撃の後の不意打ちに頭が付いていかないようだ。視線を彷徨わせてから、頭をポリポリと掻く。
「五年目だが……」
ふうん、と俺はわざと間をおいた。瀬戸口が眉間に皺を寄せ、疑問符を付けた視線を向ける。
「京都県警に五年。京都の地方公務員になって五年やな。と言うことは、少なくとも五年、咲良の身辺を嗅ぎ回っていたと言う事か?」
「違うと言ってるだろ。俺が追ってるのは、別の人物だ」
そう言ってから、ハッと息を付いた。俯いてガリガリと頭を掻く瀬戸口に、俺は冷めた視線を送る。
「別の人物、とは?」
顎をしゃくり続きを促すと、瀬戸口は諦めたように息を付いた。
「そいつが最近彼女にモーションを掛けた。自動的に俺も彼女を見付けた。相手の狙いは分からないが、多分ろくな事ではない。彼女の安全を守るために、近くにいたい。だから、連絡を取り合える関係でいたいんだ」
俺は顎に親指をおき、「別の人物」について、思考を巡らせる。咲良が極普通の生い立ちではないことは確かだ。だとしたら、「別の人物」は例の事件の関係者なのかも知れない。
だが、自分の思考は腑に落ちなかった。
あの事件に関して、咲良の立ち位置は極離れた場所だ。当事者ではないし、その家族でもない。親に反発した咲良が助けを求めた先で、たまたま事件が起こったに過ぎない。
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