第33話 冤罪

 夕方と夜の境目の空は、オレンジと青のグラデーションを描いていた。その不可思議な色合いを、病棟の窓硝子が映し取っている。


 今日は何故あんなにも多くの告白をしてしまったのだろう。輝季こうきの事にせよ美葉みよの事にせよ、ずっと胸の内に秘めておき、生涯外に出さないと決めていたのに。咲良さらといると何故かガードが無効化されてしまい、胸にあるものを吐き出してしまう。


 美葉の話をしている時に、彼女と咲良の決定的な違いを見付けた。


 それは、瞳だ。


 美葉の瞳は強くて真っ直ぐで、物事の核心を素早く見付ける力を持っていた。一方の咲良の瞳は、常に大きく揺れ動いている。


 咲良の瞳は、感情を映す鏡だ。心に沸いたほんの微小な動きが、つぶさに瞳に現われる。その動きから派生して、唇や頬が大きく動いていく。咲良はとても、豊かな表情を持っている。


 あんまりにも無防備に内面を自己開示するものだから、こちらもつられて心情を吐露してしまうのかも知れない。


 彼女の瞳の動きはとても魅力的で、その豊かな表情はとても好ましいものだ。普通の人生を送るのであれば。


 良くもまぁ、今まで無事に生きてこられたものだ。


 四月一日仁美わたぬきひとみという加害者家族と共に生きるには、多くの秘密を抱え込んでいかなければならなかっただろうに。


 改めて事件の記事を読むと、四月一日夫妻は同じ私立高校の教師であったと分かった。彼女は音楽の教諭であり、吹奏楽部の顧問だった。『四月一日仁美』と検索すると、沢山の生徒に囲まれて、コンクールの賞状を持つ彼女の画像を見付けることが出来た。


 SNSは夫妻のどちらも全くやっていなかったようだ。家族関係を暴露するサイトには娘がいるとか、不妊治療をしたが授からなかったとか、男が二人とか女が三人とか、情報が錯綜していた。だが、今の状況を見ると子供のいない夫婦というのが正解なのだろう。だから咲良を娘のように不仲な親から匿ったのかも知れなかった。咲良のためを思うなら、事件をきっかけに手放すべきだったろうけれど。


 はっきり言って四月一日仁美には陰性感情しか抱いていなかった。しかし、今日楽しそうに談笑する姿と、それを見て涙ぐむ咲良を目の当たりにして考えが変わった。


 どんな人生であれ、最後は穏やかであるべきだ。彼女の最期を満たすため、尽力してやりたい。


 残されて、これからも生きて行く咲良のために。


 その為には、仁美から事件について話を聞かなければならない。事件について、お互いにどのような立ち位置を取るべきなのか定めておく必要がある。


 咲良に対して、俺が事件を知っている者として接するのか、知らない振りを通すのか。どちらの立場を取るべきか、悩ましいところなのだ。


 丁度夕食の時間のようで、病棟には出汁の香りが淡く漂っていた。仁美の部屋の前に立ち、そう言えばネームプレートに名前がないと気付いた。個人情報の取り扱いにうるさい時代なので、希望すれば入り口のネームプレートは非表示にできるのだろう。個室を希望したのは、その個性的な氏名から素性が知れ渡るのを避けるために違いない。死を迎える仁美が後ろ指を指されないようにとの、咲良の思いやりだ。


 ノックをすると、小さな返事があった。怖じ気付く気持ちを深呼吸で収めドアを開ける。仁美のベッドは起こされており、膳に夕食のトレーが乗っていた。だが、仁美は盆を遠ざけて文庫本を広げている。


「今晩は。食事時にすいません」


 驚いて瞬きをする仁美に会釈する。初対面の時よりは顔色が良く、驚いた顔に咲良の面影を見付けることが出来た。


「いいえ、食事はもう済みましたから」


 彼女はしおりを挟んでから文庫本を閉じた。夕食には手を付けた跡がなく、思わず問いかけてしまう。


「食欲、ありませんか」

「ええ。胃はガンで細くなっていて、食事が入っていかないんです。もっとも、今日はおやつを食べ過ぎてしまったせいもあるんですけれど」

「おやつ?」

「ええ。子供みたいでしょう」


 目を細めて仁美は笑った。こんな風に柔らかく会話が出来る人なのかと驚く。昼間の人の輪が、彼女の心をほぐしたのかも知れない。


「今日、咲良と庭で食事をしていたんですよ。その時楽しそうな笑い声が聞こえてきました。お茶会ですか?」

「ええ、そうなの。気が進まなかったんだけど、看護師さんに強引に連れて行かれたのよ。でも、行って良かったわ。女っておしゃべりも栄養になるのよ」


 微笑む彼女の肩越しに、ベッドネームがチラリと見えた。「四月一日仁美様」と記載されている。俺の視線に気付いたのか、彼女は枯れ木のような身体を捻り、ネームプレートを指差した。


「当然、調べたのでしょう? どこまで行き着きましたか?」

 機械的な口調で仁美が問う。嫌な汗が額に滲み、手の甲で拭った。


「旦那さんが事件を起こし、あなたがえん罪だと週刊誌に訴えた。そこまでです」


 仁美さんは探るような視線を俺に向けていた。


「咲良を巻き込んでしまって申し訳ない」


 その視線のまま、そう言った。まるでAIの声のように抑揚も感情も欠いていた。俺は眉をしかめて言葉の真意を推し量る。


「そう、ですね。僕の解せんところは、そこです。あなたが咲良を親元に帰していたら。咲良の親も、無理にでも連れ帰ろうとせんかったのか」


 俺がそう言うと、彼女は口元に笑みを浮かべて頷いた。


「その通り。……もっと早く自立させるべきだった。あの子が一人暮らしを始めようとしたタイミングで、胃癌が見つかって。私が病気になったせいで、あの子を縛り付けてしまったのよ」


 笑みは一瞬で後悔に飲み込まれていった。彼女は視線を下げ、唇を噛む。追い打ちを掛けるのは忍びない。しかしどうしても聞いておきたいことがある。


「週刊誌に訴えたのが傷口を広げたと思います。心中お察しいたしますが、あれのせいで顔が表に出てしまったでしょう?」


 額に深い皺が寄る。苦いものを噛んでしまったように顔を歪め、仁美はしばらく瞑目した。やがて開いた目は赤く染まっていた。


「あの時は、ああするしかなかったんです。どんなにえん罪だと訴えても、誰も取り合ってくれなかった。週刊誌を介して陳述するしかなかったんです。……でも、それは確かに間違いでした。あの書き方じゃ、夫の罪で頭がおかしくなった女の戯言です。私の伝えたかったことは、何一つ伝わらなかった。夫は、自殺したんじゃない。殺されたんです」


 写真とそっくりな表情で仁美が訴える。俺は思わず視線を逸らした。


「夫が容疑者になった根拠は、岡田貴和子おかだきわこの証言と自宅の防犯カメラの映像です。防犯カメラには、家に入っていく夫の姿が映っていました。岡田貴和子が帰宅したのは、夫が家に侵入して間もなくのことです。自宅には既にガソリンの匂いが充満していたそうです。リビングには倒れた岡田和成おかだかずなりと夫がいて、ガソリンのポリタンクが転がっていた。夫がマッチを擦り、床に放り投げると火の手が一気に回った。夫はすぐに現場から逃走した。貴和子も避難した。これが貴和子の証言です。家は全焼し、残された遺体には首に絞められた跡があった。司法解剖の結果、死因は『絞殺』と判明しました」


 仁美の声は、カサカサに掠れていた。


「あの日、電話がかかってきて、夫は血相を抱えて飛び出していきました。あんまり慌てていたので、財布を忘れていきました。免許証が入った財布です。そんなこと、今まで一度もありませんでした。電話を耳に当てたまま飛び出したので、携帯電話を持っていたのは確かです。次に会った時には、遺体になっていました。山中に車を停め、その中で練炭を炊いて自殺した、と結論づけられています」


 黄色く濁った白目が赤く充血し、大きく見開かれる。


「おかしいと思いませんか? お金を持っていなかったのに、どうやってガソリンやマッチや練炭を購入したんでしょうか? 持っていた電話は二つ折りの携帯電話で、決済を行えるような機能はついていませんでした。車に現金を置いていたのかも知れませんが、おつりもレシートも見つかっていません。それだけではありません。持っていたはずの携帯電話も、見つからなかったんです」


 俺は眉を寄せ、仁美を見つめた。


「携帯電話が、無くなった? どこへ、消えたんです? ガソリンや練炭の購入について、何か調べたりせんかったのですか? ホームセンターの購入履歴とか……」


 仁美は強く首を振った。文庫本の上で、土色の手が震えている。


「調べてくれませんでした。どんなに訴えても、調べてくれませんでした。携帯電話は事件の証拠を隠滅するため自分でどこかへ捨てたのだろうと言われました」

「警察は何故、捜査しなかったのでしょう?」


 仁美に尋ねても仕方の無いことだが、口に出さずにはいられなかった。頭が混乱し、胃液のようなものが喉に込み上げてきた。仁美の土気色の指が、ベッド柵に絡まった。彼女はこちらに身を乗り出した。まるで、映画に登場するゾンビのようだ。


「私、夫の遺体から服を脱がせ、身体を調べたんです。棺桶に入っている夫の……。夫の左の脇腹に、小さな傷がありました。真四角の、火傷みたいな赤い傷です。色々調べて、スタンガンを当てた傷跡にとてもよく似ていると思いました。すぐに事件を担当していた警察官に伝えましたが、事件との関連性は調べて貰えませんでした。『被疑者死亡のまま書類送検』というピリオドを早々に打った後は、『捜査終了』の一点張りで、警察はてこでも動いてくれませんでした。だから、週刊誌に訴えたんです。担当の記者は『正義のために戦いましょう』と言っておきながら、あんな……。あんな記事しか書いてくれなかった……」


 仁美は枯れ木のような手で顔を覆い、肩を震わせる。俺は途方に暮れるしか無かった。彼女のために出来ることを探しに来たのに、そこにあったのは真っ暗な泥沼だった。


 正直なところ、そんなものに足を突っ込む気にはなれない。俺は事件から距離を置くことに決めた。咲良から何か切り出してこない限り、何も知らないという立場を貫く。

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