第32話 元婚約者のこと
「検品って、何ですか?」
緩やかな坂道を上りながら、私は涼真さんに聞いてみた。涼真さんは困った顔をしただけで、答えてはくれなかった。
お母様の家を出たのは昼前で、どこかで食事をしようと誘われたけど、胃袋がひっくり返ってしまって何も喉を通りそうに無かった。正直にそう告白すると、
暖かい陽気が気持ちよかった。木製のベンチはぬくもっていて、腰を下ろすとカチンコチンになっていた身体が解けていく気がした。私が長い溜息をつくと、涼真さんがポンと頭に手を置いた。
「色々、嫌な思いをさせてゴメンな。検品ていう言葉も、失礼やった。あれは、この前の人間ドックの事。ほら、事前にブライダルチェックをしろと必ず言われるって、言うたやろ?」
ああ、と私は頷いた。色々ありすぎて、人間ドックを受けたのが遠い昔の出来事みたいに思えた。
「私何も気にしていませんよ。それどころか、感謝です。涼真さんは私を守ってくださいました。お母様の反応は、当然のことだと思います」
「あの人はブランド志向やからね。自分の基準値に適合しない女性を認めようとせぇへんのや」
侮蔑の感情を存分に込めて涼真さんが言う。
『……あなた、よっぽどみすぼらしい女性がお好きなのね』
『よっぽど』って、言ったよね。と言うことは、私の前にも瑞恵さんに「みすぼらしい女性」を紹介したって事なのかな。
その相手に、思い当たる人がいた。
「前に、結婚を考えた人がいると仰ってましたけど、その方もお母様のお眼鏡にかなわなかったんですか?」
聞かなくてもいいことなのに。言葉に出したら胸がチクチク痛くなった。サンドイッチをかじりながら涼真さんは小さく頷いた。その頷きはチクリっと大きな一撃を与えた。
「どんな方……だったんですか」
「どんな方……」
なんで、聞いちゃうの。軽々しいこの口を針と糸で縫い合わせてしまいたい。
涼真さんは溜息をついた。そんなことを聞けば私は必ず傷付くし、涼真さんを困らせる。分かりきったことなのに。
「実家は田舎の万屋さんで、あんまり繁盛しているとは言いがたいかな。建築デザイナー志望やけど、大学へは行かず働きながら学びたいという希望があった。それで、うちで実務を経験しながらデザイナーを目指すことになった。働きながら通信制の大学に通う頑張り屋さんやったな。彼女のデザインする建築はぬくもりがあって斬新で美しいと評判やった。やめてからやけど、賞も取ったしね」
「あ!」
思わず私は声を上げた。リノベーションされたコンドミニアム。あの美しい建物をデザインした人だ。
「そう、優秀建築賞を受賞した
涼真さんは膝に手を置いて遠くを見つめた。
「彼女には地元に恋人がおって、結婚退職する意向を示していた。けど、諍いが起こって別れ話に発展してしまった。僕はその隙を突き、彼女を口説き、既成事実を積み上げていった。彼女は僕を一生懸命好きになろうと努力していたし、社長の恋人は社長夫人になれるかどうかの査定期間やと言う事も理解していた。僕はこの通りちょっと年を食っているから、急いで結婚相手を決める必要があって、迷っている時間が無いのも理解していた。彼女のそう言う、賢くて阿呆みたいに強い責任感を利用して、結婚へと駒を進めていった」
溜息をついて、空を見つめる。涼真さんは今、その谷口美葉さんという人姿を、思い浮かべているんだろう。私は涼真さんの膝に置かれた、二つの手の平を見つめていた。その手は谷口美葉さんの髪を梳いたり、身体に触れたりしていたんだと思うと、泣きたいような気持ちになった。
「けど、彼女の心はずっと元の恋人を求めていた。……時間が経てば、心は僕の方へ向いたかも知れへん。彼女は現状の中で幸せを見付けていく人やしね。知らん顔してそばにおるという選択肢もあったけど……。彼女を幸せにする自信が持てなくなって、彼の元へ帰れと背中を押したんや」
苦しくなって顔を上げた。病棟の窓硝子には綿雲が映っていて、ゆっくりと窓のフレームから流れ去り、また新しい雲へと入れ替わって行った。私はこの雲のように、様々な人の前に現われては何の印象も与えずに消えていった。涼真さんにとっても、いずれ私は通り過ぎる雲の一つになるのだろう。けれど谷口美葉という人は、涼真さんの心にしっかりと存在を残し、彼を悲しい気持ちにさせている。
「後悔しているんですか?」
「いいや」
問いかけると、涼真さんは意外にもきっぱりと首を横に振った。
「彼女が幸せであった方がええかな。あのままモヤモヤしたものを間に挟んで一緒におるよりは。……彼女との時間は、僕の大切な想い出。恋愛に本気で挑むと、そりゃあ大変なエネルギーがいるってよう分かった。あんなんは一回で充分や」
言葉の破片が私の耳朶をサバサバと切り裂きながら空気に消えていった。
この人のことを好きになったらきっと凄く悲しい思いをする。喉の奥が塩っぱくなって、私はホットサンドにがぶりと噛みついた。
この人を好きになりたくない。好きになったら、側にいるのが辛くなる。好きになったら、その心が欲しくなる。けれど、この人は絶対に私のことを好きになんかならない。
ツナサンドが、やけに塩辛い。それを、くだらない考え事と一緒に呑み込もうとして、喉が詰まりそうになった。
私は目を閉じて、喉元に手を当てる。
でも、もう手遅れだ。と、悲しいくらい鮮烈に思った。
私は涼真さんの事を、好きになってしまっている。多分、最初に会った瞬間から。
報われない気付きに、息が詰まりそうになった。
どこからか、笑い声が聞こえてきた。数人の女性のものだ。声は私達の右側の木立の向こうから聞こえてくる。植栽の間からテーブルを囲む女性達の姿が見えた。病衣の上に上着を着込んでいるから、ここに入院している患者だと分かる。中には頭にターバンを巻いた女性が混じっている。
「お砂糖を我慢してるやなんて、ナンセンスやわ。甘いもん好きなんやろ? 生きてる間しか食べられへんのやで」
朗らかな言葉を笑い声が包んでいく。その中に仁美さんを見付けて息を止めた。仁美さんは目を細め、口を大きく開けて笑っていた。
こんな風に笑う彼女を初めて見たのではないだろうか。途端に記憶の扉がギイっと開いてその考えを否定した。
「へぇ、楽しそうやね。女性はいつも、三人以上集まると賑やかになる。羨ましいね。……叔母さんも、混じってはるね。あんな風に笑いはる方なんやね」
涼真さんも彼女らに気付いたようで、切り替えるようにそう言ってホットサンドをかじった。私は笑っている仁美さんを見つめながら、また泣きそうな気持ちになった。
「本当は、ああいう感じの人なんです。優しくて、朗らかで、人に好かれる人です。いつだって沢山の人に囲まれていたし、楽しいことを考え出すのが得意な人で……」
目頭が熱くなって、人差し指で押さえる。そんな彼女の事を、多分私はとても好きだった。
「入院して良かったです。こうやって笑い合う時間を持てて、本当に良かった……」
本当は、個室じゃなくて大部屋の方が良かったのかも知れないと、ふと思った。けれど、その考えをすぐに振り払う。私が望んで、涼真さんが手配してくれたのだ。何を今更。
笑う仁美さんを見つめながら、私は祈った。
この穏やかな時間ができるだけ多く彼女に与えられますように。
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