第30話 輝季の墓
「目的地に行く前に付き合って欲しい所がある」と、
連れて行かれたのは、小さなお寺だった。まだ花を付けていない紫陽花に縁取られた参道を、竹藪が取り囲んでいる。竹藪は辺りを翡翠色に染めていた。静寂を縫うように、凜とした鶯のさえずりが響く。
お寺にお参りに行くのかなと思っていたけれど、涼真さんの歩は脇の小径にそれた。石畳は細く長く続いていた。由緒あるお寺のようで、石畳は古い。隙間にヒールの踵がはまらないように慎重に歩く。今日は特別な人に会う日だから、涼真さんに頂いたスーツを着ていた。
慎重に歩いているつもりだけど、足元が滑ってよた付いてしまう。涼真さんがくっと喉を鳴らして手を取ってくれた。
大きくて、ひんやりとした手だった。トクトクと胸が鳴る。その振動が手の平越しに伝わらないか不安になる。
小路は、墓地に続いていた。涼真さんは迷うことなく中に進み、奥まった場所にある、他のものよりも一回り大きな墓石の前に立つ。「田中家代々の墓」と墓標には記されていた。
「
少し照れたように涼真さんが言う。口元の笑みが、何となく寂しそうに見えた。その笑みからすっと目をそらし、再び墓石を見た。そこへ涼真さんの手が伸び、そっと撫でた。まるで小さな子供の頬を撫でるみたいに。
「
子供に言い含めるような口調だった。私は居住まいを正し、墓石に頭を下げる。
「畑中、咲良、と申します」
ふふ、と涼真さんが笑った。
「真面目な人やろ」
墓石に向かって言う。おかしな事をしただろうかと肩をすぼめて涼真さんを見ると、彼は泣き出しそうな顔をしていた。慌てて目をそらす。涼真さんの足元に水たまりのような影があり、私はそれを踏んでいた。そっと身体をずらし、足を影の外に出す。
「輝季が亡くなったのは十三歳。もう、十七年前になる。ほんまやったら、昨日三十歳になるはずやった。……ずるいな、僕ばっかりおじさんになる」
涼真さんの声は苦い笑みを湛えていた。私は黙って、涼真さんの影を見つめ続けた。
「兄のように慕っていた人の息子で、ほんまの弟みたいな存在やった。ほんわかと浮世離れしてて、いつもニコニコ笑っている、そりゃあ可愛らしい子やったな……」
そう言って、涼真さんはまた墓石を撫でた。十三歳でこの世を去った、という事を上手く飲み込めず、ぼんやりとその手を見つめる。そんな年齢で亡くなるのは、どんな事情なのだろう。生まれつき持病があったのか、事故か、それとも。浮んだことを確認する前に、涼真さんの声が続いた。
「知的障害があっんやと思う。そやけど、父親がそれを認めようとせず、診断を受けることなく普通学級に通っていた。僕が一生懸命勉強を教えたけれど、漢字もまともに覚えられへんかったし、九九の概念を理解できへんかった。そんな状態で中学生になり、酷いいじめを受けたんや」
涼真さんは、息を吐いた。溜息と呼ぶには長く重い吐息で、ひんやりとした雫のように地面に落ち、影に吸い込まれていった。足元にすっと冷気を感じた。その冷気はざわざわと音を立てながら、心臓に這い上がっていく。
「僕はその時、北海道の大学に通ってたんや。夏休みに、輝季が北海道にやって来た。いじめに合っていたのは、電話で何度も本人から聞いていたから知っていたけど、本人の姿を見て愕然とした。すっかりやつれてオドオドしていて、視線を合わそうとせえへん。僕は、輝季の心を癒やそうとあちこち連れ回して楽しい体験をさせてやった。旭山動物園、富良野の花畑、小樽水族館……。毎日毎日どこかへ出かけた。北海道は外国みたいやと、輝季はいつも目を丸くしていた」
涼真さんは細く息を吐き、空を見上げた。薄曇りの空を、すーっと線を引くみたいに燕が飛んでいた。
「北海道で、良かったんやろうね。遠くに逃げている実感が、輝季に安心感をもたらしたみたいやった。輝季は、元気になった。元の無邪気な男の子に戻った。……安心したら、今度は邪魔に感じるようになった」
「邪魔……?」
意外な言葉に、思わず鸚鵡返しをしてしまった。頷く気配を肩の辺りに感じた。
「当時、付き合い始めたばかりの彼女がおってな。たまにはデートしたいんやけど、輝季は一人になるのを極端に嫌がっててん。四十日やで、夏休みは。彼女は不機嫌になるし、僕も欲求不満が溜まるし。いつの間にか、『早く京都に帰らんかな』と思うようになった。でも、二学期が始まる直前になって、輝季がこのまま北海道にいたいとだだをこね始めたんや。流石にそれはないわと思って、八月三十一日の朝、泣きじゃくる輝季を新千歳空港に無理矢理連れて行って、背中を押して保安検査場に押し込んだ。……その次の日、輝季は首をつって死んだんや」
足元から這い上がってきたざわざわが心臓を掴んだ。私は思わず強く両目を瞑った。涼真さんはまた、重く冷たく湿った息を吐いた。
「自分勝手な気持ちで、輝季を生きていけない世界に押し戻してしまったんや、僕は」
涼真さんは右の手の平を胸の下辺りにそっと上げた。その手には十七年前の八月三十一日に感じた背中のぬくもりがこびり付いているようだった。手の平をそのままにして、涼真さんがまた息を吐く。
「僕は、そう言う人間やねん。冷酷で、自分本位で。……あれから、人の愛し方がよう分からんようになってしまった。多分元々、そんなによく分かってなかったんやろうけど、尚更。いっぺんだけ、ほんまに好きになって結婚を考えた人がおったけど、幸せにする自信が無くて、やっぱり背中を押してしまった。僕の傍からどこかへ行けと。まぁ、彼女の心には違う人がおって、その人のところへ戻るのが彼女の幸せなんやろうなと、悟っただけやねんけど」
どくんと大きく心臓が揺れて、ハッと息が漏れた。耳朶がジンジンと痛くなる。『ほんまに好きになって』という声に切りつけられたみたいだ。
突然に、涼真さんが笑った。ははは、と乾ききった短い笑い声だった。そして何かをクシャリと丸めるように右手を握る。
「重たい話、して悪かった。昨日身内で輝季の誕生祝いをしたら、無性に会いたくなって。実家に向かう途中にちょっと寄るだけのつもりやったのにな」
涼真さんがこっちを見たのが分かり、私もそっと視線を上げた。涼真さんは難しい質問をされたような顔で、少し首を傾けて私を見つめていた。
「こんな話、するつもりやなかってん。輝季の事を、人に話したのは初めてや。引いたやろ? 僕はこういう人間やけど、期間限定と割り切ってくれると助かる」
「引いたりしません」
私は大きく首を横に振る。そして驚いたように見開かれた瞳を見つめた。
「冷酷でもないし、自分本位でもないです。優しい人です。優しいから、今でも輝季さんの事を忘れずにいて、逢いたいと思うんでしょう? 自分本位な人なら、好きな人の為に身を引いたりしませんよ。涼真さんは自分の事を冷酷だとか自分本位だとか、酷い人間の型に無理矢理はめ込もうとしているみたいに見えます。私は涼真さんの傍にいると幸せだし、温かい気持ちになれるんです。色んな人に出会ってきたから、本当に酷い人は傍にいれば分かります。涼真さんは、凄く凄く優しい人です」
一気に捲し立ててしまった。涼真さんはぽかんと口を半分開けた。その顔を見て、ハッと我に返る。
私今、どさくさに紛れて凄いこと言わなかった?
頬が急激に熱くなり、涼真さんの顔を見ることが出来なくなる。足元とか、墓石とか、色んなものに視線を彷徨わせていると、涼真さんはふっと息を吐き出した。ふんわりとした、風にすっと溶けていくような吐息だ。顔を上げると、涼真さんは目を細めて私を見つめていた。
「そうやね。咲良といると僕も幸せで優しい気持ちになる。安心してしまうんやろうか。言わんでええことまで言うてしまうんやなぁ……」
ドドドドドド。鼓動がスタッカートのリズムを刻む。ああ、やばい。このままじゃ心臓が止まってしまう。そう思ってぎゅっと目を閉じると、涼真さんが頭にポンと手を置いたから、スタッカティッシモにまで速まる。
「さて、じゃあラスボスを倒しに行こうか」
そして、その一言で心臓は一止まった。
この人と一緒にいたら、寿命が縮まっちゃう。
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