第三章 交差する思惑

第29話 茶事

 山間の茶室には、静けさに包まれていた。断続的に響く鹿威しの音だけが、空気を心地よく揺らしている。日常の慌ただしさが嘘のようだ。俺はその静けさに、心地よく身を任せていた。


 あの男が来るまでは。


「よ! 毎度!」


 給使口ののれんを開けて、五十代の男が顔を出す。袴の裾をバタバタと翻し、立礼机りつれいじょくという持て成しを受ける机にどっかりと座す。顔には深い縦皺が刻まれ、厳つさを引き立たせている。


保志やすし! どこから入って来るんですか! 一応お客様なんやから躙り口から入りなさい!」


 そう怒鳴りながら給使口に高齢の女性が顔を出す。藤色の訪問着には控えめな牡丹が咲いている。彼女はこの茶室の主であり、下品を代表するような男保志の母駒子こまこである。


「一応がつくんやから、どっからでもええやろ」


 そう言って保志は踏ん反り返る。今日は不機嫌なようだ。その理由は聞かずとも分かる。


「大体、輝季こうきの誕生日祝いが茶事って。こんなんしてもあいつは喜ばんで」

「そやかて、ほんまに誕生日祝いしたら切ないでしょう。なんもせんのも、寂しいし」

「あいつ、生きてたら三十やで。誕生日祝いなんかいらんやろ」

「いいえ、祝います。私が生きている内は、必ず祝います」


 駒子はぴしゃりとそう言って、亭主の席に座る。このやり取りは毎年恒例のものだと思いながら聞き流す。


 俺にとっては、一年で一番やるせない日かも知れない。もしかしたら、命日よりも。


 俺は、この茶道家駒子とその子保志に育てられたようなものだと思っている。


 駒子の元には三歳の頃から通っていた。社長の息子としての行儀作法を身につけるために。


 駒子は茶華道だけではなく所作全般、そして世の理や処世術にいたるまで、上流階級で生きる術を教えてくれた。


 一方で乱暴者の息子保志は、そこからはみ出して面白おかしく生きる方法を伝授した。ピンポンダッシュから始まり、木に登り茶室に訪れる客を水鉄砲で襲撃する、茶室の花を犬の糞を串刺しにした木の枝とすり替える。


 くだらない悪戯から始まり、中学生でパチンコや競馬、高校生で飲酒、社会人になってからはいかがわしいキャバクラと、彼の教授してくれた悪事は枚挙に暇がない。


 保志とは十歳以上年が離れている。俺が大人になる前に彼は結婚し、子供を授かった。違う、授かり婚だから順序が逆だ。それは保志が二十歳の頃だ。


 輝季という彼の子供は、俺の弟のような存在だった。とても愛おしく、大事にしていた。人に対して「愛おしい」と純粋に思った、ただ一人の人間かもしれない。


 輝季が命を絶ったのは、十三歳の九月一日。いじめを苦にした自殺だった。


 輝季の誕生日祝いは最初、駒子一人がひっそりと行なっていた。


 輝季の死によって、各々が一端自分のもつ殆ど全てのものを失った。そこから回復するのは相当な苦労が必要だったし、今も完全とは言いがたい。


 いじめに立ち向かえと学校へ行かせた保志のことを、輝季を殺した犯人だと長年恨んできた。けれど、最近こうやって保志と顔をつきあわせ、誕生日を祝えるようになった。


 心が癒えたのか、それとも少しはまともな人間にになれたのか。


 良くは分からないけれど、この状況を輝季が見たら、喜んで手を叩いているのではないか。輝季が喜んでいるのならば、それでいい。


「なんや、涼真。何がおかしい」


 知らぬ間に口元が綻んでしまった。怪訝そうな顔をしている保志に頭を振り、猪口に口を付けた。ほんのり甘い日本酒の香りが口の中に広がる。


「きっと、輝季が空の上からこの光景を見て笑ってるんやろなと、思って」


 そう言うと、ふうんと保志は不思議そうな顔をした。


***


 茶事とは茶室で頂く茶懐石と解釈して良い。会席料理を頂く目的が、食後の茶を美味しく頂くためというのだから、もてなしの心の奥深さと回りくどさには閉口する。


 茶室の前で亭主の駒子から見送りを受け、表向きは解散となる。駒子の姿が見えなくなるのを確認し、保志が袂から煙草を取り出した。淡い夕陽に紅葉の新緑が揺れるのを眺めていると、紫煙の香りが漂ってきた。こんなところを駒子にみられたら、烈火のごとく怒られるのにと失笑する。


「お前、好きな女でも出来たんか」


 煙を吐き出しながら保志が言う。失笑が苦笑に変わり、馬鹿馬鹿しいという念を込めて頭を振る。


「女遊びはしてへんよ。あれはもう卒業かな。女は面倒や」

「遊びやのうて、本気の奴」

「それこそ……」


 一瞬、咲良の顔が過ぎった。何を馬鹿なと眉を寄せ、言葉を続ける。


「一生あらへん」


 保志はまた煙草をくわえた。二時間に及ぶ会食でニコチンが枯渇していたようだ。深く息を吸い込み、極上のスイーツでも口にしたかのように満足げに煙を吐く。


「頭で決めつけてても、心は勝手に動くもんや。何か、そんな雰囲気がしたんや」

「気のせいや。……そんな面倒な事、もう、ゴメンや」

「そうか?」


 短くなった煙草を地面に落とし、草履で踏みつける。それを屈んで拾い上げ、火が消えているのを目を細めて確認してから携帯灰皿へ放り込む。毎度不思議に思うのだが、喫煙者はこの一連の動作を面倒だと感じないのだろうか。


「もしもそうやったら、それこそ輝季が喜んでると思うんやけどな……」


 保志はそう言って、視線をそっと空に向けた。


 そんなはずは無いと心の中で呟く。知らず俯いたようで、視界に自分と保志の草履が映った。煙草を擦った跡が飛び石に残っている。駒子が見付けて憤慨するだろう。


 ふと耳に輝季の笑い声が蘇った。輝季は同じ年代の子よりも幼く見えた。中学の制服がしっくり来る前に、この世を去ってしまった。


 無性に輝季に会いたくなった。胸が激しく痛み、反射的に自分の手の平に視線を落とした。

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