第27話 歪な関係
そのホスピスは
同じ伏見区だが六地蔵が最寄りの駅になるので、咲良が通うには少し不便な場所だ。咲良は「自転車なら一時間です」と余裕綽々の表情で言うのだが。
不便な場所に建っている分眺望は素晴しく、敷地も広く、庭園と呼んでも差し支えないほど美しい中庭があった。
個室の窓外には、薄紅のハナミズキが和紙でこしらえたような花弁を広げている。高校時代の同級生がここで医師をしていて、ベッドを確保してもらったのだ。
「
「無理せんと、お休みになっていて下さい」
咄嗟に声を掛ける。彼女は弱々しく首を横に振り、咲良の方を見た。
「ベッドを起こしてくれないかしら」
咲良は無言で頷き、足元にあるリモコンを操作した。ベッドの動力によって、仁美の身体はゆっくりと起き上がった。
「この方は、
強張った声で咲良が言う。俺は背を正し、頭を下げた。
「初めまして、九条涼真と申します。実は、咲良さんとは結婚を前提にお付き合いをさせて頂いております」
「結婚……? まさか……」
見開かれた白目はドロリと黄色く濁っていた。その濁りの中に、猜疑の念を見付ける。突然のことで驚いているのかも知れないが、喜びの欠片も表情に浮かべない。その姿には愕然とせざるを得ない。
「事後承諾で申し訳ないのですが、これをお見せしたくて」
俺は笑顔を取り繕いながら皮の背表紙のアルバムを取り出し、彼女の膝においた。掛け布団の下にあるはずの太ももは、古木のように質量を失っていた。
彼女は不思議そうな顔をして、表紙を開ける。次の瞬間、か細い首にある喉仏が上下に揺れた。
白いタキシードを着た自分と、ウエディングドレスを着た咲良がそこに写っている。咲良が纏っているのは、バラ飾りの付いたシフォンのドレスだ。
そのドレスが一番、咲良に似合った。等身大の彼女のみずみずしさや可憐さを引き立てている。カメラマンに視線を合わせるように言われたが、彼女を見つめると頬が熱くなり、胸が異常なほど高鳴ってつい視線をそらせてしまった。
頬が強張ってしまったらしく、「新郎さん笑って」とカメラマンに何度か言われ、照れ笑いを浮かべた時にシャッターを切られた。実際の場面ではもう少し上手くやろうと思い、また苦笑いが浮んだ。まるで本当に結婚を目前に控えているような。そんな錯覚に陥ってしまった。
彼女はクシャリと顔を歪めた。細く、関節の曲がった人差し指でそっと咲良の顔のあたりを撫でる。咲良はその姿を見て、顔を背けた。苦いものを口いっぱい含んだように眉を寄せ、嘔吐を我慢する人のように奥歯を噛みしめた。場違いなその表情は俺の心を激しく混乱させた。
死を前にした叔母は咲良の婚約を心から喜ぶはずで、その叔母を見た咲良もまた、安堵と喜びを感じるはずだ。少なくとも俺はそう想像していた。それなのに、今目の前に繰り広げられている光景はなんなのだ。
病室のドアが軽くノックされ、若い看護師が顔を出した。
「ご家族様ですね。先生がお話ししたいことがあるそうです。少しお時間をいただけますか」
柔らかい口調で看護師がそう言うと、咲良は「はい」と返事をして逃げ出すように部屋から出て行った。
叔母と二人取り残されてしまった。俺は居心地の悪さを感じたが、叔母の方はそれどころではないようだった。まるで娘の花嫁衣装を見るように、鼻を啜りながら写真を見つめている。想像通りの光景がやっと現われて、俺は安堵の息を吐いた。
出来れば本当の花嫁姿を見せたい。唐突にそう思った。急いで手配し、小さな会場を用意すれば可能なのではないだろうか。列席者はこの人しか呼ばない。そうすれば面倒な披露宴の準備もしなくて良いし、一石二鳥だ。
咲良の叔母は、深く長い息を吐いた。彼女の顔がこちらに向いた気配を感じ、俺も彼女の方に身体を向けた。彼女は上目遣いに視線を合わせてから、深く頭を垂れた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。これで、思い残すことはありません」
「いえ、そんな……。今、結婚式を急いで手配できないかと考えていたんです。彼女の花嫁姿、実際にご覧になりたいでしょう?」
彼女はゼンマイ仕掛けのようにぎこちなく首を横に振った。
「いいえ、もう充分です。……あの、この病院をお世話して下さったのも、あなただと伺っています。九条さんは、咲良とどのように出会ったのですか?」
「職場で出会いました。僕は、
叔母は濁った目から乾いた眼球が飛び出してしまうかと思うくらい大きく目を見開いた。
「社長さん?」
「ええ……」
叔母はその目の形のまま俺を凝視する。驚きの影が薄れ疑念に変わっていくのを、俺は眺める。それは無理もないことだ。二週間も満たない間に就職先の社長と婚約するなんて、一度踊っただけで結婚を決めたシンデレラの旦那くらい信じられないだろう。
「彼女の仕事ぶりや、お日様のような温かさに僕が一目惚れをしてしまいまして」
彼女の疑念を飲み込むように笑みを浮かべ、丁寧に嘘をついた。彼女は項垂れて首を左右に大きく振った。そして、もう一度写真の咲良を見つめる。
「そんな事、あるんでしょうか」
「僕本人が驚いています。咲良さんに信じて貰うのも、結構大変でした」
苦笑してみせると、叔母は再び俺に視線を向けた。少しだけ疑惑は和らいだようだが、その隙間を埋めるような憂いが、そこに浮んでいた。
「もしも、それが本当でしたら。早く別れてやってくださいませんか」
「……は?」
「あなたのような立場の人は、あの子と結婚できませんよ」
諭すように、彼女は言う。
「あの子がそんな夢物語を信じるなんて、思わなかったけれど。人を好きになると言うのは、いつだって不思議な事だから。……だからこそ、あの子が傷付くようなことになる前に、上手に別れてやってくださいませんか」
彼女はそう言って、俺に向かって両手を合わせた。枯れ枝のように青黒くねじ曲がった指は、ピタリと合わさることはなかった。
真意を問いただしたかった。その為の言葉を探していたが、思考はノックにかき消された。
「ワタヌキさん、血圧を測りましょう」
咲良を呼びに来たのとは違う若い看護師が入ってくる。彼女は手際よく腕にカフスを巻いた。
「体調はいかがです?」
「それなりです。痛みを取ってくださっているから、かなり楽ですよ」
そう言って、視線を窓の外に向けた。
「あら、綺麗なお花」
そう、呟く。せっかく眺望の良い部屋を用意してやったのに、彼女は窓の外も見ないで過ごしていたようだ。思わず溜息が出てしまう。
彼女の心には咲良への思いやりがあるのだろうか。『結婚できませんよ』といった言葉には、温度を感じなかった。咲良は彼女に背を向け、逃げるように部屋を出て行った。二人の関係性にはどうやら拗れが生じているらしい。
この女性は、咲良の幸せを望んでいないのか? そんな疑惑が湧きあがり、肌を粟立たせる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます