第25話 疑惑の元彼

 打って変わって、咲良さらの瞳に怒りが浮んだ。その力に俺はひるんで口を噤む。


古賀こがさんの事も軽んじているように聞こえます。私が何を言われても、別にいいんです。でも、彼はとても頑張ってます。これまで誰にも、何も教えて貰えなくて、批判しかされなくて。それでも逃げ出さずに頑張ってきたんです。その仕事を否定しないで欲しいんです」

「誰にも、何も教えて貰えなかった?」


 咲良は力強く頷いた。


「私の時もそうでした。道具を渡されただけです。私は他の所で清掃の仕事を経験していたから困らなかったけど、古賀さんは初めてのお仕事で凄く困っていたって、言ってました。人事部の方が『人を育てるシステムが出来ていない』って、嘆いていました」


 言ってから、慌てた様に口に手をやった。


「すいません、出過ぎたこと……」

「いや」


 俺は口角を持ち上げて首を横に振る。


 ここ数年上り続ける離職率に頭を痛めていた。若い世代、特に女性の定着率が悪い。人を雇うのにはコストがかかるし、このままでは重要な業務を担う人財が育たない。企業としては由々しき問題なのである。


 だが、咲良の言葉に解決の一端を見付けたような気がした。


「咲良と古賀君の働きを否定するつもりや無かった。申し訳ない。……そやけど、僕のマンションはここから結構距離があるねん。七時出勤は辛いやろう」


 だから広報部へと言いかけたが、思いついた事があり一度言葉を切った。その思いつきは、悪くない。一瞬口の端が持ち上がる。


「離婚後、大学に通ったらどうやろう? 離婚までの期間仕事を辞めて勉強に集中すれば、どこかの大学には入れるやろう。咲良は頭が良さそうやから、案外関関同立くらい狙えるかもしれんよ」

「大学なんて……」

「学費は心配せんでええ。卒業まで、僕がサポートする」


 ――そうすれば、彼女が卒業するまで繋がりを保てる。


 湧き出した概念に、愕然とする。契約書には、慰謝料を受けとった後、九条くじょう家と木寿屋もことやには一切関わらないことと記した。離婚後「子供に会いたい」とか「生活に困窮しているので援助して欲しい」とか言い出されては困るからだ。


 今の今までそれが最良の策だと信じていたのに、相反する思いつきに喜びを見出すなど、どうかしている。


「そこまでして頂くわけには行きません。大学に行きたいと本当に思ったら、通信制の学校に入ります。一人になったら、そんなに頑張って働かなくてもやっていけると思うから。そういう先のことは、契約を終えた時に考えます。……社長さんがお掃除おばさんと結婚出来ないのは分かります。これ以上我が儘は言いません。私の身の丈に合うところなら、どこでも構いません。でも、お仕事は続けさせて下さい」


 旋毛が見えるまで深く頭を下げた。俺は嘆息し、分かったと伝えた。顔を上げた彼女は笑顔を浮かべていた。俺はまだ動揺していて、その笑顔から視線をそらせてしまった。


 居心地の悪い沈黙が流れ、今まで存在を忘れていたジャズの音色が古い喫茶店の主役に躍り出た。マイルス・デイヴィスのトランペットをたった二音のピアノが端正に飾り付けている。そのフレーズに耳をすます。


「あの」


 音色に心を奪われていたら、咲良が口を開いた。思い詰めたような、硬い表情をしている。


「ご報告しておかねばと思いまして……。黙っているのは隠し事をしている気がするので」


 膝の上で両方の拳をギュッと握り、彼女は俯いた。俺は黙って、彼女の言葉を待つことにした。トランペットとピアノが華やかな掛け合いを続ける中、咲良はやっと口を開いた。


「元彼に会ってしまいまして……。偶然なんですよ。高校二年生の時に付き合っていた人で、十年くらい全く連絡も取り合っていなかったし、連絡先を教えて欲しいって言われたけど教えなかったし……。だから、やましいことは何もしていません。誓って」


 瀬戸口一哉せとぐちかずやの顔が浮んだ。


「元彼……」


 思わず呟くと、咲良は口元を歪めて視線をそらせた。


「これって、浮気したことになりますか……?」

「う、浮気?」


 思いがけない言葉に唖然とし首を横に振りかけたが、彼女のとんでもない勘違いは利用できると判断し、眉間に皺を寄せて見せた。


「ふうん。元彼と会えて、それは嬉しかったやろうなぁ」

「う、嬉しくなんてないですよ! いや、そりゃあちょっと懐かしかったけど……」

「懐かしい元彼。なんていう人?」

「瀬戸口君、です」


 ビンゴだ。間抜けな警察官は、元彼だったのか。元カノを付け狙うストーカーという構図が頭に浮ぶ。


「高校時代の彼氏か……。大人になった彼氏はさぞ素敵に見えたやろうなぁ。お金持ちのイケメンにそそられたりはしてへんの?」

「そんな訳ないです……。彼は介護の仕事をしてるって、言ってました。結構大変な仕事みたいで、目の下に隈作っていました。お金持ちには見えなかったです……」

「……介護?」


 思わずオウム返しをした。


 「介護職員」と、瀬戸口は咲良に身分を偽ったのか? 


 顎に親指を当て、警察手帳を思い出す。


 それとも、あの手帳が偽物なのか?

 ストーカー行為を見咎められた時に相手を信用させるため持ち歩いている?


 だとしたら、かなり悪質だ。こうなると偶然出会ったというのも、胡散臭く思える。咲良は確か神奈川にいたはずだ。関東地方にいた二人が、京都の伏見区で偶然出会うというのも、できすぎている。


「本当に、やましい気持ちは無いんです……」


 咲良の声で我に返った。折りたたむように肩をすぼめ俯いている。もうそろそろ解放してやらなければ気の毒だ。そう思い、俺は大きな笑い声を上げた。


「冗談や、冗談。立ち話くらいで浮気したと見なすような心の狭い人間と違う。どうせなら連絡先交換したら良かったのに」


 ぶんぶんぶんと前髪を揺らして首を振る姿に、密かに嘆息した。


 大体、それくらいで浮気と認定されるのはこちらとしても困るのだ。咲良とは契約上の関係なのだし、その間別の女とどんな付き合いをしようが俺の勝手だ。夜の相手をする女は数名いて、その時の気分で好きに遊んでいる。彼女らとの付き合いに口を出されては堪らない。


「結婚言うても見せかけのもんやから、スキャンダルにならんかったら彼氏を作っても構わへんよ」


 予防線のつもりで吐いた言葉に咲良は顔を上げた。少なからぬ衝撃を受けたようで、その瞳が一瞬大きく揺れた。その揺らぎは思いがけず、俺の心を強く揺さぶった。

 

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