第5話 美しき社長夫人
「九条社長。本日はお越し下さってありがとうございます」
会場の入り口で声を掛けられ振り返ると、中年の女性が微笑んでいた。
髪を高く結い上げ、胸元の開いた緑色のドレスを着ている。大きなペイズリー柄のとても派手なドレスだ。五十代と思われるが、美しい肌のせいか露出が不自然に見えない。顔立ちもドレスに負けず派手だが、なかなかの美貌だ。
確か
「今日はご招待いただき、ありがとうございます」
「いいえ。いらしてくださって嬉しいわ。今日は綺麗なお嬢さんがとても大勢いらしているの。存分に楽しんで下さい」
頭を下げると意味深な言葉が返ってきた。「ウンザリ」が顔に出ないよう笑みを貼り付ける。夫人は目を細め、こちらに一歩近付いて声を潜めた。
「少しお話ししたいことがありますの」
***
彼女は会場の階下にあるラウンジに俺を連れ出した。促されるままボックス席に座ると、小柄な男性がシャンパングラスをテーブルに置いた。
男は、百五十㎝あるかないかの低身長だ。その小さな身体にあう三つ揃いのスーツを見繕うのは、至難の業だったろう。
顔には、無数の皺が走っていた。
額の皺は横に向き、中央には眉間から縦皺が数本、窪みを作っている。目尻には放射線状に細かい皺がちりばめられている。頬の肉は下がり、ほうれい線が口元の皺と合流していた。
唇は左右非対称に曲がっていた。「へ」の形そのままだ。ニュートラルな表情で、これ程非対称かつ下向きに曲がった唇を、今まで見たことが無い。
眉は茂みのように濃い。そのせいで瞼に影が出来る程だ。毛量の多い髪には7割ほど白髪が交ざり、緩やかにカールしている。
彼はグラスを置いた後、俺の方へ視線を向けた。ギョロリ、と音がしそうな程大きく眼球を動かして。
だがすぐに視線を下げ、一礼をして後ろに下がり、壁に身を寄せた。途端に壁の模様になったかの如く、気配を失った。
「彼は私の秘書ですの。お気遣い無く」
ええ、と頷きながら、俺は
「お話とは?」
手短にまとめようと、水を向ける。夫人は笑みを浮かべ、グラスを持ち上げた。礼儀としてそれに倣う。口に含み、フルーティーで繊細な味わいに思わず目を細めた。
「ベル・エポックですね」
「ええ。ボトルが好きなの」
関西訛の無い美しい言葉で夫人は言った。ベル・エポックは、ヴィクトリア女王やグレース・ケリーを虜にしたペリエ・ジュエ社のシャンパンで、ボトルには白いアネモネが描かれている。
「私、美しいものが好きなんです。男性も、建築物も。……ああ、申し遅れてしまいましたわ。この度は優秀建築賞受賞、おめでとうございます。あのコンドミニアムは、本当に端正な佇まいですわ」
「ありがとうございます。良い仕事に恵まれました」
今日はこの話題をあちこちでふられるのだろう。正直、心中は複雑なのだが。夫人はグラスを傾けた。爪にはボルドーの大理石模様が描かれ、ゴールドのラインがあしらわれている。
「デザイナーの
「ありがとうございます」
「それで……。こんど我が社で手掛ける建売住宅のデザインをお願いできないかと思いまして。勿論、
「そうですか」
即答を避け、シャンパンを口にした。
正直、中途半端なと思う。
富裕層は建売住宅など購入しない。彼らは気に入った土地を見付けたら上物を壊して更地にし、自分好みの注文住宅を建てる。そういった物件なら喜んで引き受けるのだが。
第一その周辺で建売住宅を求めるような中途半端な金持ちは、大抵品が無い。
「ありがたいお話なのですが、実は谷口美葉は既に我が社を退社しておりまして」
「あら……。そうなんですか……」
夫人は落胆の表情を浮かべ、肩を落とした。谷口美葉が退社したのは事実だ。彼女は帰郷した。恋人の元へ戻るために。
「では、今どちらに?」
「さぁ……」
「今お勤めの会社だけでも、教えて頂けませんか?」
「嫌……。恐らく会社には勤めていないと。家具職人の恋人の仕事を手伝うと言っておりました」
「そんな、勿体ない」
夫人は眉をギュッと寄せ、身を乗り出してくる。
「では、その家具職人の職場を教えて下さいな。教えて頂けたら……。そうですね。本日お母様から色々お願いされていることがあるのですけれど、こちらで上手く取り計らうことはできますわ」
夫人はそう言って、ボルドー色の唇の端を持ち上げた。
***
今日はなんて日なんだろう。
そう思いながら、シャンパングラスを来賓に配っていく。出来るだけ気配を消し、影のように動く。ステージ上で主催者が挨拶をしているからだ。
主催者は建設会社としか聞いていない。壇上の社長さんは背が高く、背筋がシャンと伸びているけれど、言葉が不明瞭で時折口ごもる。かなり高齢のようだから仕方が無いと思いつつ、社長業が務まっているのか心配にもなる。余計なお世話なんだけど。
一通り挨拶が終わったようで、社長さんはしわがれた声で「乾杯」とグラスを掲げた。会場から一斉に「乾杯」と声が上がる。
それを合図に、人々が一斉に動き出した。パーティーは立食形式で、肩書きのある方々はテーブルに散って行き、秘書などおつきの人々が料理を取りに行く。そこに黒淵眼鏡の秘書さんを見付けた。やっぱり秘書ってお仕事は大変だ。
何気なく壇上に目をやると、高齢の社長が舞台から降りるところだった。覚束ない足取りが危なっかしく目が離せないでいると、女性がさっと手を差し伸べたのでほっと息を付いた。
彼女は夜会巻きの髪に金色の大きなかんざしを挿していた。露わになった首はとても細く長い。金色の大きなペイズリー柄の入った緑のドレスは、孔雀の羽根のように華やかだ。タイトなシルエットには深いスリットが入り、白い太ももが覗いている。大きく空いた背中やうなじ周りの雰囲気から、四十代後半から五十代の女性だと推測した。身のこなしは優雅でとても気品がある。
年齢的に言って、社長さんのご令嬢くらいかな。後ろ姿がとても素敵だけど、お顔はどんなだろう。拝見してみたいと注視していると、社長さんの手を握って振り返った。
思わず声を上げそうになり、口を両手で塞ぐ。
嘘だ。彼女が何故京都にいるの? しかも、社長さんと親しげに手を繋いでいるんだけれど……。
「ぼやぼやせんと、仕事仕事」
マネージャーに肩を叩かれ、ハッと我に返る。そうだ、これからが我々の仕事の正念場だと、気持ちを切り替えようとした。だけど、ドキドキして頭が回らない。たまらず私はマネージャーに質問した。
「あのご婦人は、どなたですか?」
「ん? あの方は社長夫人。後妻らしいけど。それが、どないかした?」
面長のマネージャーは顔をしかめた。本社から派遣されている彼女の目は厳しい。イベントコンパニオンはお金目当ての女子アルバイトの集まりだ。それらをそつなく動かすには、経験豊かで厳しい目が必要なようだ。
「なんでもありません」
私は一礼をし、仕事に戻る。会食の時間は普段よりも短く設定されているから、普段のパーティーよりも手際よく仕事を進めなければならないらしい。
会食後ダンスパーティーが開催されるから、料理が空になれば迅速に片付け、それとなくフロアのスペースを空けていくのだ。
それなのに移動する度に飲み物の注文を受け、カウンターに取りに行かなければならない。忙しさを顔に出すわけにも行かないし、ヒールのある靴は動きにくい。お時給が高いだけあってなかなかハードな仕事だ。
そして、彼女に自分の存在を悟られてもいけない。
私は出来るだけ存在感を消して、黒子のように仕事をこなした。
けれど、彼女の事が気になって時折その姿を探してしまう。彼女はフロアマネージャーとイベント会社のマネージャーとの三人で、何かを打ち合わせしていた。三人は顔を上げて、会場に視線を走らせた。慌てて顔を伏せ、オードブルの皿で満載となったカートを押し、バックヤードへと急いだ。
会場を出たところで、マネージャーに肩をポンと叩かれた。
「ちょっと申し訳ないんやけど、仕事を一つ引き受けて欲しいんよ。勿論、報酬はその分弾むから」
きつい相貌を崩して顔の前で両手を合わせる。困っている様子なので、私は「いいですよ」と即答した。
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