第3話 白亜のコンドミニアムで

 初対面の挨拶をすると、古賀こがさんは小さく会釈を返した。


 骨ばった肩を前にせり出し背中を丸めているせいで、いがぐり頭の小さな顔が、肩に埋まっているように見えた。すごーく内気な小学生みたいな印象だけれど、年を聞いたら三十二歳だって言われてびっくりした。


 だけど、仕事ぶりを見て更に驚いた。モップをただ動かしているだけで拭き掃除になっていない。


 社屋はどこもかしこも、何年も汚れが積もったみたいに汚れているけれど、こんな掃除の仕方で綺麗になる訳ないじゃない。


 彼は社員さん達から良く思われていないみたい。彼を見ると皆眉をひそめるし、すれ違い様あからさまな舌打ちをする人もいた。酷い態度で、頭にくる。


「あの、モップのかけ方なんですけど」

「す、すいません」


 彼の仕事に口を出すなと言われたけれど、放っておける筈がない。彼は身体を小さく丸め、私から顔を背ける。小動物のような仕草に戸惑ったけど、その胸の内が凄くよく分かる。


 高校を中退して最初に付いたパートが、回転寿司のキッチンだった。ろくに仕事を教えて貰えないし、人によって言う事もやり方も違う。どれが正解か分からなくて戸惑ったし、何をやっても叱られるので、誰かに声を掛けられるだけで恐怖を感じた。その時の自分も、同じような姿をしていたと思う。


「コツ、あるんですよ。こう、柄の端に親指を掛けてね、横に動かすんです。横に動かしながら後ろに下がっていくと、自分の足跡が残らないでしょ?」


 言いながらデモンストレーションしてみせる。セカセカと頬を拭っていた古賀さんは大きく頷いて同じ動作をする。


「もう少しだけ力を入れて、モップを床にしっかりと密着させるんです。あ、そんなに力入れたらモップが壊れちゃう。……そう、そんな感じです」


 最初はぎこちなかったけど、段々動きが滑らかになってきた。彼は前屈みになり、真剣に床を睨んでモップをかけ続けていた。やがてその身体が、突き当たりの壁にぶつかった。


「端に着いたらモップを八の字に動かして、方向転換しましょう。こうすると、ゴミを残さず方向転換できるんです」

「こ、こう?」

「そうそう。バッチリです」


 床を見つめたまましっかりと頷いた古賀さんは、なめらかにモップを動かしている。


 ***


「京町屋なんだ……」

 建物を見上げて、思わず呟く。


 コピーを考えるならば、本物を見ておかなくっちゃ。そう思い、自転車を四十分走らせてやって来た。西大路駅から徒歩十分の場所。細い路地に面してコンドミニアムは建っていた。西大路駅はJR京都駅の隣駅だから、観光の拠点としてまずまずってところ。京都駅周辺のホテルに利便性は叶わないけれど、京都を身近に感じるにはもってこいじゃないかな。


 漆喰で白く塗られた外壁は一見洋風に見えるけれど、間口が狭く奥に長く続く造りは歴史ある建造物、京町屋に間違いない。塀に寄せて自転車を停めてから、そっと門を開けて中を覗く。建物にそって細長い庭が続いている。足音を立てないように静かに中に入り、思わずわああっと声を上げた。


 白く光る化粧石が敷き詰められた庭は、漆喰の塀沿いに長く伸び、様々な低木が植栽されていた。紅色の芝桜が花壇の縁を染めている。サツキや紫陽花、サルスベリに紅葉。低木はきっと、季節に合わせて花壇を彩るんだろう。


 建物は庭に面して一面硝子窓になっている。キッチンの付いた食堂や窓に向いたソファーは、どれも温かみのある木製だ。この庭を眺めながら食事をしたり、おしゃべりに花を咲かせたり。楽しそうな家族の姿が目に浮ぶ。


 清涼な風が長い庭を通って髪を揺らす。我が家にいるような気持ちでここに滞在しながら旅する関西は、きっと飛びっ切り素敵に見えるんだろうな。


「……ミヨ?」


 背後から声を掛けられる。呼ばれたのは自分の名前ではないけれど、声のニュアンスから自分が呼ばれたんだと分かった。


 振り返ると、派手な出で立ちの男性が、幽霊でも見るような視線をこちらに向けていた。黒髪にきつくウェーブを掛け、耳朶一杯にリングピアスを付けている。真っ赤なTシャツの胸元には、麦わら帽子の少年がにっこりと口を開けて笑っている。


「犯了一个错误」

 彼はそう言って苦笑いを浮かべ、首を横に振った。


「アナタ、ドッチ? ナニスル?」


 友好的な表情で彼は話しかけてきた。でも言ってることの意味がよく分からない。あなたはどっちでなにすると言われても。


 この人、日本語あんまり上手じゃないんだわ。さっきの言葉は多分中国語。だったら、英語はしゃべれるのかな。


「I'm sorry. It's a very nice building, so I was fascinated by it.」

「Thank you for that. By the way, you speak very beautiful English.」


 とても素敵な建物だから見とれてしまったと言い訳をして退散しようと思ったけれど、彼は友好的に礼をいい、私の英語が上手だと褒めてくれた。私は照れくさくなり、曖昧に笑った。


「Thank you. I used to do homestays a long time ago, and I learned this from there.」

「Where did you do your homestay?」

「Vancouver, Canada.」


 昔ホームステイをしていたと答えると、彼は「どこで?」と問いかけてきた。カナダのバンクーバだと答えると、彼は感心したように声を上げる。


 これを潮時に頭を下げて帰ろうとした時、重厚なエンジン音が門扉を震わせた。路地を完全に塞いで真っ黒な車が停車する。


 見るからに高級そうな車から降りてきた人を見て、ハッと息を飲んだ。


 上品なスーツに身を包んだ、木寿屋の社長さんだ。彼は涙の形のサングラスをさっと外し、胸元にしまう。軽く前髪をなおして、涼しげに目を細めた。


 助手席からは秘書の黒縁眼鏡の女性が降りてきて、社長さんから車の鍵を受け取り運転席に移動する。社長さんが後部座席のドアを開けると、カメラを肩から提げた男性が降りてきた。


「リョウマサン、オヒサシブリ」

さん、ご無沙汰しています。今日はお時間を作って頂きありがとうございます」


 男性が親しげに手を上げた。私はそそくさと庭の角に身を隠す。木寿屋もことやの社長さんって涼真りょうまさんって言うんだ。


 涼真さん。涼真さん。涼真さん。


 無意識に口の中で繰り返していた。


 一つ名前を呟くたびに、体温が一度高くなる。頬が熱くなって、心臓がトクトク鼓動を速める。


 庭の塀と同化しているつもりだったけれど、社長さんは私の方を振り返った。バッチリと目が合う。社長さんは目を丸くして私の顔を見つめた。


「えっと……。コピーを考えるのに、実物を見たかったので……」

 モゴモゴと口の中で言い訳をする。李と呼ばれた中国人らしき男性が背中越しに親指を向ける。


「シッテル? カノジョ」

「ええ。我が社の社員です」


 私は身体を縮めたまま頭を下げた。

「すいません。私はこれで失礼いたします」


 頭を下げたまま立ち去ろうとした私の手首を、社長さんが掴んだ。驚いて見上げると、社長さんは面白い生き物を見るように私をじっと見つめ口元を綻ばせていた。その笑顔に、キュンと胸が高鳴る。


 絶対今、一秒くらい寿命が縮まった。


「こちらは李さん。このコンドミニアムのオーナーさんや。今から建築系雑誌の特集記事で、優秀建築賞を受賞した建物のオーナーと、設計担当の会社社長との対談をする予定なんや。三十分くらい話をすると思うから、その間好きなだけ建物を見物して行き。……かまへんでしょ? 李さん」

「モチロン」


 私はありがとうございますと頭を下げた。胸がキュウウウウーンと締め付けられるような感覚。緊張とは、ちょっと違う。


 これって、何だろう?


 李さんを先頭に、靴を脱いで中に入る。スリッパを履かないのかと不思議に思ったけれど、一歩中に入って納得した。無垢のフローリングは足ざわりが柔らかくて気持ちいい。スリッパを履くなんて、勿体ない。


 李さんと社長は食卓テーブルに向かい合って座り、記者らしき人は社長の隣に座った。秘書さんが鍵を持って帰ってきたけれど、彼女は入り口付近に影のように佇んでいる。彼女はきっと、あの高級車を駐車場に駐めて来たんだろう。この細い路地を運転するのは大変だったろうな。


 そう思いながら、そそくさとその場を離れた。


 窓からは薄暮の光が差し込んで、淡い色のフローリングを照らしている。窓越しに見る芝桜は、傍で見るよりも彩度を上げている。多分木々の緑の濃淡が、紅を鮮やかに引き立てているのだろう。絵画は少し離れたところから眺めた方が主題を良く見て取れる。計算された庭は、絵画と同じなのかも知れない。


「今回李さんが京町屋をリノベーションしようと思ったきっかけを教えてください」

 記者さんの声が聞こえた。しばらく間を置いて、李さんが答える。


「キョウマチヤ、イイ。ドチラガイイカ……。ツタエルノ、ニホンゴ、ムズカシイネ……」 


 困った声音に振り返ると、李さんと目が合う。社長さんと記者さんは、しまったという顔を見合わせていた。李さんは私の顔を見てパチンと指をはじいた。


「Hey, could you please help me a little?」

 そう言って、手招きをする。私は自分の顔を指さして首を傾けた。

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