第2話 彼女に似た女

 三十分後、私はふぅっと息を吐いて部屋を見渡した。思わずにんまり笑ってしまう。


 頑張ったんだから! ほんっとに頑張ったんだから!


 まず、北村さんのところへ戻り、脚立を借りた。嫌味がタップリ乗っかった脚立に昇って天井や壁の埃を払う。


 窓も磨いた。ピッカピカに磨いた。


 部屋中の埃を取り除いた後は、拭き掃除。ここで魔法のアイテム登場!


 ポケットから茶色い遮光瓶を取り出して窓から差し込む光に翳す。透明な液体を替えたばかりのバケツの水に垂らすと、清涼感のある香りがフワッと立ち昇った。


 殺菌効果の高いティーツリーとミントをミックスした、完全無欠のお掃除用エッセンシャルオイルだ。


 エッセンシャルオイル入りの水で家具を拭き、天井と壁と床を磨いた。


 続いて給湯室。


 給湯室も同様に天井や壁、床の掃除をしてから棚に積もった埃を拭き取り、シンクの水垢を取って磨いた。


 コーヒーメーカーの掃除を終えたところで、あらかじめ仕掛けておいたアラームが鳴った。できれば食器の漂白もしたかった。これは次回の課題としよう。


 入り口で回れ右をし、一礼をしてから台車を押して部屋を出た。


 一気にズシーンと疲労感が襲ってくる。清掃の仕事って重労働。でも、今日はまだ始まったばかり。くたびれてなんかいられない!


 廊下の壁に掲示板があり、何気なく視線を向けた。目に飛び込んできた白亜の建物に目が釘付けになる。


『祝優秀建築賞受賞! 広報コピー大公募!』


 建物に被さるように、そんな文字が躍っている。心臓がドキーンと高鳴った。掲示板にふらふら足が吸い寄せられていく。


 ポスターの隅に、小さな文字が並んでいる。


『この度谷口美葉たにぐちみよ氏が設計したコンドミニアムが、全国優秀建築賞を受賞しました。それを記念して、広報コピーを募集します。もっとも優秀な作品は正式に広報文として採用し、金一封と記念品を贈呈します』


 鼓動が更に高まり、鼓膜までドキンドキンと脈打った。この「社員」に私も含まれるのかな。対象は事務系の人だけで、お掃除オバサンは論外だって言われちゃうかな。


 でも、でも。


 もしも許されるのならば、応募してみたい。胸の前で両手をギューッと握り合わせた。


 鼓膜を打つ鼓動に「え?」という声が混じる。驚いて顔を上げ、声の方を振り返った。


 一瞬、呼吸が止まった。


 三つ揃いのスーツを着た、すらりと背の高い男性が目を見開いて立っていた。柔らかな黒髪に精悍な眉、意志の強そうな瞳。その瞳には大人の余裕と貫禄がにじみ出ているけれど、少年のような無邪気な好奇心も混ざっている。


 特別な光に包まれているみたいに、キラキラ輝いて見える。


 不意に彼はハッと息を吐いた。そして、とても事務的な視線を私の頭から足元に這わせる。


「新しい清掃業者さん?」


 彼の背後で咳払いが聞こえた。スーツ姿の四十代位に見える女性が、影のようにすっと背後から現われる。上品で落ち着いた佇まいだけど、丸顔に大きくて丸い黒フレームの眼鏡が可愛らしい。


「今年度から正社員として雇ったクリーンスタッフの畑中咲良はたなかさらさんですよ。古賀こが君の仕事ぶりで苦情が出たと聞いて、『ほなもう一人雇ったらええやん』って我が儘いうたでしょ」

「我が儘て。経営者の意見を我が儘て」


 彼は眉根を寄せて女性をジトリと睨んだ。そのやり取りを聞き、男性が社長で女性がその秘書だと気付いた。


 え、え、この方は社長さん!?


 途端に頭がパニックになる。お掃除おばさんにとって、社長さんは雲の上の存在。御姿を拝顔するなど恐れ多い。


 なのに何故か、私はポスターを指さしていた。


「あの! 社長さん! 私でもこの公募に応募してもいいんでしょうか!?」


 その上こんなことを捲し立ててしまった。


 社長さんはぽかんと口を開けて私の顔を見た。


 やってしまった。


 足の先から頭に向かって、熱が上がってくる。まるで熱湯と化した血液が頭に昇ってくるみたい。


 社長さんは身体を少し前屈みに折り曲げ、くっくと喉を鳴らした。今度は頭の天辺から足の先に向かって、サーッと血の気が引いていく。


 しばらく、くっくと笑い声を立ててから、社長さんは目を細めて私を見た。


「勿論。社員さんならどなたでも」

 そう言ってひらひらと手を振ってから、社長室に消えて行った。


 ***


 社長室に入ると、清涼な香りが鼻孔を抜けていった。そして、眩しい光が目を刺し貫き、思わず手を翳す。後方で秘書の美雪みゆきもウッと声を上げ、顔を腕で覆った。


 窓から差し込む光が、鮮烈だった。その光をフローリングが跳ね返している。天井も壁も、机の天板も、木材の持つ本来の輝きを取り戻している。


「これは……。彼女がやったんか……」

「そう、みたいですね」


 美雪が頷いた。そう言えばと、顎に手をやる。障害者雇用の古賀が、数々のクレームを受けて体調を崩すのを見かね、もう一人雇えと人事部に伝えたような気がする。それにしても。


「クリーンスタッフやったら、年配の人が応募してくると思ったんやけどな」

「私も意外でした。確か、まだ二十七歳やったと思います」

「二十七歳? そんなに若いのに、何でやろ。主婦のパートにしては、給料が中途半端や。扶養からは外れるけど、生活を担えるほどは高くないし」

「そこが謎で履歴書確認したんです。ほな彼女、中卒でした。正確には高校中退。大検は取ってるんですけど」

「中卒……」


 思わず絶句した。高校を中退したとなればそれなりに理由があるはずだ。思いつくのはいじめとか、ひきこもり。だが彼女からそんな影は感じなかった。


 壁に真摯な視線を向けている姿を見て、思わず美葉が立っていると思った。


 背格好や髪型、佇まいが嘗て付き合っていた女性と似ていたのだ。しかし正面からよく見ると、全てのパーツの形が少しずつ違う。何より美葉の持つ華やかさは彼女にはない。贋作のような女が美葉の作った建築物の広報に興味を持っている。それが質の悪い冗談のようで、笑いを誘った。


「中退したのは私立高校ですけど、聞いたことない名前です」


 偏差値が底辺なのかも知れないと、俺は思った。後先考えず高校を中退するなど、ある程度先を見通せる人間ならしない。美雪が履歴書を差し出したので、何気なく確認する。確かに知らない高校名だが、両親の住所は神奈川県になっていた。


「社長の好みですよね。きっと。ドストライク」

「は?」


 脈略もなく放たれた美雪の言葉に思わず眉を寄せる。


「コンプライアンスに反することは、せんといて下さいよ。今の世の中、そういうのにほんまに厳しいんですからね」


 何を言うのかと反論しようとした時、軽快なリズムでドアがノックされた。どうぞ、と返すと静かにドアが開き、受付嬢の百合ゆりが姿を見せた。


 我が社の受付嬢は二人居て、百合は美人の方だ。思わず口元が緩む。失礼しますと言って百合はつかつかと中に入ってきた。胸元抱えた大きな荷物をローテーブルに置き、掛けようとした声を払うように身を翻してドアの前に戻り、一礼をする。


 塩対応だ、相変わらず。何回か食事に誘っただけなのに。


「先代の奥様からお預かりいたしました。必ず目を通しどなたか一人選ぶようにと伝言を預かっております」


 澄ました顔でそう言うと、一礼を残してドアを閉めた。


 ローテーブルの上に、風呂敷に包まれた小荷物がチンと座るように残された。それを見て、胃の辺りがずしりと重くなった。美雪がそそくさと風呂敷をほどくのを手で制する。


「そのまま置いとこう」

「あきません。そんなんしたら、私が奥様に叱られます」


 ツンとすました声に唇を尖らせる。風呂敷包みからは真四角のアルバムらしきものが積み重なって現われた。思わず額に手を当てて、ため息をつく。


「お一人選んでお会いになって下さいね」

「勘弁して」

「無理です」


 美雪はツンと顎の先を明後日の方へ向ける。仕方なく俺は、盛大な溜息を吐きながら何枚か取り上げ、トランプのように広げた。


「ほな、選んで」

「ええんです?」

 美雪はにやりと笑い、その内の一枚を無造作に選んだ。


 俺こと九条涼真くじょうりょうまは、創業百六十年の木材の卸会社「木寿屋もことや」の社長で今年三十七歳になる。彼女はいない。結婚する気も無い。だが、跡取りは必要だ。最近になって母は焦りだしたのか、頻繁にこうやって見合い写真を会社に持ってくるようになった。


 引いた一枚を胸に抱え美雪はため息をついた。


「表向きにでも前みたいに女遊……いえ、奥様候補探しを再開したら、見合い写真は送られてこなくなるんと違います?」

「そうやろうけどな……。もう、面倒やねん。女とどうのこうのするのが全部」


 呟いた声音が思いのほか弱々しくて、我ながら狼狽える。


「ほな、開けてみて。めっちゃ美人やったら、その人に決めるわ」


 繕うように戯けて言うと美雪は胸元に抱えた見合い写真を勿体ぶって翳してから、厳かに開いた。


 思わず、息を飲む。

 今まで出会ったことのない鮮烈な印象を受け、その微笑みに釘付けになる。


 広い額、突き出た頬骨と上顎、張り出したエラ。一重の瞳は細く吊り上がり、優しくこちらに微笑みかけている。モンゴル人の特徴を見事に網羅した、親しみを感じる顔ではある。だが、好みではない。


 美雪の手からその写真を奪い取り、パタンと閉じる。


「これは、無かったことにして」

 呟いて、重くなった頭を振った。

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