第一章 結婚の契約

第1話 春の初日

 窓際にはいつも花を飾ることにしている。

 と言っても、道端に咲いた花だけど。


 ミルクティー色のプラスチックのコップにはタンポポが一輪。花片が内側にくるりとカールしている。ちょっと弱ってきているのかも知れない。水を入れ替えて「もうちょっと頑張って」って声を掛ける。隣には相棒のテディベアが、私を見上げるように座っている。名前は「ラブ」。ずっと「熊さん」と呼んでいたけれど、この前名前を付けた。


 ラブは抱きしめるのに丁度いい大きさ。重さは3011g。私が生まれた時の重さと、丁度同じ。


 その柔らかな頭にポンと手を置く。


「行ってきます」


 一度、固く閉じられた襖に目をやってから、化粧ベニヤが剥がれたドアを開けて外に出る。


 自転車で桂川を渡るのは初めてだ。早朝の風を髪に受けながら羽束師はづかし橋を渡る。羽束師橋は、車道と歩道が階層で分けられた珍しい橋だ。早朝の橋は人の姿もまばらで、頭上を走行する車も少ないみたいだ。心地よい川のせせらぎが髪を靡かせる。


 比叡山の山陰を見ながら、川を渡りきってサイクリングロードに出た。


 横風から逆風に風向きが変わる。それ程強くない、心地よい向かい風だ。


 水辺の潤った風には、桜の花びらが混じっていた。まだ真新しい春光に、薄紅の花片が舞い踊る。


 ああ、私の春だ。


 きらきらした風を胸いっぱいに吸い込んで、そう思った。


 私はずっと、四月一日が嫌いだった。


 期待感でキラキラした空気とか、新年度に向かう緊張感とか、くだらない嘘に浮かれた広告とか。世の中が「四月一日」を強調する度に、縮み上がりそうな恐怖に襲われる。物陰に身を寄せるネズミのように、私はその一日を精一杯目立たないようにしてやり過ごしてきた。


 でも、今日は違う。


 私は自転車を停め、二階建ての社屋を見上げた。板張りの壁をロイヤルブルーのサイディングが縁取っている。焦げ茶色の外壁に白い筆で描いたように「木寿屋もことや」の屋号が標されていた。


 桂川沿いを走る千本通に会社はある。千本通は古い木造家屋に挟まれた、一車線の細い路地だ。京都らしい風情を残す街並みに、和モダンな建物がいい塩梅で溶け込んでいる。


 創業百六十年を誇る老舗の木造卸会社。私は今日ここの正社員になった。正社員だ。二十七歳にして初めて、その輝かしい地位を手に入れた。私は今日から、新しい人生を生きるのだ。


 ***


 小豆色のポロシャツに黒いスラックス。制服はなかなかおしゃれで嬉しい。台車の上にはバケツとモップと雑巾といった仕事道具が一式揃えられていて、そのどれもが真新しかった。


 ウキウキと上がるテンションを目の前の女性が押さえつける。三十代半ばの総務の北村きたむらさんが腕を組んで、いかにも面倒臭いという顔で私を見ていた。この人、七時の待ち合わせに三十分も遅れてきたのに「ごめんね」の一言も無かったんだから。


「社長室から優先的に掃除して、九時までに全体ざっと終わらせて。九時になったら古賀こがっていうパートの男性が出社するから、後はその人と適当に分担して。古賀君は仕事汚いけど、口出さんとってや。何か言われると、すぐにお腹痛くなって仕事休みやんねん。その人知的障害者やから、言うても分からんねん。障害者雇用の子や。その子が長いこと休んだら、社長の機嫌悪なるねん。私はもっと使える子雇ったらええと思うねんけど。お陰で無駄に一人、お掃除おばさん雇わなあかんくなったし」


 無駄なお掃除おばさんとはどうやら私のことらしく、左の口角を上げて下から上に視線を走らせてくる。私は気付かない振りをして、へへへっと笑った。


「出社した時には誰もおらんけど、防犯カメラはちゃんと動いてるからね。ほな、お仕事頑張って」


 手首をしっしと振り、くるりと背を向けた。頭の上に片手をグッと伸ばし、スタスタと歩き出す。


「あーあ、大人しく入社式に出てくれたら、こんな早朝出社せんでも良かったのに」


 大きな独り言だ。肩を竦めて溜息をつく。入社式に出ず初日から仕事をさせて欲しいと雇用契約の時申し出たら、人事の女性は快く承諾してくれた。仕事熱心でえらいわねと賞賛してもくれた。


 入社式のような式典に出向いたことがなく、スーツを持っていないからというのが本当の理由なんだけど。そのせいで二時間も早く出社させてしまったのだから、北村さんの嫌味は気にしないでおこう。ま、実際には一時間半の早出だけどね。


「さ、お仕事お仕事」

 私はフンと気合いを入れた。


 ***


 社長室は二階の最奥に在った。重厚な木製ドアを開け、私は思わず立ちすくむ。


 執務用の机と四人掛けのソファーが置かれていて、パーティションの向こうには給湯室がある。床も壁も天井も板張りで、デスクの奥には大きな硝子窓があり、桂川を見下ろすことが出来た。デスクは黒みを帯びた重厚な木製で、チェアーはフットレストの付いた革張りだ。ソファーも、同じ材質で出来ているようだ。


 部屋の隅々まで上品な一流品でしつらえられている。それなのに、天井からは埃が垂れ下がり、羽目板の隙間も黒ずんでいる。窓は曇り、シンクには水垢がこびり付いていた。


「汚い。……余りにも汚い」


 クラクラ目眩がした。でも、とにかくこれをやっつけなければならない。私は気合いを入れ、モフモフのモップを手に取った。 

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