鯨のサイズの風景

芳岡 海

魔境

 たまたま家が近かったんだ。それで、後藤さんの部屋にはたびたび行っていた。

 後藤さんはその頃駆け出しのカメラマンだった。もう駆け出しも駆け出し、ようやくアマチュアから片足出たくらいだったんじゃないかな。

 もともと自然の写真を専門にしている人で、月の半分は北へ南へ海外へと飛び回っていた。つまり後藤さんのアパートには、月の半分は家主がいなかった。友人たちが定期的に立ち寄っては空気を入れ替えて、という名目のもとに彼の部屋をシェアしていたのだった。

 変な部屋だったよ。何度来ても知らないところみたいで、でも落ち着かないというわけじゃなかった。僕は、家が近いから誘われればすぐ来る、二個下の大学の後輩だった。


 駅から徒歩二十分。洗濯機置き場が室内にあるだけでも結構マシに思える程度に古い、木造二階建てアパートの二階の部屋だった。

 僕は大学生だった。後藤さんの家と同じ駅から、これまた徒歩十五分もする安いところにワンルームを借りていた。

 後藤さんがそこに住んでいた理由は知らないけど、僕がその駅にしたのはそこに単館の映画館があったからだ。趣味のいいミニシアターだった。たまに授業に行かず、最寄りのスーパーの一袋四十一円のうどんと仕送りの米で食費を浮かせて、駅前の居酒屋でアルバイトをして、その映画館に通っていた。

 後藤さんは僕の入った映画サークルにいた人だった。今は世界中を旅するカメラマンをやっている。部屋に出入りする周囲の先輩たちからそういう話を聞いた。世界中を旅するという言葉や、いろいろな人が出入りする部屋、という現実味のなさに漠然とそそられていた。


 一年生が終わる春休みに誘われて行ったのが最初だった。二個上だけど気が合ってよく飲みに誘ってくれていた、先輩の阿川さんに連れられてだった。

 サークルの飲み会後。阿川さんたち数人の先輩と、それから一年の僕。「飲み足りないから」と「明日暇だから」という人間たちだった。もちろん家に本人はいなかった。

「ここに合鍵があるんだよ」

 阿川さんがアパートの下で言う。郵便受けのつまみを、右回しに〇番を二回、左回しで〇番を一回、という暗証番号が数人の友人たちで共有されているらしかった。開けると先輩は中に手を突っ込んで合鍵を取り出した。

 ドアが開けられるとお香の香りがした。古着屋で嗅ぐようなおしゃれなやつだ。開けられたドアの内側には南米っぽい木彫りのお面がかかっているのが見えた。入ろうとして、それと目が合ってぎょっとなった。至近距離で見るお面はあまりに「顔」だった。奥の見えない切り込みのような目、すぼめた口、縦に長く誇張された輪郭。レプリカなのか現地の本物かはわからなかったけど、ただの木のはずなのに生々しかった。おしゃれな古着屋のイメージとか、開かれた部屋とか、平和な想像をしていた僕を無言で見ていた。世界の厳しさを教えるみたいに。

 玄関すぐに洗濯機があり、その奥にキッチン、バストイレ。コンロ横に、見たことのない野菜が麻のネットで吊るされていた。軋む廊下を抜けて部屋に入ったところで物量に圧倒された。

 正面、ベランダに出る窓を塞ぐかたちでベッド。左側の壁は天井まである濃い茶色の本棚。右側の壁は絵や写真が貼られ、アウトドア用のリュックや帽子がかけられていた。

 本棚にはもちろん本。それからこっちにも写真。何かしらの民芸品の置き物。あるいは小さな聖人や天使の像。モビール。本棚の中ほどで、本に圧迫されて肩身が狭そうなテレビがあり、お香に混じって古本の匂いがして、ラグとクッションのなまめかしいほど鮮やかな色彩が床を埋めていた。

「旅人のアジトって感じでしょ」

 部屋を見渡す僕に阿川さんが言った。阿川さんは慣れた様子で、ベッドに片膝でのっかって窓を開け放つ。そして窓を開けたというのに暖房もつけた。

「俺が前回置いてたカップラーメンなくなってる」

 阿川さんの同期の先輩が、取っ手にドリームキャッチャーがぶら下がったキッチンの吊り棚を開けて言う。俺じゃないよ、と阿川さんはどうでもよさそうに答える。二人とも準・家主というくつろぎっぷりだ。


 後藤さんは、もともとは阿川さんたちの同期だった。大学に残っていればもうすぐ四年生になる代だ。映画サークルに所属しながら写真ばかり撮っていて、でもそれがとてもうまいことで一年の頃から知られていた。

 いつもバックパッカーみたいな恰好で授業に出てたよ、阿川さんが言った。もとからあいつは学校なんかに落ち着いてられなかったんだよな、ともう一人が言った。何食べても腹をこわさないとか、珍味系食材でも平気でいけてた、となぜかそのあとは後藤さんの写真ではなく胃袋の話になった。


 それからたびたび誘われて部屋を訪れるようになった。

 家もバイト先も近い僕は呼べば来る人員の一人だと、先輩たちからみなされたらしかった。

「後藤んちで飲んでるよ」

 バイトを終えた頃に誰かからそう連絡が来ていれば、ほとんど行った。宅飲みなら安くて、大抵は暇だったから。

 その頃は、本当にずっと暇だった。

 大学にも一人暮らしにもすっかり慣れて、何か知らないことが起こるのを期待していたと思う。でもこのままが一番いいとも思っていた。何かを期待して映画館に行ったし、飲みに行ったし、わけもなく遠回りして帰ったりした。

 部屋には駅前の西友に寄ってから向かうのが流れだった。アパートの周辺はひたすら住宅街で、ほぼ個人商店のデイリーヤマザキと自販機がかろうじてあるだけなのだ。足りない酒か、二リットルのペットボトルか、割引の総菜を持っていくと喜ばれた。もしくはトイレットペーパーとかカップ麺とか、置いておけるものを部屋代のかわりに持って行った。

 まかないを食べたバイト後、いつも缶ビールを一本買って飲みながら、二十分の道のりを歩いて向かった。自分の家でもない夜の住宅街をこうして何度も歩くのは変な感じだった。

 何度訪れても部屋に慣れる気はしなかった。ドアのお面や、本棚の隙間に置かれた動物の置物の妙に愛嬌のある表情や、花を模した陶器、壁にかかったドリームキャッチャーの鮮やかな羽、葦細工のオーナメント、かすれた塗料の絵、絵みたいに鮮やかな写真。

 物が多いというより情報が多かった。動物があり植物があり、海と空と砂漠と熱帯があり、およそあらゆるものがあった。僕はそれらにどれだけ親しみを持っていいのかわからなかった。お香の匂いはそれらに染み込んでいるのだろうと思われたが僕の体には染み込んでいかなかった。

 夜道を歩いていくのは、それらに向かっていくことのようだった。旅人のアジトと阿川さんは言ったけど、むしろ最果てに辿り着く魔境だという気がしていた。世界中のあらゆるものがそこに流れ着いて、住宅街の中で息を潜めている気がした。夜の住宅街は静かで、街灯だけが明るくて、時間はいくらでもあった。


 春休みの頃はまだ隙間風レベルで寒かった部屋も、夏が近づくと一応冷房が効いた。ただし人の家だからという一応の遠慮か、エアコンが古くて効きが悪かったのか(たぶん後者だけど)、部屋は暑かった。

 この部屋にはおもちゃ箱みたいな小さな冷蔵庫しかない。家主が月の半分いない家で食べ物を冷やしておくよりは、都度買って食べてしまったほうがいいからだ。だから宅飲みの缶ビールは入り切らずにどんどんぬるくなるし、買ってきた袋の氷は溶けるにまかせてテーブルに置かれていた。電子レンジはあった。


 かいた汗を補うべく僕らはビールを飲んで、たまには映画サークルの人間らしく映画を見た。部屋にはテレビはあるけど再生機器はない。

 その日は僕の同期がノートパソコンを持ってきていた。

 そういうときには駅前のレンタルショップにわざわざみんなで出向く。各々自分の観たいイチオシ作品やおすすめの隠れた名作を手に議論した結果、その日は「なんか逆に」みたいな雰囲気になって、大プッシュ中のマーベルシリーズの新作を借りた。このシリーズ、僕は観たことがなかったけど、こういうときが観始めるのにちょうどいいなと思って賛成した。でも観たことがないと言うと「これも知っておかないといけない」とかで旧作が二本追加されて閉口した。絶対途中で寝ると思う、と先に言った。


 申し訳ないことに、そして自分では予想してたけど、一本目の途中で寝た。すごい戦いがあったはずなんだけど、起きたら終わってた。酒のせいということにしようと思った。

 部屋のローテーブルの上で、同期のノートパソコンでDVDは再生されていた。

 目を開けると、枕にしていたクッションの渋いピンクと黄色の生地が目に入った。横で青とオレンジの刺繍のクッションに寄りかかった同期が缶チューハイを飲んでいた。そのままぼんやりしていると、本棚の端にある、黒い体に尾羽が黄色の極楽鳥の置物と目が合った。あんなところにも鳥がいたのか、とまた一つ発見した気分だった。同期は奥のベッドにいる阿川さんと喋っていて、ベッドは藍色に鮮やかな紫の模様が入ったシーツで、もう一人の先輩がキッチンの換気扇の下で煙草を吸っていた。魔境で目覚めたなと思った。

 DVDは再生を終え、メニュー画面が同じメロディを繰り返していた。特に二本目を観ようともならず、誰か再生が終わったことに気づいているのかいないのかもわからなかった。僕はまだ眠かったから目を閉じた。僕が目を覚ましたことも、誰も気づいていないかもしれない。

 今何時くらいだろうと思った。バイト先を出たのが九時半で、これから行くよと連絡を返して西友に寄ったら、DVD借りに行くからゲオで待ってて、と返信が来て合流した。部屋についたのは十時過ぎだったか。しばらくしてから映画を観始めたから、今は十二時過ぎか、もう一時近いか。

 微睡みの中で話し声が反響して聞こえる。声は部屋に心地よく響いていた。同期の笑う声がする。煙草を吸い終えた先輩が僕の横に腰を下ろす。ビールまだある? たぶんある。みたいな会話がされる。寝汗をかいた気がしたけど、それほど暑くはなかった。

 がちゃがちゃっと急に鍵の音がした。こんな時間に誰か来るなど思っていなかった僕が驚いて飛び起きる間に、玄関のドアが開いた。

「おー、久しぶり」

 ベッドに寝ころんでいた阿川さんがちょっと顔を上げて、煙草を吸い終えたばかりの先輩は振り向いて、のんびりと家主を出迎えた。

 後藤さんは、紺色のTシャツにカーゴパンツ、登山用の大きなリュック、その上にもさらに荷物を括り付けた装備で玄関に立っていた。お邪魔してますと慌てて声をかける僕と同期に、片手を挙げて答えた。靴ひもを一足ずつほどいてアウトドア用の靴を脱ぐ。玄関で荷物をおろし、リュックの中をごそごそやったと思うと、こちらまで来ないでそのまま手前のユニットバスに入っていった。すぐにシャワーの水音が聞こえ始めた。いかにも旅慣れた人の帰宅だった。

「言ってくれれば部屋空けといたのに」

 タオルを首にかけて出てきた後藤さんに、阿川さんが言った。寝ころんでいたベッドから上体を起こして、家主を出迎える姿勢、というよりはただ久しぶりの友人と喋りたくて起きただけのようだった。

「別に構わないよ」

 どさりと部屋に腰を下ろして後藤さんが答えた。ぬるくなったけどいる? と缶ビールを差し出されると迷わずプルタブを開け、コマーシャルでしか見たことないような飲みっぷりを見せた。長旅からようやく帰ってこれたというタフな疲労がにじんでいた。

「どこ帰りよ」

 労うでもなく阿川さんが聞いた。

「長野」

「国内か」

「サークルの二年だよ」

 もう一人の先輩が僕ら後輩を紹介してくれた。名前と、勝手にあがりこんでいたことの詫びと、後藤さんのことは前から話に聞いてます、と僕らが交互に言うのを後藤さんは、いいよいいよそんなこと、と手をひらひらさせて答えた。

「本人に会うよりも先に自宅にお邪魔するのは初めてでした」

 僕が言うと後藤さんは笑って

「会わないままの可能性もあったよね」

 と答えた。僕は動揺した。客死、というのが頭をよぎったのだ。あ、タイミングの話か、とすぐ理解した。そう言うと本人を含めた先輩三人が爆笑した。

「後藤はどこ行っても心配してないわ」

「なんでも順応するもんな」

 二人が言う。後藤さんは平然としている。ビールを飲みテーブルの上のチータラの袋に手を伸ばす。

 思ったより普通の人という印象だった。この部屋をそのまま人間に変換するとしたら、あらゆる文化を取り込み民族アクセサリーをジャラジャラさせた放浪の旅人になると思う。別にそんな人ではなかった。ほどよく日に焼けた顔と、引き締まった体格と、明るい話し方に健やかな安心感と親しみを覚えた。

 でも魔境の主だと思った。主張して見えていた部屋の物たちは、彼がこの部屋に現れた瞬間に何もかもあるべくしてこの部屋にあるように見えた。当たり前にくつろぐ阿川さんたちを見ているともう誰が家主だかわからないと思ったけど、部屋の主とはこういうことなのだと思った。

「次、いつどこ行くの」

 先輩が訊ねる。ナイル川でも南極でも驚かなさそうだった。

「来週から北海道。夏のうちに行っとく」

「来週って」

「うん、月曜日」

「三日後じゃん」

 先輩たちがまた笑う。今日は金曜日だ。

「一人で行ってるんですか?」

 同期が恐る恐る聞いた。違うよ。後藤さんが言う。

「一応、俺はアシスタント」

「へえ。すごい」

「大変ですよね」

 思わずこちらは感嘆の声をもらすが、どーだろうね、と後藤さんは首を傾げる。

「好きであちこち行ってるからね。決まった場所だけで大変な思いしてるよりはいいかな」

 たぶん、ひとところにいられない人種というのがいる。遊牧民的というのか、開拓者精神というのか、放浪癖というのか。

 自分でいろいろなところへ行く分、自分の部屋にいろいろな人がいても平気。そんな開けた精神を僕はそのワンルームで感じていた。


 考えてみれば毎週のようにあの部屋で飲んでいた頃だった。

 予告通り後藤さんは北へ旅立ったらしく、翌週には部屋は空だった。先輩たちは慣れているようで彼の日程を気にしない。

 僕はそうして誘われては部屋を訪れ、仕送りの米を食べ、それなりに授業に出て、バイトをして、映画館に通い、結局そんなルーティンの生活を心地よく思っていた。


 もう一度だけ後藤さんと会ったのは、少々変則的な状況だった。

 バイトを終え、駅前の細長い雑居ビルを出た。チカチカする入り口の看板と飲み会帰りの団体の横をすり抜けて、駅前のロータリーへ出たところだった。名前を呼ばれて振り向くと、後藤さんだった。

「あ、お疲れ様です」

 朝も夜も行きも帰りも使う挨拶を言う。

「家近いんだっけ」

 後藤さんが僕に聞いた。旅の荷物は持っていない手ぶらで、ロゴのTシャツとブルージーンズに、サンダルだった。そうです、と答えると、ちょっとさあ、と僕の顔を見て言う。

「暇だったらでいいんだけど、手伝ってくれない」

「いいですよ」

 なんだかわからなかったけど答えた。ありがと、と後藤さんは僕を先導して、駅の喧騒を歩き出す。まっすぐ家に向かうようだった。何するのかは行けばわかるかと思った。飯食った? と聞かれ、まかない食べてきましたと答え、どこでバイトしてんの、とごく軽い会話をした。互いに会うのが二回目という遠慮がないのは部屋のおかげだろうかと考えた。

 住宅街にさしかかるととたんに静かになり、つられて会話が止まった。道の脇から虫の声が響いていた。蒸し暑くじめっとしていたけど、もう九月が終わろうとしていた。

「今日、なんとかムーンらしいよ」

 歩きながら後藤さんが、めちゃくちゃ情報量の無い話を振る。

「本当だ」

 見上げると確かに、月が大きすぎるくらいに大きく光っていた。

「スーパームーンみたいな名前の」

「なんか話題になってましたよね」

 スマホのカメラをかざしてみるが、白飛びして何が写っているのかわからない。

「スマホじゃダメっすね」

「裏技はいろいろあるけどね」

 そう返されてから、プロのカメラマンの前で写真を撮ろうとしていることに気づいて恥ずかしくなる。

 僕のそんな考えなど気にならないようで、後藤さんはのんびりと歩く。

 郵便受けを素通りして階段を上がった。合鍵は必要ないのだ。家主のいないこの部屋には何度も来ているのに、家主しかいない部屋にお邪魔するのが初めてなのは変な話だと、一人で可笑しかった。

「で、手伝ってほしいのは」

 がちゃりと鍵が開けられる。ドアの内側から南米のお面が僕を見る。お香と古本の匂い。後藤さんに続いて中に入ると、ここがこの人の個人的な空間だったことを急に実感した。

 古本の匂いが増した気がしたのは気のせいではなかった。部屋は少し様相を変えていた。部屋の真ん中で後藤さんがこちらを振り向く。

「本棚解体すんの、手伝ってほしいんだ」

 本棚からは一部の本が取り出され、ところどころにごっそり空っぽの段が生まれていた。クッションはベッドの上にどかされ、棚の置物もテーブルによけて置かれている。これではまるで、

「部屋、引き払うんですか?」

 驚いて僕は言った。確かに、阿川さんたち四年生もぼちぼち就活を終えている。次の春にはみな卒業していく。僕の問いに後藤さんは笑って首を振る。

「まだそこまでじゃないよ。さすがに物置になり過ぎてたから、次の出発までにちょっと片付けようと思って」

 だから、ここはまだ全然使ってていいよ。半分は事務連絡みたいに後藤さんは言った。

 そう言われてもまだ僕が驚いているうちに、後藤さんはさっさと作業を再開させた。慌てて加わる。

「並び順もジャンル分けもないから全部出しちゃって」

 そう言われて棚から出して黙々と床に本を積み置き物を並べる。本棚の中身は様々だった。写真集はもちろん、図鑑、歴史、郷土史。マリア像に仏像によくわからない像。日本の田舎の民芸品かと思ったら「北欧の玩具」と言われたりした。かと思えば普通のコケシ(コケシの普通ってなんだ?)とかもあった。ニュートンとナショナルジオグラフィックのバックナンバーはちょっとおもしろそうだった。

 どれもただ本棚に入っていただけではない。内容を聞けばちゃんと答えが返ってきて、それにまつわる話が聞けた。かといってそれは思い出話というものではなく、彼の世界の一端を見ることのようだった。

 後藤さんの口調はそっけないが冷たくはなく、簡潔で明確だった。それが見知らぬ土地に適したコミュニケーションなのだろうと僕が想像できたのは後になってからだった。

「この本みんな手放すんですか?」

 欲しいような、この部屋にこれらがないのが惜しいような気持ちで訊ねる。

「本はまだ置いとく」

 手を止めずに後藤さんが答える。

「え、本棚は解体するのに?」

「とりあえず、本棚なくせば本も減らせるかなって作戦」

 なんですかそれ。僕は笑う。既にあふれてたじゃないですか。まあねえ、と後藤さんも笑っている。

 重厚に見えた背の高い本棚は、中身を出し棚板まで外してしまうと貧相に見えた。部屋の床はずいぶん本で埋まり、むしろ前より物置っぽくなっていた。

 内側が完全にからっぽになって、本棚は少しぐらつきだした。これ使って、とドライバーが手渡される。

「ぶっ壊してもいいよ。どうせ捨てるから」

 適当なネジにドライバーを差し込んで後藤さんは言う。知り合いのカメラマンから千円でもらったやつだから、別に捨てて惜しくないんだよ。

 ネジを外すごとに棚は緩んでいっているようだが、バラせるまでにはいかない。急に崩れそうでひやひやした。上の方は椅子に乗って、天板や側面を押えてドライバーを回すのは結構疲れた。終盤は一瞬本当にぶっ壊したくなった。二階から放り出せば壊れて捨てられるんじゃないですか。ヤケになって言う。やってもいいけど、近所からの苦情で俺もアパートから放り出されるだろうね。ヤケになった答えが返される。


 最後は深夜になった。粗大ごみは面倒だから、ただの木材となった本棚を普通のゴミ袋何枚にも分けて無理矢理押し込んだ。明らかに二十四時間ゴミ出し可ではないアパートのゴミ捨て場を二人で往復して、部屋に戻った。

 本棚のあった壁が、異様に白くがらんとしていた。

 地平線テープを思い浮かべた。ドラえもんのひみつ道具だ。そのテープを張ると、のび太の部屋の壁の一面に、どこまでも地平線が続くだけの広大な異次元空間がひらかれるのだ。ただしテープが外れてしまうと部屋に戻ってこれない。

「はい、これ」

 もう一度ゴミ捨て場に行ったのかと思っていたら、後藤さんが自販機の缶コーヒーを渡してくれた。あ、すいません。安い給料でごめん。いや全然です。

 後藤さんがベッドにどさっと腰を下ろし、僕も本の山の隙間で仰向けになった。ざっくりとしたラグの感触が後頭部に当たった。油断すると硬い背表紙に足をぶつけたけど部屋の居心地は思ったより変わらなかった。空いた壁だけががらんとして、広大な異次元空間がひらかれていた。

 ベッドに頭を向けて寝転がる僕の頭の先で、後藤さんが窓を開ける。空気がすっと抜けて外の虫の声が聞こえてきた。

 地平線見たことありますか。僕が聞く。なんで。日本じゃ普通見えないじゃないですか。まあそうだね。

 ライターの音がして、開けた窓枠にもたれて後藤さんが煙草に火をつけた。見たことあるはずだけど、あれが地平線だとか思って見てた記憶ないなあ。思い返すように言う。

「次はどこ行くんですか」

 何百回も聞かれているであろう質問。

「次はね、南太平洋」

「何撮るんですか」

「見えるもの全部」

 適当に言われたのではないのがわかった。本当に全部撮るつもりで行くのだろうと聞こえた。この人にこの部屋は窮屈だろうなと思った。ベランダに置かれた灰皿代わりの空き缶が、コンクリートに当たって掠れた音を立てた。缶に煙草の灰が落とされる。

「さっきのなんとかムーン、こっからよく見える」

 煙を吐いて後藤さんが言った。仰向けのまま僕は顔を向けた。ここからは月は見えず、明るい夜空とそれを見上げる後藤さんの横顔だけが見えた。暗闇は暗闇のまま明るくなることもあるんだなと思った。明るい夜空だった。昼間よりも物がよく見えそうだった。

 カーテンレールに引っ掛けられた真鍮のモビールがちらちら揺れる。カーテンレールの上からは黒人歌手のレコードが僕を見下ろしていた。ローテーブルの上に移された極楽鳥と目が合い、手前の背表紙のタイトルが目に入った。オリエント文明とか、太平洋開拓史とか、暗黒の宇宙とか。自分の知らないことが少なくともこの部屋の物の数だけあった。

「阿川たちが卒業したら、合鍵預かっててよ」

 急に後藤さんが言った。軽いノリでも深刻でもなかった。でもそれは、遠い知らない世界のことに思えた。


 結局僕が合鍵を預かることはなかった。

 僕は秋期からゼミが忙しくなり、四年生は卒論に取り掛かり始め、そうしている間に後藤さんの写真が一つの賞をとり、いよいよカメラマンの仕事が本格化してあの部屋は引き払ったと聞いた。学祭があって年末が来てすぐ春休みに入った。四年生はたった一度ずつ季節を通過すれば卒業してしまう。

 カメラマンとして後藤さんの名が知られるきっかけとなるその賞をとった写真が、あのとき言っていた南太平洋で撮られたものだということを僕は後になって知った。

 僕は同じアパートに住み続け、そのまま卒業する予定だった。すっかり会社員の顔になった阿川さんが僕の内定祝いで飲みに誘ってくれた。互いの近況を話し、サークルの近況を話し、仕事のことを話し、阿川さんの好きだったラーメン屋がなくなっていた話になり、それから後藤さんの話になった。

「物を捨てたがってる」

 阿川さんが彼についてそう言った。

「どういうことですか」

「賞とった写真っていうのが、本棚捨てた翌日に出発した旅で撮ったんだってさ。余分なものを捨てるといいものに出会えるかもしれないって。あいつらしいアホなジンクスだな」

 同期特有の雑さで阿川さんは言った。僕は、あの日の明るい夜空を思い返していた。何もかも見えそうな明るい夜空だった。

 これだよ、と阿川さんがスマホの画面を見せてくれた。画像検索ではなくて、保存してあるらしかった。


 ひゅっと自分が小さくなったような、急に広い場所に出てきてしまったときの感覚を覚えた。

 鯨の写真だった。

 鯨のいる風景の写真という方がいいかもしれなかった。遠くの海面で水平線を越えるようにジャンプする、ブリーチングの瞬間。気が遠くなるほどに広がる空と海の真ん中に堂々と巨体を見せつける鯨の姿は、まるでここが世界の中心だと宣言するようだった。それは鯨のいる風景、鯨のいる世界の写真だった。

 あの部屋はやはり窮屈だったのだと、僕は思った。部屋にあったたくさんの本と、絵と写真と置物と、あらゆる色彩と、感触と風景と匂いは、多すぎたのではなくて部屋が狭すぎたのだ。僕は生活を退屈だと思ってはいたけど、それを窮屈だと思ったことはなかった。退屈なりに僕にとってぴったりの場所だった。

 中央に写る鯨を見つめていると、カメラの奥でそれを見つめていたはずの後藤さんの目線が僕の中で重なった。異様に明るかったあの日の夜のように、後藤さんにはきっといろいろなものが広く遠くまで見えていた。そこには自分の世界とか外の世界とかはきっとなかった。内も外も、近いも遠いも、知っているも知らないもなく、ただ世界として無限に広がっていたのだ。その広がりを鯨が受け止めた。

 いや、彼は鯨の側なのかもしれない。もとからずっと広い世界にいるべき人で、ただ親しい顔をこちらに向けてくれていただけだった。

 あの人は魔境を抜け出した。そして自分の世界を写真に写すという手段で手に入れたのだ。

〈了〉

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鯨のサイズの風景 芳岡 海 @miyamakanan

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