52 本当に、お人好しな方ですわね


 泥の中から浮かび上がるようにマルガレーナの意識が覚醒する。


 かすかな声を洩らしてまぶたを開けたマルガレーナの視界に入ってきたのは、カーテンの間から差し込む朝日に淡く照らされた見知らぬ天井だ。


 一瞬、混乱に陥りかけた頭が、すぐにここは聖獣の館だと伝えてくる。


 両親が出てくる夢を見ていたせいで、とっさに公爵家にいるものと勘違いしてしまった。


 マルガレーナは夢の内容を思い返し、無意識に苦笑を浮かべる。


 我ながら、荒唐無稽こうとうむけいな夢を見たものだ。いつもしかめ面でマルガレーナにお小言を言う両親が、満面の笑みで娘をねぎらってくれるなんて、あるはずがないのに。


 ――それこそ、マルガレーナが王妃として選ばれない限りは。


 だが、マルガレーナが王妃に選ばれる未来など、天地がひっくり返っても決してこないだろう。


 夕べマルガレーナは邪神の残滓に囚われて、ジェスロッド達を襲おうとしたのだから。


「なんて、愚かだこと……」


 昨夜の己を思い出し、力なくこぼれた声は、他人事のようによそよそしかった。


 自分が王妃に選ばれないからといって、ソティアを排除しようとするなんて、あまりに短絡的だ。


 王妃になることがマルガレーナの望みだったとはいえ、ソティアを排除すればジェスロッドが自分を選んでくれる保証など、どこにもないのに。


 むしろ、ジェスロッドの深い怒りを買うだけだろう。


 邪神の残滓に囚わると、そんな判断すらできないほど思考力が落ちてしまうのか。


 囚われていた間の記憶は、はっきりと残っている。


 夜着姿のソティアがジェスロッドと一緒にいるのを見て激昂したことも、ソティアが憎らしくて仕方がなかったことも、そして――。


 そのソティアに救われたことも。


 ジェスロッドが聖剣を振るった時、自分の命はここまでなのだと覚悟した。


 ソティアを傷つけられたジェスロッドの怒りは苛烈極まりなく、きっとマルガレーナは容赦なく斬られるのだろうと。


 それでもよいと思っていた。


 王妃に選ばれず、両親に失望されるくらいなら、ここで命を断たれてもかまわないと。


 それなのに――。


 ゆっくりと身を起こそうとして、マルガレーナは掛布の左側が何かに押さえられているのに気がついた。


 疑問に思いながら上半身を起こすと、動きに合わせて、肩を過ぎた辺りでざんばらに斬られた髪がはらはらと肩をすべる。


 大切に手入れしてきた自慢の金の髪が無残に斬られていることに、胸にずきりと痛みが走る。


 だが、いまは命が長らえていることを喜ぶべきだろう。


 胸の痛みを振り切るように身を起こしたマルガレーナは、掛布の左側を押さえつけているものに視線を向けた。椅子に腰かけ、寝台に突っ伏して眠っていたのは。


「ソティア嬢……っ!?」


 驚きにかすれた声がこぼれ出る。


 夕べ気を失ったマルガレーナを見守るうちに、そのまま寝落ちてしまったのだろう。


 質素な夜着に包まれた肩にジェスロッドの上着を羽織っただけのソティアは、身を半分に折るような体勢にもかかわらず、ぐっすりと眠っている。


「本当に、お人好しな方ですわね……」


 自分を殺そうとしたマルガレーナを助けようと身をていしたばかりか、その後の付き添いまでするなんて。


 なんとお人好しで、甘い性格なのだろう。


 こんな性格だからこそ、令嬢達にも『行き遅れのかかし令嬢』と侮られていたに違いない。


 マルガレーナ自身も、侍女と一緒に立ち働くこともいとわない、子どもの世話に長けているだけの貧乏男爵家の令嬢だと軽んじていた。


 けれど。


『きっと、ずっと努力なさっていまのマルガレーナ嬢になられたのでしょう……っ!?』


 マルガレーナの目を真っ直ぐに見つめて告げられた言葉が甦る。


 ずっと、誰かに自分の努力を認めてほしかった。


 けれどもカヌンゲルク公爵家の令嬢ならばできて当然、と誰ひとりとしてマルガレーナの陰ながらの努力に気づいてくれなかったというのに。


 まさか、ソティアがマルガレーナがずっと欲しかった言葉を口にするなんて。


「……陛下が、あなたに魅せられた理由が、少しだけわかった気がしますわ……」


 自分でも驚くほど柔らかな笑みが口元に浮かぶのを、マルガレーナは感じていた。



   ◇   ◇   ◇


「ほ、本当に私でよろしいのですか……?」


 椅子に腰かけ、肩に布を巻いたマルガレーナの後ろに立ち、ソティアはおろおろと声を上げた。


「ええ。他でもないあなたがいいの」


 うろたえるソティアとは対照的に、マルガレーナは落ち着いたものだ。


 ソティアの手にはいま、はさみが握られている。


 夕べ、マルガレーナの寝台のそばについていたソティアは、うっかり椅子に腰かけたまま眠ってしまった。


 気がついたマルガレーナが寝台からそっと下りた拍子に、ソティアも目が醒めたのだが、起きるなりマルガレーナに頼まれたのだ。


『このままでは人前に出られませんわ。ソティア嬢、髪を切ってくださる?』と。


 実家にいた頃、幼い弟妹の髪を切ったことは何度もある。とはいえ、ちぐはぐな長さになっているものの、手入れが欠かされたことのないマルガレーナの金の髪は、まるで最上級の絹糸のようで、ソティアなどがふれて切っていいものかと不安になってしまう。


「思い切って切ってちょうだい。どのみち、このままでは侍女達の元へ戻ることもできないのだもの」


 ソティアは夜着からお仕着せに着替えているが、マルガレーナは藍色のドレスのままだ。


 マルガレーナの侍女達には、ジェスロッドの名のもとに聖獣の館の侍女を通じて、『マルガレーナは昨夜、ジェスロッドとふたたび対話を求めて訪れた際、邪神の残滓との戦いに巻き込まれ、気を失ったため、ソティア嬢の部屋で看病している。気を失っただけで怪我はしていないため、安心してほしい』と朝一番で伝えられている。


 夜に異性であるジェスロッドの元を訪れるとは、誤解を生まずにはいられない行為だが、それについてはマルガレーナが、


『侍女達によからぬ噂を流させたりなど、わたくしがさせませんわ。下手に噂が流れれば、わたくしの名誉も傷つきかねませんもの。カヌンゲルク公爵は侍女がそのようなことをするような教育はほどこしておりません』


 と自信満々に言い切っている。


 マルガレーナが邪神の残滓に囚われたという事実を隠す以上、斬られた髪のことも含め、マルガレーナには多少泥をかぶってもらう他ない。


 はさみを手にしたまま、ためらっているソティアをマルガレーナがくすりと笑って促す。


「よほどの失敗をしない限り、あなたを責めたりしないわ。気にしないで切ってちょうだい。聖獣の館を辞去する準備もあることですし、あまりのんびりはしてられないでしょう? あなたもユウェルリース様のお世話や、式典の準備があるでしょうし」


「式典の準備、でございますか……?」


 マルガレーナの言葉に、きょとんと呆けた声が洩れる。


 男爵令嬢に過ぎないソティアは王城の式典などもちろん関係ないが、ユウェルリースもそうとは限らない。


 だが、ジェスロッドからも、式典があるという話は特に聞いていない。


 ソティアの声に、マルガレーナが失言を悟ったかのようにあわてた様子で言を継ぐ。


「陛下が邪神を封じたことを祝う式典なのだけれど……。ユウェルリース様は赤ん坊の姿になられているものね。きっと陛下のほうで、ユウェルリース様はご出席なさらないように事前に調整なさったのでしょう。それで、ソティア嬢には知らせていなかったのではないかしら?」


「……左様でございますか。きっとマルガレーナ嬢のおっしゃるとおりなのでしょう」


 無意識に震えそうになる声を抑えつけてなんとか応じる。


 ユウェルリースのお世話係でしかないソティアがジェスロッドの予定を知らなくても、何の不思議もない。むしろ、知らなくて当然だ。


 なのに、ジェスロッドとソティアの間に、どれほどの身分差があるのか、改めて思い知らされて、胸の奥がずきりと痛む。


 本来なら、厚意であってもジェスロッドの上着など借りられる身分ではないのだ、ソティアは。


 起き出した時にすでに上着は脱いでいるが、身体の周りにかすかに残っていた移り香が急速に薫りを失ってしまったような感覚を覚え、ソティアは小さくかぶりを振る。


 誤解してはいけない。昨夜ゆうべの距離の近さこそが特別で、これが本来ソティアが守るべき距離なのだ。


 それを寂しいと思うなんて、傲慢ごうまん極まりない。


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