51 きみもゆっくり休むべきだ


「自覚がないのか?」


 目を瞠ったジェスロッドが、呆れたようにふはっと吹き出す。


「ユウェルが成長するほどの慈愛を見せてくれたというのに、そこまで無自覚だとはな。いや、意識せずともこれほどまでに愛情深いからこそ、というべきか……」


「ふにゅ……」


 ジェスロッドの声に応じたのか、それとも寝言か、ソティアの腕の中ですっかり寝入ったユウェルリースがかすかな声を洩らす。


「陛下。ユウェルリース様もマルガレーナ嬢も、もちろんアルベッド殿下もですが……。このままにはしておけません。ユウェルリース様を抱っこしていただけますか? マルガレーナ嬢を運びたいのです」


「とんでもないことを言うな。きみの細腕で運べるわけがない。マルガレーナ嬢を運ぶなら俺が運ぼう」


 言うが早いが、身を屈めたジェスロッドが難なく気を失ったマルガレーナを抱き上げる。マルガレーナの腕がだらりと力なく垂れ下がった。


「マルガレーナ嬢の部屋へ連れて行けばいいか?」


「あの……。では、私がお借りした部屋へお願いいたします。この髪を見られたら、侍女達が驚くことでしょう。そのような事態は、きっとマルガレーナ嬢も望まれないと思いますから」


 素早く考えを巡らせ、ユウェルリースの私室の隣の部屋へ足早に歩み寄る。


 さっと扉を開けて招き入れようとすると、扉のところで立ち止まったジェスロッドが顔をしかめた。


「マルガレーナ嬢をこの部屋へ運び入れたら、きみはどうするつもりだ? まさか、マルガレーナ嬢と同じ寝台で眠るわけではないだろう?」


「私はマルガレーナ嬢のそばについています。ソラレイア嬢のように、目覚めた時に混乱されるかもしれませんから……。事情を知っている者がそばにいたほうが、よろしいでしょう?」


 告げた瞬間、ジェスロッドの眉がきつく寄る。


「だが、それではきみが休めまい。ユウェルが瘴気を祓ったとはいえ、一度は瘴気に襲われたのだ。きみもゆっくり休むべきだ」


 ジェスロッドの声はソティアへの気遣いがあふれていて、胸の奥があたたかくなる心地がする。


「お気遣いいただきありがとうございます。大丈夫です。こちらの部屋にも、ソファーがありますし……」


「ソファーで眠るつもりなのか!?」


 ジェスロッドが目を怒らせる。


「大きなソファーですから、問題なく眠れると思います。それに……。さすがに陛下がマルガレーナ嬢についているわけにはいきませんでしょう……?」


「それはそうだが……」


 至極真っ当な指摘をされたジェスロッドが、難しい顔で押し黙る。


 引く気はないという意志を込めて黒瑪瑙の瞳を見つめると、根負けしたようにジェスロッドが吐息して、部屋に足を踏み入れた。


 ソティアが掛布をめくりあげた寝台に、マルガレーナを丁寧に下ろす。


「わかった。きみがそこまで言うのなら、マルガレーナ嬢はきみに任せよう。ユウェルはもう寝入ってしまったようだしな。ユウェルは俺が部屋へ連れていこう。せめて、そのくらいさせてくれ」


 ソティアが返事をするより早く、ユウェルリースを抱っこしようとジェスロッドが身を屈める。


 凛々しい面輪が不意に近づき、ソティアの鼓動がぱくりと跳ねた。


「あ、あの……っ?」


 ユウェルリースを渡しても、ジェスロッドはすぐには身を起こさない。


 黒瑪瑙のまなざしにあぶられるような心地を覚え、ソティアはおろおろと声を上げた。


「……きみが無事で、本当によかった……っ」


 心の底から安堵したと言いたげに紡がれた声に胸がいっぱいになる。


「陛下が助けてくださったからに他なりません。なんとお礼を申し上げればよいのか……。足手まといになってしまい、申し訳ございませんでした」


 黒瑪瑙の瞳に見つめられていると恋心があふれ出てしまいそうで、ソティアはあわてて深々と頭を下げる。


「何を言う? 先ほども言っただろう? マルガレーナ嬢を救えたのはきみのおかげだと。俺が礼を言うことはあっても、きみが詫びることなど、何ひとつもない」


 ジェスロッドの声は、ソティアの不安を払うかのように力強い。


「陛下……」


 顔を上げたソティアの視線がジェスロッドのまなざしと絡みあう。


 今夜はあまりに信じられないことばかりが起こって、まるで夢の中を彷徨さまよっているような心地がする。


 ――いまならば、胸の奥に秘めておかねばならない恋心を口に出しても許されるのではないかと。


「ソティア……」


 ジェスロッドの低い声が、甘くソティアの名を紡ぐ。


 黒瑪瑙の瞳の奥に宿る灯火ともしびに誘われるように身を乗り出そうとして。


「うにゅぅ……」


 ジェスロッドの腕の中のユウェルリースがこぼした声に、お互いに、はじかれたように身を離す。


 一瞬、ユウェルリースが起きたのかと思ったが、どうやら寝言だったらしい。ユウェルリースは目を閉じたまま、幸せそうに口をもごもごさせている。


「す、すまん。ユウェルを寝かしてくる」


「あ、あのっ、上着をお返ししなくては……っ」


 きびすを返そうとしたジェスロッドにあわてて告げると、穏やかな笑みとともにかぶりを振られた。


「そのまま着ておくといい。返すのは明日でかまわん」


「では……。陛下のご厚情に甘えてお借りいたします」


 体格のよいジェスロッドの上着はもちろんソティアには大きすぎるが、麝香の残り香が薫る上質な生地は、羽織っているだけなのにジェスロッドに守られているかのような安心感がある。


 せめて、今夜だけはこの薫りに包まれていたい。


 上着の前をかきあわせて礼を述べると、ジェスロッドがほっとしたような笑みを見せた。


「おやすみ、ソティア嬢。ちゃんと休むのだぞ」


「はい。陛下もごゆっくりおやすみください」


 ジェスロッドとユウェルリースを見送ってからそっと扉を閉めたソティアは、テーブルの椅子を寝台のそばへと運んで座る。


 静かな寝息を立てるマルガレーナは、ついさっきまで邪神の残滓に囚われていたとは信じられないほど穏やかな寝顔だ。


 ただ、枕の周りに散った長さのちぐはぐな髪だけが、先ほどの出来事は夢ではなかったのだと突きつけてくる。


 いつものソティアなら、絹のドレスに皺がつくような事態を看過できないが、さすがにいまの状況ではマルガレーナの着替えはどうしようもない。


 明日の朝、マルガレーナに謝らなければ。

 いや、それよりも目覚めたマルガレーナに髪のことを何と言って慰めるべきか。


 マルガレーナの侍女達にどうやって説明するべきかも考えなければいけない。


 だが、いまだけはマルガレーナの無事を喜んでも罰は当たらぬだろう。


 甘く香るジェスロッドの上着を胸の前でかきあわせ、ソティアは眠るマルガレーナを見つめた。


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