50 邪神の残滓はどうなったのでしょうか……?


「ユウェルリース様……っ!?」


 ユウェルリースはまだようやく掴まり立ちができるようになったばかりだったはずだ。


 だが、てちてちとこちらに歩いてくるユウェルリースの歩みは、危なっかしいところはあるものの、転ぶ様子はない。


 いや、それどころか産着から飛び出したふくふくした手足は、明らかに成長している。


「おちあ〜っ!」


 がしっとソティアにしがみついたユウェルリースが、満面の笑みを見せると同時に、赤ん坊の時よりわずかに長さを増した銀の角がきらめいた。


 途端、首筋でちりちりとうずいていた痛みが跡形もなく消える。


 自由になった片手でそっとふれて確かめても、傷ひとつない。


「ユウェルリース様……?」


 いったいユウェルリースに何が起こったのか。


 わけがわからず愛らしい面輪を見つめても、ユウェルリースはにこにこと笑うばかりだ。


「おちあ〜っ!」


 どうやらソティアを呼んでくれているらしい。抱っこをねだるように両手を上げた小さな身体を、ソティアは優しく抱き上げた。


 いままでと異なるずしっとした重さが腕にかかる。


「ユウェルリース様が怪我を治してくださったのですか……? ありがとうございます」


 これが、アルベッドが以前尋ねていた癒やしの力だろうか。


「あいっ!」


 ソティアの言ったことがわかったらしいユウェルリースが、こくんと笑顔で頷く。


「助かった、ユウェル」


「あ〜い!」


 ジェスロッドにわしわしと大きな手で撫でてもらったユウェルリースが、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げる。


 ユウェルリースをねぎらったジェスロッドが立ち上がり、ソティアもあわててて続こうとした。だが、恐怖で足がえていたらしい。


 急に成長したユウェルリースの重みもあり、思わずよろめいた身体をジェスロッドに抱きとめられた。


「無理はするな。急いで立ち上がらなくてもいい」


 ふわりと揺蕩たゆたう甘い麝香じゃこうの薫りとともに、優しい声で告げられる。


 思わずこのまますがりたくなるような頼もしい声と腕。


 だが、ソティアは己の足に力を込めると、しゃんと背筋を伸ばし、ユウェルリースを抱き直してかぶりを振る。


「で、ですが、マルガレーナ嬢とアルベッド殿下をこのままにはできません……っ! 特にアルベッド殿下はお怪我をなさっていますし……っ!」


 床に倒れた二人は、先ほどからぴくりとも動かない。


「アルベッドなど捨て置けばいい。きみを傷つけたんだ。本当なら首を斬り飛ばしてもまだ足りん」


「へ、陛下……っ!?」


 まだ戦いの高揚こうようが残っているのだろうか。

 過激なことを言うジェスロッドに目を瞠る。


 と、ジェスロッドが仕方なさそうに吐息した。


「だが、奴の血で聖域をけがすのも業腹だな。ユウェル、止血だけしてやれ」


「うみゅぅ……」


 不満そうにしつつも、ユウェルリースの銀の角がふたたびきらめく。


「陛下、ユウェルリース様も……。ありがとうございます」


 一歩後ろに下がって礼を述べると、名残惜しげに腕をほどいたジェスロッドがかぶりを振った。


「きみが礼を言う必要などない。アルベッドのような外道にまで慈愛の心を向けてやるとは……。きみの優しさは留まるところを知らないな。だからこそ、ユウェルがこのように成長できたのだろうが……」


 話しながら、ジェスロッドがアルベッドを一顧だにせずマルガレーナへ歩み寄る。ユウェルリースを抱いたソティアも後に続いた。


 藍色のドレスを花びらのように広げ、仰向けに倒れたマルガレーナは怪我をしている様子はない。だが……。


「なんということでしょう……っ! 美しい御髪おぐしが……っ!」


 マルガレーナの面輪を見た途端、ソティアの口から思わず悲痛な声が飛び出す、


 触手に変じた髪を聖剣で斬られたせいだろう。本来なら腰のあたりまであるはずの豊かな金の髪が、肩を過ぎた辺りでざんばらに切られていた。


 美しく豊かな長い髪は貴族令嬢にとって大切なもののひとつだ。目覚めたマルガレーナは、どれほど嘆くことだろう。


 ソティアの悲嘆とは対照的に、マルガレーナを見下ろすジェスロッドの低い声は淡々としたものだった。


「いや、邪神の残滓に囚われて、髪だけで済んだのは幸運だ。あれほどの瘴気しょうきを放ちながら力を振るったのだ。下手すれば、命すら危うかっただろう」


 淡々と告げるジェスロッドの声音には同情の欠片すら感じられない。


 確かに、邪神の残滓に囚われ、力を振るうマルガレーナは恐怖そのものだった。いま思い返すだけでも、全身が震え出しそうになる。


 と、ジェスロッドが床に落ちていた上着を拾い、そっとソティアの肩にかけてくれる。マルガレーナに走り寄った時にソティアの肩から落ちたものだ。


 まるでソティアの恐怖を融かすように甘い麝香の残り香がかすかに揺蕩い、ソティアはおずおずとのジェスロッドを振り仰いだ。


「邪神の残滓はどうなったのでしょうか……? もう消えてしまったのですか……?」


「ああ。俺が聖剣で完全に滅ぼした。もう脅威はない」


 力強い断言にほっと息をつく。ジェスロッドが真っ直ぐソティアを見つめたまま言を継いだ。


「マルガレーナ嬢が無事だったのは、きみのおかげに他ならない。きみが我が身も顧みず、マルガレーナ嬢を救おうと尽力してくれたがゆえに……。その無償の清らかな愛でユウェルにわずかながら力が戻り、邪神の残滓をマルガレーナ嬢の身体から切り離すことができたんだ。ユウェルリースが成長できたのも、きみのおかげだ」


「え……? わ、私がですか……っ!?」


 信じられず、すっとんきょうな声が飛び出す。そんな風に言われても、あの時はとにかくマルガレーナを助けなければと無我夢中だったので、自分が何をしたのかすら記憶がおぼろげだ。


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