49 なぜお前を葬るために、わざわざわたしが手を下す必要がある?


「やめろっ! ソティアに手を出すなっ!」


 ジェスロッドの悲痛な声が薄暗い廊下に響く。


 首筋に押し当てられた冷たい刃に洩れそうになった悲鳴を、ソティアは唇を噛みしめてこらえた。


 だめだ。悲鳴を上げてはジェスロッドの負担になる。


 そもそも、ソティアなんかとジェスロッドのどちらか大事かなど、考えるまでもない。


「アルベッド殿下。私などに人質の価値があるはずがございません……っ! どうか、正気にお戻りくだ――、うっ!」


 突然、掴まれていた腕をひねり上げられ、ソティアは思わず悲鳴を洩らす。


「侍女風情が! わたしに口答えをするなどおこがましいっ!」


「ソティア!」


「動くなと言っただろう?」


 反射的に駆け出そうとしたジェスロッドが、アルベッドがわずかに動かしたソティアの首元の剣に、凍りついたように動きを止める。


「卑怯者め……っ!」


 アルベッドを睨むジェスロッドのまなざしは抜身の剣よりも鋭い。悔しげに噛みしめた歯が軋む音がソティアにまで聞こえてきそうだ。


「そもそも、こいつが余計なことをしなければ、わたしがわざわざ出る必要もなかったんだ。マルガレーナだけで事足りたというのに、余計なことを……っ!」


 苛立ちをぶつけるかのように、ソティアの腕をひねり上げるアルベッドの手に力がこもる。


「……っ!」


 とっさに奥歯を噛みしめて悲鳴を上げまいとしたが、顔が苦痛に歪むのはこらえられなかった。


「アルベッド……!」


 ジェスロッドの瞳が激しい怒りを宿して燃え上がる。


「ソティアを放せ! 俺が邪魔なら直接、俺を狙えばいいだろう!?」


 まるで己が痛めつけられているかのように悲痛な声を上げるジェスロッドを、アルベッドが鼻で笑う。


「何を馬鹿なことを。なぜお前を葬るために、わざわざわたしが手を下す必要がある?」


 自分の優位を確信したアルベッドの面輪がみにくく歪む。


「この女を助けたいんだろう? なら――聖剣ラーシェリンで、自分の手で胸を貫け」


「っ!? だめですっ!」


 アルベッドの要求を聞いた瞬間、首元に剣を突きつけられていることも忘れて叫ぶ。激しい動きに肌に刃がふれ、痛みが走るが、かまってなどいられない。


「やめてくださいっ、陛下! そんなことをなさってはいけませんっ!」


 ソティアのせいでジェスロッドが傷つくなんて、そんな事態、認められるわけがない。


 ソティアとジェスロッド、どちらが大切かなんて、考えるまでもなくわかりきっている。


「陛下っ! 私のことなど捨て置――」


「きみを捨て置けるはずがないだろう!?」


 叩き伏せるような声に息を呑む。


 黒瑪瑙の瞳が、痛みをこらえるかのように真摯な光を宿してソティアを見つめていた。


「頼むから、自分をないがしろにするようなことを言わないでくれ。これ以上、きみの身に何かあったら……。心臓をき斬って詫びても詫びきれない」


 聞いているソティアの胸まで軋むような声音で告げたジェスロッドが、アルベッドを真正面から見据える。


「俺が聖剣で胸を貫けば、ソティアを解放すると約束しろ」


「もちろんさ。こんな侍女ひとり、放っておいたところで問題ない」


 傲然ごうぜんと告げたアルベッドが顎をしゃくる。


「さあ、おしゃべりは終わりだ。お別れの時間だよ、ジェスロッド。聖獣を先に床に下ろすんだ。きみの血で汚れた聖獣を抱くなんて御免だからね」


「やぁう~っ!」


 ジェスロッドの腕に抱かれたユウェルリースがじたばたと暴れる。


「ユウェル、いい子にしてろ。……ソティアを頼むぞ」


「あぁう~っ!」


 床にそっと下ろされたユウェルリースが不満の声を上げてジェスロッドを見上げる。


 下ろした左手でそっと小さな頭を撫でたジェスロッドが剣を構えたまま身を起こした。


「アルベッド。最後にひとつだけ聞いていいか?」


「いまさら命乞いなんて、時間の無駄極まりないことはやめてくれよ?」


「そんなことをする気はない」


 優越感に満ちた声で告げたアルベッドに、ジェスロッドはゆっくりとかぶりを振る。アルベッドを見据える黒瑪瑙の瞳は、消えぬ闘志を宿して炯々けいけいときらめいていた。


 聖剣を手に、ジェスロッドがゆっくりと言葉を紡ぐ。


「お前はさっき、聖剣ラーシェリンを手に入れ、邪神を封じると言ったな? だが……。お前自身が邪神の残滓に囚われかけているのに、どうやって封じるつもりだ?」


「たわごとを――、っ!?」


 吐き捨てようとしたアルベッドの声が不意に途切れる。


 同時に、ソティアは背中が粟立つような悪寒に襲われた。


 無意識に巡らせた視線が捉えたのは、アルベッドの足元に忍び寄る闇よりも昏い影――。


 先ほど、ジェスロッドに真っ二つに斬られたはずのこごる闇だ。


 まるで蛇のように、よどむ闇がアルベッドの足に絡みつく。


「ぐ……っ!」


 邪神の残滓に侵食されたアルベッドが呻くと同時に、身体から黒い闇が立ち上った。


 だが、その時には聖剣を手にしたジェスロッドが床を蹴って駆けていた。


「来るな……っ!」


 とっさにアルベッドがソティアに突きつけていた剣を振るう。


 ぎんっ、とはがねが打ちあう音が鳴ったかと思うと、ジェスロッドの聖剣がアルベッドの剣を跳ね上げる。


 豪奢ごうしゃな衣装に包まれた胴体ががら空きになる。


「ひぃぃっ!」


 鬼気迫るジェスロッドに気圧されたのだろう、アルベッドが情けない悲鳴を上げ、身をよじって逃げようとする。


 その肩口へ、ジェスロッドの突きが容赦なく叩き込まれた。


 アルベッドの口から、聞くにたえない濁った悲鳴が飛び出す。


 だが、ジェスロッドは剣を抜くどころか、さらに深く剣先を押し込んだ。アルベッドの絶叫がさらに大きく響き渡る。


「これ以上、好きにはさせんっ! いい加減滅べ……っ!」


 ジェスロッドの苛烈な怒りに応じるように、聖剣がまばゆい光を放つ。


 しゅうしゅうと湯気が立つような音とともに、アルベッドからはらはらと黒いちりが舞い落ち――。


 ジェスロッドがようやく剣を引いた途端、白目をいたアルベッドが糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。


 だが、ソティアはアルベッドの様子を見守るどころではなかった。


「ソティア!」


 ためらいなく聖剣を放り出したジェスロッドが膝をつき、呆然としているソティアを力いっぱい抱きしめる。


「すまないっ! 俺が不甲斐ないせいできみを……っ!」


 抱き潰されるのではないかと思うほど、ジェスロッドの腕にぎゅぅっと力がもる。


 たくましい腕は恐怖をこらえるように震えていた。


「だ、大丈夫ですっ、私は……っ」


 陛下が助けてくださったから無事です。


 そう言いたいのに、いまになって身体が震えてうまく言葉が紡げない。ぐっと奥歯を噛みしめなくては、かちかちと音が鳴りそうだ。


「大丈夫だ。邪神の残滓は完全に滅した。もう何も恐ろしいものはない」


 抱きしめるジェスロッドの腕がわずかにゆるみ、あやすように背中をでられる。


 恐怖を融かすような手のひらに、ようやくソティアはわずかに落ち着きを取り戻す。同時に。


「マ、マルガレーナ嬢とアルベッド殿下はご無事ですか……っ!?」


 アルベッドなど、聖剣で刺されたのだ。


 身じろぎしてジェスロッドの腕から抜け出そうとした途端、黒瑪瑙の目がみはられる。


「首に傷が……っ!? おいっ、ユウェル!」


「あいっ!」


 ジェスロッドの声に応じたユウェルリースが、たどたどしい足取りでてちてちと歩いてくる。


 ユウェルリースの姿を見た途端、ソティアもまた目を見開いた。


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