45 頼むから羽織っていてくれ


「だが……。ユウェルを俺の目の届かないところにやるのは……」


 渋るジェスロッドに、「隣の部屋へ行くだけですわ」とあえて明るい声で言う。


「それに、ユウェルリース様の泣き声を聞いて、侍女達がこちらに来ては、陛下も困られるのではございませんか?」


 聖獣の館に勤める侍女達は、ソティアが夜着姿でジェスロッドといるいまの状況を見ても、夜泣きしたユウェルリースをあやしているだけだとわかってくれるだろうが、それでも誤解を招くようなことは慎んだほうがよいに決まっている。


 ソティアの言葉に、ジェスロッドが我に返ったように床に目をやる。


 走り寄った際に肩からすべり落ちたらしいジェスロッドの上着を拾い上げると、再びそっとソティアの肩にかけてくれた。


「ありがとうございます。ですが、陛下の上着をお借りするわけには……」


「気にするな。というより、頼むから羽織っていてくれ。その……。目の毒だ」


 気まずそうに視線を逸らしてジェスロッドが告げる。


「も、申し訳ございません……っ」


 そんな場合ではないのに、ぱくりと心臓が跳ねてしまう。


「では、ありがたくお借りいたします。ユウェルリース様が落ち着かれたら、すぐに戻ってお返しいたしますので」


 扉へ向かうと、心得たようにジェスロッドが引き開けてくれた。


「何かあったら、すぐに声をかけてくれ。駆けつける」


 ソティア達が隣室に入るまで見送ってくれるつもりなのか、自分も廊下に出たジェスロッドが、柔らかな微笑みを浮かべてソティアに告げる。


 力強い声は、思わずすがりたくなってしまいそうな頼もしさだ。


「陛下のお心遣いに深く感謝いたします」


 ジェスロッドがこんな風にソティアを気遣ってくれるのは、ユウェルリースを健やかに成長させるためだと、頭ではわかっているのに。


 感情が先走り、変な誤解をしてしまいそうになる自分を心の中で戒め、ソティアはあくまでも礼儀正しく礼を述べる。


「ソティア嬢……」


 なぜか、困ったように眉を寄せたジェスロッドの指先が、そっとソティアの頬へと伸びてくる。


 骨ばった指先が、頬にふれるより早く。


「泣き声が聞こえたので参りましたけれど……。こんな時間にソティア嬢が陛下のおそばに侍っているなんて、いったい……?」


 不意に廊下に響いた乾いた声に、ソティアとジェスロッドは弾かれたように距離を取り、声の主を振り向いた。


 夜になって蝋燭の数が減らされた薄暗い廊下。


 まるで、闇の中から抜け出したように、深い藍色のドレスを纏って幽鬼のように立つのは――。


「マルガレーナ嬢……っ!?」


 ソティアを睨みつける空っぽな視線に、かすれた声が飛び出す。


「ち、違うのです……っ!」


 こんな時間に夜着でジェスロッドと逢っているなんて、マルガレーナが誤解をしても仕方がない。


 だが、ソティアとジェスロッドの間に何かあるなんて、起こりえるはずがない。ソティアはかぶりを振ってあわてて弁明する。


「私はただ、ユウェルリース様が夜泣きをなさったのであやしに来ただけで……っ!」


 告げる声がうわずるのは、心が浮ついてしまったやましさのせいか。


 だが、自分のせいでジェスロッドに迷惑をかけるなんて。許せる事態ではない。


「マルガレーナ嬢が誤解されるようなことは何もございませんっ! ですから……っ!」


 なんとかマルガレーナの誤解を解こうと、ユウェルリースを抱っこしたまま一歩踏み出そうとして。


 不意に、後ろに立つジェスロッドに強く肩を引かれる。


 かと思うと、入れ違いに大きく踏み出したジェスロッドが、ソティア達を庇うようにマルガレーナに相対していた。


「陛下っ!? あの……っ!」


「ソティア嬢、俺の後ろから出るな」


 ジェスロッドの険しい声がソティアの動きを封じる。ジェスロッドの声に応じるように、激しく泣いていたユウェルリースも泣くのをやめた。


 マルガレーナにそそがれたジェスロッドのまなざしは刺すように鋭い。


「なぜ、こんな夜更けにここにいる?」


 マルガレーナを見据えたまま、ジェスロッドが厳しい声音で問いただす。


「あら、わたくしがいてはいけませんの?」


 微笑みを絶やさぬマルガレーナが、可憐な仕草で小首をかしげる。


 だが、鬼火のように燃える碧い瞳だけが笑っていない。


「ご安心くださいませ。わたくし、狭量ではございませんもの。陛下が一夜のおたわむれをなさったとしても、目くじらを立てたりしませんわ」


「戯れなど……っ! そんなことをするはずがなかろう!」


 艶然と微笑むマルガレーナに、ジェスロッドが眉を吊り上げる。が、マルガレーナの微笑みは揺るがない。


「あら。では戯れでなかったら何だとおっしゃいますの? ローゲンブルグ王国の王妃となるべきはわたくしだといいますのに、わたくし以外の者をおそばに置こうだなんて。陛下のお返事によっては――」


 ふふっ、とマルガレーナの桃色の唇が笑みの形を刻む。


 見た目は可憐なのに――。背筋が凍らずにはいられない酷薄な笑みを。


「わたくし、ソティア嬢を排除せねばなりませんわ」


「そんなことを許すわけがないだろう!」


 告げると同時にジェスロッドが腰に佩いた聖剣を抜き放つ。


 薄暗い廊下の中でまるでそこだけ陽光が射し込んだかのように、蝋燭の炎を反射して刃がまばゆくきらめいた。


「ソティア嬢。ユウェルとともに下がっていろ。――マルガレーナ嬢は、邪神の残滓に囚われている」


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