44 ご安心くださいませ! 絶対に誰も信じませんから!


「っ!?」


 言われた瞬間、息を呑む。


 同時に、自分がとんでもない提案を口にしていたことにようやく気がついた。


「も、申し訳ございません……っ! 危うく陛下の体面に傷を……っ! お許しくださいませ……っ!」


 身を縮め、震えながら詫びると、呆れ混じりの嘆息が降ってきた。


「何を言う? 体面に傷がつくのは俺ではなくきみだろう? もちろん、きみの名誉を傷つける気など欠片もないが」


「い、いえ。行き遅れの私の体面など、ないに等しいものですので、お気になさらないでくださいませ」


 そんな事態はあり得ないとしても、万が一、ソティアと何かあったという噂が流れたら、体面が傷つくのはソティアではなくジェスロッドのほうだ。


 どうしていつもどおりに夜着に着替えて来てしまったのかと、いまさらながらに後悔する。


 日中と同じようにお仕着せだったら、まだ言い訳も立つというのに。日も暮れてから夜着でジェスロッドと一緒にいたなんて、余人にはどう見えるだろうか。


 申し訳なさに泣きたい気持ちになったところで、我に返る。そうだ。たとえ誰かに見られたとしても……。


「だ、大丈夫ですっ、陛下! ご安心くださいませっ! もしこの状況を見ても、陛下と私などの間に何かあったなんて、絶対に誰も信じませんから!」


 ソティアのような行き遅れのかかし令嬢とジェスロッドに艶めいたことが起きるなど、誰も思うはずがない。


 一瞬でも自惚うぬぼれてしまった自分が恥ずかしい。


 必死に言い募ると、ジェスロッドの凛々しい眉がきつくよった。


「何を言っている?」


 吐き出された声は低く不機嫌そうで、びくりと肩が震えてしまう。


 と、ジェスロッドが身体中の空気を絞り出すように吐息した。


「その、女性にこのようなことを言ったことはないから、うまく伝わるか分からんが――」


 ジェスロッドの骨ばった指先が、湯浴みのあと、ほどいたままになっていた栗色の髪をひと房すくい上げる。


「髪を下ろしたところも魅力的だと、俺は思う」


 緊張した面持ちでジェスロッドが、手にしていた髪を持ち上げたかと思うと、名残を惜しむように、さらり、と手から落とした。


「へ、陛下……っ!?」


 瞬間、ソティアはぼんっと顔が爆発するのかと思った。


 そんなことを言われたら、あぶられた蝋のように、とろりと身体が融けてしまう。


 驚愕のあまり膝からくずおれそうになり、ふらりとよろめいた途端。


「ソティア嬢!?」


 驚いて声を上げたジェスロッドにもう片方の腕でぐいと抱き寄せられる。驚いた拍子に腕に抱えていた毛布がばさりと落ちた。


「どうかしたのか!? やはり世話の疲れが……っ!?」


 答えなければと思うのに、どきどきしすぎて答えるどころではない。口を開いたら心臓が飛び出しそうだ。


 服の上からでも鍛えられているのがわかる引き締まった体躯たいく。腰に回された腕は力強く、無意識にすがってしまいたくなる。


「どうした……?」


 あたたかく大きな手のひらが、壊れものにふれるかのようにそっとソティアの頬を包む。


 耳に心地よく響く低い声に引き寄せられるように見上げると、黒瑪瑙の瞳と視線があった。


 包み込むような、同時に肌をちりちりと炙られるような熱を持ったまなざし。


「陛、下……」


 かすれた声は自分でも何を伝えたいのかわからない。夜着姿でジェスロッドに抱き寄せられているなんて……。


 恥ずかしくて逃げ出したくて、でも同時に頼もしいあたたかさから離れがたいと思っている自分がいる。


 ソティアの声に応じるように、腰に回された腕に力がこもる。


 すり、と親指が頬をすべるだけで背中にさざなみが走り、変な声が飛び出しそうになる。


「ソティア嬢……」


 理性も何もかも、融かしてしまいそうな声。


 凛々しい面輪がゆっくりと近づき――。


「ふやぁっ!」


 突然、響いたユウェルリースの泣き声に、縫い留められたように動きを止める。


「ユ、ユウェルリース様っ!? どうなさいましたか!?」


 ゆるんだジェスロッドの腕の中から弾かれたように飛び出し、マットで眠るユウェルリースに駆け寄る。


「やぁう、やぁうぅ~っ!」


 ユウェルリースの泣き方はいつになく激しい。ソティアが抱き上げて優しく声をかけながらあやしても、身をよじって泣き続けている。


「どうしたんだ?」


 歩み寄ったジェスロッドが心配そうに覗き込むが、ソティアにも答えられない。


「申し訳ございません。わかりかねます。こんなに激しく泣かれることは滅多にないのですが……。おむつでもないようですし、お夕飯はしっかりと食べられましたし……。怖い夢でも見たのでしょうか?」


 よしよし、大丈夫ですよ、とユウェルリースをあやすが、ユウェルリースは愛らしい顔を真っ赤に染めて泣くばかりだ。


 先ほどまで静かだった部屋は、激しい鳴き声で満ちている。


「陛下、申し訳ございません。隣室をお借りして、ユウェルリース様をもう一度寝かしつけてきてよろしいでしょうか? もしかしたら環境が変われば落ち着くかもしれませんし……」


 ユウェルリースを見やるジェスロッドの表情は心配で居ても立っても居られないと言いたげだ。


 ソティアは赤ん坊の泣き声にも慣れているが、ジェスロッドは慣れていないので、余計に不安なのだろう。


 ジェスロッドの表情を見ていると、ソティアまで余裕がなくなってきそうになる。 


 こんな気持ちでは、落ち着いてユウェルリースをあやすなんてできそうにない。


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