42 きみは、未来の王妃となるべき人物だろう?


 マルガレーナは足音を忍ばせて階段を下り、宵闇が沈む館の外へ出た。


 己に与えられていた部屋の下まで行き、ジェスロッドの姿を探してこうべを巡らせると。


「これはこれは。夜の女神が降臨なさったのかと思えば、マルガレーナ嬢ではありませんか」


「誰ですのっ!?」


 木陰からかけられた明らかにジェスロッドではない男の声に、マルガレーナは反射的にびくりと肩を震わせ、鋭い声で誰何すいかした。


「申し訳ない。驚かせてしまったようだね」


 茂る木々の向こうから姿を現した青年の姿を見た途端、マルガレーナはさっと恭しく一礼する。


「アルベッド殿下……っ! こちらこそ、申し訳ございません。たいへん失礼いたしました」


 冷静に考えれば、聖域に入れる男性は王族しかいない。人影がジェスロッドでないのなら、アルベッドだとすぐに気づくべきだった。


 けれど、まさかアルベッドが聖域に来ているなんて、思いもよらなかった。


 どうやらマルガレーナがさきほど見た人影は、ジェスロッドではなく、アルベッドだったらしい。


 だがなぜ、アルベッドがこんな時間に聖域に来ているのだろう。


 疑問に思うマルガレーナの耳に、アルベッドの笑んだ声が届く。


「いや、詫びる必要はないよ。邪神の欠片がまだ聖域内にいると聞いて、心配になって様子を見に来ただけだからね。きみを驚かせるつもりはなかった。だが……」


 月明りがあるものの、空は宵闇に蒼く染まり星が瞬きつつある。


 ジェスロッドと同じアルベッドの黒い瞳が、一足早く夜が来たように昏くよどんだように見えた。


「いくら聖域の中とはいえ、マルガレーナ嬢ともあろう令嬢が侍女もつけずに庭を散策とは……。もしかして、ジェスロッドと逢うところを邪魔してしまったかな?」


「いいえ、とんでもない誤解ですわ」


 アルベッドの問いかけに、淑女にふさわしい気品をもって、マルガレーナは優雅にかぶりを振る。


「ジェスロッド陛下はそのようなことをなさいません」


 むしろ、ジェスロッドに人目のないところで逢おうと誘われていたのなら、どれほど嬉しいことか。


 無意識に沈んでしまった声に、アルベッドはさとく気づいたらしい。整った面輪が心配そうにしかめられる。


「ジェスロッドと何かあったのかい? あいつは女心のわからぬ朴念仁だからね。知らぬうちにきみを傷つけるような言動をしたんじゃないかい?」


「いいえ、決してそんなことはございませんわ」


 しとやかに麗しく。いつも両親や家庭教師達に言い含められているように答えねばならないのに、否応いやおうなしに声が震える。


 ジェスロッドとの『何か』


 それは、マルガレーナがどれほど願い焦がれても、一度も与えられなかったものだ。


 アルベッドのまなざしが気遣うような光をたたえる。


「無理はいけないよ、マルガレーナ嬢。きみは、未来の王妃となるべき人物だろう? ジェスロッドと――」


「っ! いいえ……っ!」


 王族の言葉を遮るなんて不敬だということも忘れ、マルガレーナは息を呑んでかぶりを振る。


『マルガレーナ嬢ほど、未来の王妃にふさわしい御方はいらっしゃらぬでしょうな』


『本当に、非の打ちどころのないご令嬢だ。陛下もマルガレーナ嬢を選ぶに違いありません』


 周りの人々は口々にマルガレーナを褒めそやしてくれる。


『マルガレーナ。お前はジェスロッド陛下の王妃となるのだ』


『あなたならカヌンゲルク侯爵家の名に恥じぬ花嫁になれるわ』


 両親だって、多大な期待をかけてくれている。


 けれど。

 誰よりもマルガレーナ自身が知っているのだ。


 ジェスロッドは決してマルガレーナを選んではくれないと。


 黒瑪瑙くろめのうのまなざしが優しい光をたたえて見つめるのは、ユウェルリースと――。


「マルガレーナ嬢」


 低い声で名を呼ばれ、マルガレーナは肩を震わせてうつむいていた顔を上げる。


 気がつけば、驚くほど近くでアルベッドがマルガレーナを見下ろしていた。


「可哀想に。ジェスロッドの心が手に入らず思い悩んでいるんだろう? 可憐な令嬢がこれほど思い悩んでいるというのに、罪な奴だ。だが、手に入らないと悩むくらいなら――」


 アルベッドの面輪が、不意に近づく。


 夜の闇より昏い目が、至近からマルガレーナを覗き込み。


「無理やりにでも、ジェスロッドを手に入れればいい。きみ以外の誰も見ることができないように。――そうすれば、きみの望みは叶うだろう?」


「わたくしの、望みが……」


 熱に浮かされたようにおうむ返しに呟く。


 背筋がぞわぞわとする。足元から、悪寒よりももっとおぞましい不可視の『ナニカ』がい上がってくる感覚に襲われる。


 心の奥が、これ以上、アルベッドの言葉を聞いてはいけないと叫んでいた。


 けれど――。


 アルベッドの瞳によどむ闇が、マルガレーナにまで染み込んだように、感情がどろどろと濁っていく。


「わたくしは、王妃にならねばなりませんの……」


 自分のものとは思えぬ低い声で、マルガレーナは言い聞かせるように呟く。


「ああ、そうだね」


 アルベッドが笑んだまま、満足そうに頷く。


「きみは王妃になるべき人物だ。マルガレーナ嬢。そのために……。誰を手に入れなければいけないか、わかっているだろう?」


 視界が昏く、狭くなる。


 ただアルベッドの闇色の瞳だけが、歪んだ欲望をたたえてマルガレーナを見据えている。


 夜の闇よりさらに昏い闇が己をひたすのを感じながら、マルガレーナはこくりと小さく頷いた。


「わたくしが、王妃になるためには――」



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