32 心臓が、壊れるかと思った
「すぐそこでエディンス様より、陛下とソティア様にお渡しするよう、申しつかったのですが……」
侍女達がそれぞれ手にしているのは、封のされた箱と、青や緑色の色あざやかな折りたたまれた布地だ。箱にはきっと分厚い書類の束が入っているのだろう。
「まぁっ! さっそく……っ!」
この布地はユウェルリースの子ども服のためだろう。昼食前に頼んだばかりなのに、もう用意してくれるなんて、エディンスの有能さを改めて感じる。
「エディンスめ。ここぞとばかりに書類仕事をさせる気だな」
かすかに
「へ、陛下っ!?」
驚いて振り返ると、ソティアの肩越しに顔を出したジェスロッドが、侍女達の手元を覗き込んでしかめ面をしていた。凛々しい面輪の想像以上の近さに、ぱくんと心臓が跳ねる。
「し、失礼いたしました」
あわてて扉の前から退き、何気なく室内を振り返り。
「ユウェルリース様っ!」
遊んでいるうちに移動してしまったのだろう。マットの真ん中にいたはずのユウェルリースが、マットの端から床に落ちたぬいぐるみを取ろうと身を乗り出しているのを見て、悲鳴が飛び出す。
もともとマットの高さは大人のふくらはぎまでほどもない。ふつうの赤子なら、顔から落ちたとしても、顔面を打って泣き出すくらいだろう。だが、額から角が生えているユウェルリースは別だ。
叫ぶと同時にスカートを翻して駆け出す。
「だぁ~?」
ソティアの姿を見たユウェルリースが、にぱっと嬉しそうな笑みを見せる。その拍子に、マットの端にのっていた小さな手がつるりとすべり――、
「っ!?」
とっさに床を蹴り、頭から床へとすべりこむ。伸ばした手でユウェルリースの小さな身体を抱え込み、衝撃に耐えようとした瞬間。
ぐいっ、と背中からユウェルリースごとたくましい腕に包みこまれる。
硬い床とぶつかる衝撃の代わりにソティアを包み込んだのは、甘い麝香の薫りと、あたたかくたくましい
侍女達の悲鳴が聞こえるが、それどころではない。
「へ、陛下……?」
ソティアとユウェルリースを身を
「あ、あの……?」
「……心臓が、壊れるかと思った……」
絞り出すような低い声が鼓膜を震わせる。ジェスロッドがソティアの髪に顔を埋めているせいで、囁き声はやけにくぐもって聞こえた。
「すまん。目を離した俺のせいだ。ソティア嬢とユウェルに怪我はないか?」
心が軋むような苦い声に、はじかれたようにこくこく頷く。
「は、はいっ! 陛下が庇ってくださいましたから、まったく……っ! もちろんユウェルリース様も……っ!」
「だぁっ!」
ユウェルリースは怪我どころか、激しい動きが楽しかったのか、ソティアの腕の中で手足をばたつかせてご機嫌だ。
「陛下! ソティア様! ご無事ですか!?」
ようやく我に返ったように、荷物を置いた侍女達が駆けてくる。侍女にユウェルリースを抱っこしてもらい、自分も身を起こそうとしたソティアは、戸惑った声を上げた。
なぜか、先ほどからジェスロッドの腕がまったく全然ゆるまない。
「あの、陛下……? もしかして、腕を痛められたのですか!?」
そのせいで腕が動かせないのだとしたらどうしよう。焦って問うと、「い、いや。大丈夫だ」とあわてた声と同時にぱっと腕がほどかれた。
もうひとりの侍女の手を借りてソティアが起きると同時に、ジェスロッドも立ち上がる。
「あのっ、お身体は大丈夫ですかっ!? 肩や足を痛められたりなんて……っ!?」
「大丈夫だ。何ともない。日頃から鍛えているからな」
ぐるぐると腕を回したり、足踏みをしたジェスロッドが力強く請け負う。ほっと安堵の息を吐き出したソティアは、身を二つに折るように深々と頭を下げた。
「助けていただきまして、本当にありがとうございます。陛下が駆けつけてくださらなかったら、どうなっていたことか……」
「顔を上げてくれ、ソティア嬢。そもそも、ユウェルをマットに連れて行ったのは俺だし、目を離して危険な目に遭わせたのも俺だろう。俺がソティア嬢に詫びるならともかく、ソティア嬢が謝罪する必要など、欠片もない」
力強い声で言い切ったジェスロッドに肩を掴まれ、強引に身体を起こされる。黒瑪瑙のまなざしが気遣わしげにソティアを見下ろしていた。
「……本当に、どこも痛めてはいないか……?」
「は、はい……っ」
こくこくこくっ、と何度も頷く。そっと肩にふれられているだけなのに、大きな両手に包まれているところが熱を持っているかのように感じる。
ジェスロッドが庇ってくれたので、打ち身などしていないはずのなのに。
「やぁぅ~っ」
侍女に抱っこされていたユウェルリースが身をよじり、不機嫌そうな声を上げる。
ソティアが抱っこを代わると、ぐりぐりと胸元に顔を押しつけてくる。額から伸びる細い角が布地にこすれた。
「おい、ユウェル。角が危ないだろう」
「刺さったりしませんから、大丈夫です。ユウェルリース様はおねむみたいですね」
先ほど抱っこした時も身体があたたかいと思ったが、いまはそれよりも体温が上がっている。
「陛下にたくさん遊んでいただけて、疲れたんですね」
うぅ~、と不明瞭な声を洩らすユウェルリースは本当に眠そうだ。ぎゅっと目を閉じ、ソティアに身をすり寄せてくるのが愛らしい。
とんとんと軽く背中を叩きながらあやしていると、いまにも眠ってしまいそうだ。
ジェスロッドは、ようやく人心地がついたらしい侍女達に、声をかける。
「お前たちにも心労をかけたな、下がってよい」
一礼して下がろうとする侍女たちに、思い出したようにジェスロッドが言葉を継ぐ。
「ああ。この後もソティア嬢はこの部屋で過ごすからな。昼と同じように夕食も一緒に取るゆえ、二人分を持ってきてくれ」
「えっ!? あの……っ!?」
ジェスロッドの言葉に、寝かしつけをしているのも忘れ、すっとんきょうな声が飛び出す。
「いえ、私はユウェルリース様を寝かしつけたら、いったん下がらせていただこうかと……っ」
「……一緒に、ユウェルリースを見てくれないのか?」
告げた途端、ジェスロッドの凛々しい面輪が、叱られた犬のようにしょぼんとなる。垂れた尻尾と耳の幻影まで見えてきそうだ。
「俺は赤ん坊の世話に慣れていない。このくらい大丈夫だろうと目を離した結果、またユウェルを危険な目に遭わせたらと思うと……」
「ソティア様、陛下のおっしゃるとおりですわ。私達も先ほどは驚きのあまり心臓が止まるかと思いました!」
「ユウェルリース様のおやつやお食事の用意などは、ソティア様にお教えいただいたおかげで、私どもでもできるようになっておりますから、ソティア様はどうぞ、陛下とユウェルリース様のおそばにいらしてください!」
「何か必要な物がございましたら、お持ちいたしますので……っ!」
ジェスロッドだけでなく、妙な圧力を込めて侍女達にまでこうも勧められては、断るなんてできるわけがない。
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