21 いったい『何』に囚われている?


「陛下、いけませんわ! 盗人ぬすっとのような下劣な者に関わられては、陛下の御身まで汚れてしまいます! こちらへいらしてくださいませ」


 ベンチから十歩ほど離れたところで足を止めたソラレイアが、氷のように冷ややかな視線をソティアに向けたかと思うと、次いで、甘ったるい声でジェスロッドに微笑みかける。


 途端、ジェスロッドの眉がきつく寄った。


「盗人? いったい誰のことを言っている?」


「それはもちろん――」


「言っておくが」


 不意に、ジェスロッドのまなざしが抜き身の剣のように、鋭くなる。


「もし、ソティア嬢のことをおとしめる気なら、以降は覚悟をもって発言するがいい」


「ひっ!」


 ジェスロッドの威圧感に、ソラレイアがこらえきれずに悲鳴を上げる。だが、唇を引き結ぶと、きっ! とソティアを睨みつけた。


「陛下はその者にだまされてらっしゃるのですわ! ソティア嬢は、昨日、床に落ちたわたくしのフォークを拾って、そのまま自分の物にしたのです! これを盗人と言わず、なんと言うのでしょう!?」


「フォーク? つまり、ユウェルに危険な物を渡したのは、ソラレイア嬢というわけか?」


「ち、違いますわっ! わたくしはユウェルリース様を傷つけるつもりなど、決して……っ!」


 圧を増したジェスロッドの声に、ソラレイアが怯えたようにかぶりを振る。


ひどいですわ……っ! 陛下はわたくしより、盗人のほうを信じるとおっしゃいますの!?」


 ソラレイアが哀れっぽい声を上げたが、ジェスロッドの返事はにべもない。


「信じるも何も、昨日俺は、ソティア嬢がソラレイア嬢へフォークを返しに行くと言って、台所を出るのを見た。ソティア嬢がフォークを盗むつもりなら、なぜわざわざ俺に見せる必要がある? 見せずに隠せばよいだろう?」


 理路整然と述べるジェスロッドの言葉に、ソティアは心の中で安堵の吐息をこぼす。


 昨日、ソティアがフォークを預けたのは、ソラレイアの後ろに控えている侍女だ。きっと、ソラレイアは何か誤解しているに違いない。


 何より、ジェスロッドがソティアを信じてくれたことが嬉しい。


 ソティアはできるだけ穏やかな声でソラレイアに話しかける。


「ソラレイア嬢。私はフォークを盗んではおりません。昨日、ユウェルリース様の沐浴を終えてすぐに、そちらの侍女にソラレイア嬢にお返しいただけるよう、お願い申し上げたのです。ですからきっと、何か行き違いが……」


 ソティアが視線を向けると、侍女が怯えたようにびくりと身体を震わせた。強張った顔は血の気が引いていて、いまにも気を失うのではないかと心配になる。


 侍女が答えるより早く、ソラレイアが眉を吊り上げてソティアを睨みつける。


「わたくしの侍女が嘘をついていると言いたいの!? まったく、盗人猛々しいとはこのことね! 陛下、お聞きになられましたか!? この者は陛下のおそばにはべるにふさわしくない――」


「だぁうっ!」


 不意に、ユウェルリースが大声を上げる。同時に、ジェスロッドが弾かれたようにベンチから立ち上がった。


「ソティア嬢。ユウェルを頼む」


 ソラレイアを見据えたまま、ジェスロッドが硬い声で告げる。


「は、はい!」


 差し出されたユウェルリースを、ソティアは急いで受け取った。


 なぜだろう。空からは初夏の陽光がまばゆく振りそそぎ、こんなに明るくあたたかいというのに。


 背筋が粟立あわだつ。悪寒が全身を巡って仕方がない。


 気を抜けば、気を失ってしまいそうで、ソティアは本能的にユウェルリースを守るように抱きしめ、奥歯を噛みしめてこらえる。


「ソラレイア嬢。……いったい『何』に囚われている?」


 ソラレイアを睨みつけながら低い声で問うたジェスロッドが、腰にいた剣をすらりと抜き放つ。刃が木洩れ日を反射してぎらりと光った。


 ひぃっ、とかすれた悲鳴を上げた侍女が、腰を抜かしてへたり込む。


「陛下? 何をおっしゃっていますの?」


 だが、当のソラレイアはわけがわからないと言いたげにきょとんと首をかしげる。


 と、愛らしい面輪がふわりと花ひらくように微笑んだ。


「わたくしを囚えた方がいるとしたら、それは陛下に他なりませんわ」


「そんなつもりはない」


 ジェスロッドの返答はにべもない。ソラレイアの面輪が切なげに歪む。


「まあっ! なんと冷たいことをおっしゃいますの……っ! わたくしは陛下のことを考えるだけで、心が千々に乱れて仕方がないといいますのに……っ!」


 ソラレイアが哀しげに身をよじる。ふわりと広がった華やかなドレスが揺れ……。


「影、が……?」


 芝生に落ちた影がうごめいた気がして、ソティアは反射的に呟いた。


「影?」


 ソティアの呟きに反応したジェスロッドが鋭い視線をソラレイアの足元に落とす。


「……なるほど。ソティア嬢、助かった」


「どうして陛下はわたくしを見てくださらないのです⁉」


 ジェスロッドの低い声に、れたようなソラレイアの叫びが重なる。


「わたくしこそが、もっとも陛下の伴侶にふさわしいはずですわっ! 陛下さえわたくしを選んでくだされば、すぐに応じますのに……っ! どうして選んでくださいませんのっ!?」


「ソラレイア嬢」


 身をよじり、ジェスロッドを責め立てるソラレイアの叫びを、低い声が遮る。


「いったい何が原因でそのような誤解をしたのかはわからんが……。俺がソラレイア嬢を伴侶として選ぶことはない。何があろうと、決してな」


 刃よりも鋭く、ジェスロッドの言葉がソラレイアの望みを打ち砕く。


「嘘……っ!」


 息を呑んだソラレイアの面輪が、絶望に彫像のように凍りつく。


 かと思うと。


「嘘よ、嘘っ! そんなこと、信じませんわっ! わたくしこそが――っ!」


 激しくかぶりを振ったソラレイアが、突如ジェスロッド目がけて駆け出す。


 まるで、ジェスロッドを捕まえれば己の望みが叶うと言いたげに、ドレスを揺らして駆けてくるソラレイアにジェスロッドが剣を構える。


「陛下っ!?」


 ジェスロッドがソラレイアを斬り伏せるのではないか。


 一瞬、心をよぎった不安に、ソティアはぎゅっとユウェルリースを抱きしめ思わず叫ぶ。


「だぁっ!」


 ユウェルリースが叫ぶのと、ジェスロッドが動くのが同時だった。


 流れるようにソラレイアをかわしたジェスロッドが、すれ違いざま、ソラレイアの足元の地面に剣を突き立てる。


 次の瞬間、ソラレイアが糸が切れた操り人形のようにくずおれた。


 ジェスロッドが、空いている左腕で危なげなくソラレイアを抱きとめる。


「陛下っ! ご無事ですか!?」


 左手だけでソラレイアを抱えたまま、厳しい表情で剣を鞘に納めたジェスロッドに、ソティアは思わず駆け寄る。


「先ほどの影はいったい……っ!?」


「……ひとまず、ソラレイア嬢を部屋へ運ぼう」


 ソラレイアを両腕で横抱きにしたジェスロッドが、ちらりとへたり込んでいる侍女に視線を向ける。だが、青い顔でがくがくと震える侍女は、ジェスロッドの声も届いていないかのようだ。


「陛下。ご案内でしたら私がいたします」


 ユウェルリースを抱きしめたまま、ソティアはもつれそうになる足を動かし、歩き出す。


 いったい何が起こっているのかわからないが、気を失ったソラレイアをこのままにはしておけない。


 心臓は不安にばくばく騒いでいるが、ユウェルリースを抱っこしているおかげで、かろうじて冷静でいられる。ユウェルリースを守るためにも、自分がしっかりしなくては。


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