16 聖域の中の見知らぬ青年


「だぁぅ〜っ!」


 ソティアが背中におんぶしたユウェルリースが機嫌よさそうに足をばたつかせている。


 聖獣の館から出てすぐのところにある洗濯物干し場で、ソティアはユウェルリースの服や布おむつをひとりで干していた。


 侍女達は手伝うと言ってくれたが、大勢の令嬢達が聖獣の館に滞在している現在、侍女達の仕事はふだんの何倍以上もある。


 せめてユウェルリースの洗濯物くらい、ソティアがしなくては申し訳ない。


 それに、はいはいし始めたユウェルリースは活発で目が離せない。


 ずっと部屋の中にいては機嫌が悪くなってしまうため、洗濯物のついでにおんぶして外に出るのはユウェルリースの機嫌をとるにも都合がよかった。


 季節のよく晴れた陽射しの下、さわやかな風に揺れる洗濯物は達成感を感じさせてくれる。


 ソティアが実家から持ってきた服がほとんどなので、とれないしみが残っていたり、多少みすぼらしいが、そこは我慢してもらうしかないだろう。


 洗濯物を干し終わり、空になったかごを手にとろうとして。


「おい、そこの侍女」


 不意に横からかけられた初めて聞く男性の声に、ソティアの驚きのあまり、籠を落としそうになった。


 聖獣の館は清らかな乙女を除けば、王家の血を引く者しか入れない。


 だが、こちらへ向かってくる青年は、明らかにジェスロッドとは別人だ。


 大柄なジェスロッドと比べて線の細い青年は、身に纏う上等な服といい尊大な物腰といい、どう見ても高位の貴族だ。


 誰だろうかと困惑しつつ、ソティアはさっと芝生に片膝をつくと、腰を落とし、深々と頭を下げた。


「やぁうう〜っ!」


 視点が低くなったのが不満なのか、ユウェルリースがじたばたと背中で暴れる。


「それはユウェルリースだな?」


 ひざまずくソティアの前で足を止めた青年が、見た目にたがわぬ居丈高な口調で告げる。


 疑問というより、確信を持って紡がれた言葉に、ソティアは緊張にかすれそうになる声で恭しく答えた。


「左様でございます」


 尊い聖獣様を背負って洗濯物を干していることを不敬だと叱責されるのだろうか。もしかしたら、聖獣様を不機嫌にしてお世話係失格だと言われるのかもしれない。


 つい先ほどまでご機嫌だったのに、いまのユウェルリースは、「やぁう〜! やぁっ、やぁああ〜っ!」と身をのけぞられせて暴れている。


「ぎゃあぎゃあとうるさいな」


 苛立たしげな声に思わずびくりと肩が震える。


「も、申し訳ございません……っ!」


 おなかが空いた、おむつが濡れた、だっこしてほしいなど、赤ん坊はちょっとしたことで泣くものだ。


 だが、ユウェルリースが泣いているのはソティアが至らぬせいだと高位の貴族から責められたら、ソティアは謝罪することしかできない。


「やぁっ! やぁぅ~っ!」


 何が嫌なのか、背中のユウェルリースは火がついたように泣いている。機嫌がいいことが多いユウェルリースにしては珍しい。ここまで激しく泣いているのは、ソティアが世話をして以来、初めてではないだろうか。


 人間の子どもなら、そろそろ人見知りが始まる時期だ。赤ん坊によっては、女性相手は泣かないのに、男性は嫌がって激しく泣く子どももいる。


 ローゲンブルグ王家の血を引く者と、清らかな乙女しか入れぬ聖域に棲まうユウェルリースは、もしかしたら本能的に男性を嫌がるのかもしれない。


 何にせよ、あやしてあげたくても、目の前の青年の許可がなくては、ソティアは顔を上げることすらできない。だが、これほど泣くユウェルリースを放っておくことなどできない。


 意を決し、あやす許可をとるべく口を開こうとして。


「こううるさくてはかなわん。おい、静かにさせろ」


「は、はいっ。失礼いたします……っ!」


 ソティアはひざまずいたまま手早くおんぶ紐をゆるめると、ユウェルリースの小さな身体を背中から前に移動させて両腕で抱く。


「やぁう〜っ!」


 白銀の目からぼろぼろと涙をこぼしながら、ユウェルリースが小さな両手でしっかりとソティアの服を掴み、泣いて真っ赤になった顔を押しつけてくる。途端、侍女のお仕着せの胸元が涙で濡れた。


「どうなさいましたか、ユウェルリース様? 大丈夫ですよ」


 よしよし、よしよし、と小さな背中を軽く叩いてあやすが、ユウェルリースは泣きやむ様子がない。


 おむつも濡れていないし、まだ昼寝の時間でもない。朝ご飯だって、しっかりと食べていたし、何が原因なのか、さっぱりわからない。


 虫の羽音は聞こえなかったが、もしかして、背負っている間に刺されたのだろうか。そうだとしたら、服を脱がして全身を確認しなくては。


「当てつけがましいものだ。……おい、聖獣の癒やしの力はどうなっている? 赤子になっても使えるのか?」


 どうやってここから辞そうかと考えていたソティアは、不意に放たれた問いに虚をつかれた。


 見上げると、青年が黒い瞳に刺すような光を宿して、じっとユウェルリースを見つめていた。


 まるで商品を見定めるような温度のないまなざしは、それが自分に向けられたものではないとわかっていても、ぞっと背筋が寒くなる。


 青年の視線にユウェルリースを晒したくなくて、ソティアは無意識にユウェルリースを隠すようにしっかり抱きしめる。


「聞こえなかったのか? さっさと答えろ」


 返事がないことに苛立ったのか、青年が目を細めてソティアを睨みつける。


 人に命令し、己の意のままに動かすことに慣れきっているのだろう。ソティアにそそがれるまなざしは道具に向けるかのように冷たい。


 ユウェルリースをあやしながら、ソティアは身を縮めて詫びる。


 青年が誰なのかは知らないが、機嫌をそこねれば、ケルベット家にどんな不利益が降りかかることか。


 ケルベット家はしがない貧乏男爵家なのだ。ソティアのせいで実家に迷惑をかけるようなことは決してできない。


「ま、誠に申し訳ございません……っ! ユウェルリース様の癒やしの力については、わたくしは何も存じ上げないのです……っ! お役に立てず深謝いたします! どうかお許しくださいませ!」


 聖域に棲まう聖獣が癒やしの力を持っているという伝説は、ローゲンブルグ王国の民なら、小さな子どもでも知っている。


 だが、その力が振るわれることはまれであり、見たことがある者は非常に限られる。


 聖獣の館の侍女達もユウェルリースが癒やしの力を振るうのを見たことはないらしい。むろん、ユウェルリースに仕えて十日ほどしか経っていないソティアも、見たことなんてない。


 ソティアにとって、ユウェルリースは尊い聖獣様というよりも、ただ白銀の角が生えているだけの可愛らしい赤ん坊だ。


 癒やしの力のことなど、いま青年に問われるまで気にしたこともなかった。


 ソティアの返事に、青年が役立たずと言わんばかりに舌打ちする。


「ジェスロッドから何も聞いていないのか?」


「も、申し訳ございません……っ!」


「やぁぅ~っ! やぁあ〜っ!」


 さらに頭を深く下げて謝罪するソティアの声に、泣き続けるユウェルリースの声が重なる。


 もう一度、青年が舌打ちをしたところで。


「おいっ! アルベッド、ここで何をしている!?」


 落雷かと思うような鋭いジェスロッドの声が響く。同時に、木立ちの向こうから、こちらへと駆け寄ってくる長身が見えた。


 腰にいた剣が動きにあわせて鳴る音がソティアの耳にまで届く。


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