15 蠢く悪意


 『ソレ』にもともと意思などなかった。


 本体である邪神が封じられたあとの『ソレ』は単なる残滓ざんしに過ぎず――。


 だからこそ、その身に刻まれた本能に従った。


 邪神の力の源は人の負の感情だ。


 忌々しい聖域の清らかさは、だが『ソレ』を封じるには至らない。しかも、いま聖域の中にはあちらこちらで負の感情がふくらんでいる。


 もし『ソレ』に口があれば、舌なめずりしていたことだろう。


 まるでありが甘い蜜に惹かれるように、影に沈み、『ソレ』は一番強い負の感情のもとへといずり寄った……。



   ◇   ◆   ◇



「なんですって!?」


 伯爵家から連れてきた侍女のひとりから報告を受けた途端、ドレスや髪飾りを広げて明日の装いを考えていたソラレイアは尖った声を上げた。


 報告した侍女が怯えたように肩を震わせる。


「陛下が、かかし令嬢を抱き上げていたですって!? 見間違いではないのでしょうね!?」


 ソラレイアの詰問に、侍女が青い顔でこくこく頷く。


「わ、わたくしも見間違いではないかと疑ったのですが……! 悲鳴が聞こえたので窓の外を見てみましたら、確かに陛下がソティア嬢を横抱きに……っ!」


「嘘よっ! そんなの、信じられないわ……っ!」


 侍女の言葉に、ソラレイアはきつく唇を噛みしめる。


 美丈夫の誉れ高いジェスロッドが、魅力の欠片もないかかし令嬢なんかを抱き上げていたなんて……。


 そんなこと、信じられない。


「きっと、かかし令嬢がユウェルリース様を利用して、身の程知らずにも迫ったに決まっているわっ!」


 油断したと歯噛みする。文句も言わずにユウェルリースの世話をしているものだから、渡りに船と他の令嬢達と一緒に、全部の世話を押しつけていたが……。


 まさか、おとなしそうな顔の裏で、そんな魂胆こんたんを隠し持っていたなんて。


「なんて狡猾こうかつなの……っ! かかしはかかしらしく、ただ壁際でつっ立っていればいいのよ……っ!」


 世話係としてソラレイア達が聖獣の館へ来てからすでに十日が経っている。


 世話係を集めるよう命じた直後にハランドル王国との会談のために国境付近へ赴くことになったジェスロッドが、いつ『聖獣の館』へくるのかと、令嬢達は皆、首を長くして待っていた。


 ようやくジェスロッドに会えた喜びで胸を躍らせる令嬢達の前で、ソティアはユウェルリースの沐浴をしたいからと理由をつけて、ジェスロッドをかっさらっていったのだ。


 聖なる一角獣を利用して、ジェスロッドに取り入ろうだなんて、卑劣なことこの上ない。


 きっと、自分が一番ユウェルリースの世話をしていると、つけあがっているのだ。一度、しっかりと身のほどを叩き込んでやらなくては。


「本当に、忌々しい……っ!」


 怒りに身体を震わせた拍子に、足元で黒い影が揺れた。


「何……っ!?」


 小さく悲鳴を上げて足元を見てみたが、特に何も見えない。ドレスの裾が揺れた拍子に、影が動いたのだろうか。


 だが、いまはそんなことより、腹立たしいソティアのことだ。


 取り澄ました顔を思い描くだけで、心の底からむくむくと怒りが湧いてくる。


 ジェスロッドの王妃候補としては、昔から侯爵家のマルガレーナの名前が挙がっていた。


 だが、ジェスロッドは邪神の再封印を施すまでは妃を迎えるつもりはないと公言し、マルガレーナだけでなく、他の令嬢とも一切親しくしようとしなかった。


 舞踏会などでも誰かにダンスを申し込むことさえなく、茶会の誘いも公務や剣の鍛錬を理由にほぼ断り……。


 だが、邪神を再封印したいま、ジェスロッドの王位は安泰あんたいだ。もし王妃になることができれば、ローゲンブルグ王国で第一位の女性となれる。


 ジェスロッド自身の性格は面白みに欠けるかもしれないが、王妃の地位はそれを補ってあまりあるほど魅力的だ。それに、大柄で凛々しいジェスロッドはまるで物語から抜け出してきたような美丈夫だ。彼の隣に並びたいと願う令嬢は後を絶たない。


 もちろん、ソラレイアもそのひとりだ。


 周囲の評判も家格も、マルガレーナが他の令嬢達より何歩も抜きん出ているものの、ジェスロッドの言動を見る限り、マルガレーナにかれている様子はない。


 先ほどだって、マルガレーナが鉄でできた男ですら融かすような微笑みを浮かべて話しかけていたというのに、ジェスロッドの意識はただただユウェルリースだけに向いていた。


 マルガレーナが選ばれないのなら、ソラレイアにだって、機会は十分にある。マルガレーナのとりまきとして表面上はにこやかな微笑みを交わしつつも、令嬢達は皆、心の中ではお互いを敵だと思い、なんとか他を蹴落とそうと競い合っている。


 自分こそが、ジェスロッドに王妃として選ばれるのだと。


 そんな風に、家柄も人品も優れた令嬢達がしのぎを削っているというのに。


 よりによって、行き遅れのかかし令嬢が、ユウェルリースの世話を担っているのをいいことに国王陛下の関心を買おうとするなんて。


 何としても、身のほどを思い知らせてやらなければ。


「あ、あの……。ソティア嬢より、こちらをお嬢様にお返ししてほしいとお預かりいたしました」


 怯えながら侍女が差し出したのは、家紋が刻まれた銀のフォークだ。


 親切心でユウェルリースに渡したというのに、使うどころか、ぶんぶんと振り回された挙句、床に投げ捨てられたフォーク。


「汚らわしい!」


 ぱんっ! と侍女の手を振り払う。床に落ちたフォークが耳障りな金属音を立てた。侍女がびくりと肩を震わせる。


「かかし令嬢から返されたフォークでしょう!? そんなもの、使う気になんてなれないわっ!」


 冷ややかにフォークを見下ろし、吐き捨てる。


「……そうよ」


 ふと、心に浮かんだ考えに、くすりと唇を吊り上げる。


「かかし令嬢の家は貧乏だっていうじゃない。銀食器なんて、見たこともないに違いないわ。たまたま拾った高価な銀食器を手に入れようとしたって、おかしくはないわよねぇ……?」


 ソラレイアの呟きに、周りの侍女達は答えない。


「かかし令嬢が悪いのよ。わたくし達をないがしろにするだけでも大罪なのに、身のほど知らずにも、陛下に色目なんて使うんですもの。……きっちりとしつけてあげるのが高位の者の務めよね?」


 いつも、つんと取り澄ました顔が歪むさまを想像するだけで、心が躍る。


 ソラレイアが厚意でユウェルリースにケーキをあげたというのに、非難のまなざしでにらみつけてきた失礼極まる不作法者。


 彼女に、己がどれほど愚かなことをしたのか、思い知らせてやらなくては。


 心のうちからあふれ出す黒い感情を隠しもせず、くすくす、くすくすとソラレイアは楽しげに喉を鳴らした。


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