9 ソティア嬢が世話係として来てくれていて、本当に助かった


「大丈夫です。折れてなどおりません。陛下のご厚情に甘えて失礼いたします」


 ジェスロッドが手助けしてくれるより早く、さっと自力で立ち上がり、ジェスロッドの右側の空いているところに腰かける。


「秘書官からも気をつけるよう重々言われているのだが……。俺は常人より力が強いらしくてな、大丈夫だったか?」


「はい。ご厚情ありがとうございます」


 ソティアの動きを見守っていたジェスロッドが、怪我がないと納得したらしい。安堵したように大きく吐息した。


「ついユウェル相手のように接してしまった。許せ」


「陛下に謝罪いただくなど、とんでもないことでございます。どうか、お気になさらないでくださいませ。……陛下は、ユウェルリース様と本当に親しくなされてらっしゃったのですね」


 そっと水を向けると、「ああ」と頷いたジェスロッドがこずえを仰いだ。


 風にさやかに揺れる木の葉の間から差し込む木洩れ日に、黒瑪瑙の瞳がまぶしげに細くなる。


「ここはユウェルのお気に入りのひとつで……。よくここで、二人で他愛のない話をしたものだ」


 ジェスロッドのまなざしが、ここではない遠くを見つめる。


 呟いた声は、ソティアの心まで締めつけるような情感にあふれていて。


 ジェスロッドにとって、ユウェルリースが特別な存在なのだと、聞かずともわかる。


「ユウェルの奴め、赤ん坊になるなんてひとことも言わずに急に赤ん坊になった挙句、俺に世話を押しつけて……。だが、俺もすぐに来られる状況ではなかったゆえ、最速で世話係を選別するよう、秘書官のエディンスに命じたんだが……」


 はぁっ、とジェスロッドが溜息をこぼす。


「あいつめ、どうやらひとりを除いて人選を間違ったらしいな」


 その『ひとり』とはソティアのことを指すのだろうか。そうならいいと願うが、自分からは問いかけにくい。


 黙して次の言葉を待っていると、不意にジェスロッドが身体ごとソティアを振り向いた。


「ソティア嬢。俺は赤ん坊のことはまったくわからん。が、ユウェルが赤ん坊になった原因が俺である以上、あいつの面倒をしっかり見てやる必要がある。なぜ、わざわざ別の寝台で寝かせる? 浴室を使わないのはなぜだ?」


「その……」


 真っ直ぐなまなざしにひるみそうになりながら、答えるべき言葉を引っ張り出す。


「ユウェルリース様は、最近、寝返りができるようになられたそうです。ですが、赤ん坊はうつ伏せになったまま、元に戻れぬことも多いのです。私室の寝台はマットが柔らかすぎて……。あれでは、うつ伏せから戻れなかった時に窒息ちっそくする危険すらあります。それに高さがありますから、万が一、落ちてしまったら大変です。大人にとってはたいしたことのない高さでも、ユウェルリース様にとっては、ご自身の身長ほどもあるのですから」


「なるほど……」


 頷いたジェスロッドに説明を続ける。


「浴室を使っていないのも、同じ理由です。聖獣の館の浴室は石造りです。ただでさえ濡れてすべりやすい上に、ユウェルリース様はずっとおとなしくはしてくださいませんから……」


「確かに、ずいぶんとはしゃいでいたな」


 沐浴の様子を思い出したのだろう。ジェスロッドの口元に苦笑が浮かぶ。


外面そとづらだけよくて落ち着きがないのは、大人だった頃と同じだ。まったく、あいつは……」


 口調こそ呆れ混じりなものの、ジェスロッドのまなざしはどこまでも優しい。


 ジェスロッドが心から安堵したと言いたげに吐息する。


「ここへ来られない間、ユウェルがどうしているかと心配していたが……。ソティア嬢が世話係として来てくれていて、本当に助かった」


 礼を告げられ、度肝を抜かれる。


「も、もったいないお言葉でございます!」


 国王直々の感謝の言葉など、どう対応したらいいのかわからず、おろおろと千切れんばかりに首を横に振る。


「だが、傍迷惑なあいつのことだ。世話ばかりかけているのだろう?」


「赤ちゃんが周りにお世話をかけるのは、当然のことですわ。むしろ、かけてもらわねば困ります」


 ソティアの顔を覗き込むように問うたジェスロッドを正面から見返し、きっぱりと断言する。


「それに、ユウェルリース様は本当にお可愛らしくて……。お世話させていただけて、本当に幸せです」


 ユウェルリースの無邪気な笑顔を思い描くだけで、春の陽射しに照らされたように心がぽかぽかとあたたかくなり、無意識に口元が緩む。年の離れた弟妹達の小さかった頃が自然と思い出されて懐かしい。


 ジェスロッドが無言でこちらを見つめているのに気がついて、ソティアははっと我に返った。あわてて深々と頭を下げて詫びる。


「申し訳ございません。聖なる一角獣様をお可愛らしいと評するなんて……。不敬でございました」


「い、いや。たとえ中身がユウェルの奴だとしても、赤ん坊は確かに愛らしい。謝るな」


 ジェスロッドの物言いがおかしくて、笑ってはいけないと思うのに、くすりと笑みがこぼれてしまう。ジェスロッドがほっとしたように表情を緩ませた。


「ソティア嬢から話を聞いて、赤ん坊の世話が大人の世話とはまったく異なるということがよくわかった。どうだ? 何か不足はないか? もしあるのなら何でも用立てよう」


「お心遣いありがとうございます。いまはすぐには思い浮かびませんが……。赤ちゃんの成長は早いですから、また入り用になるものも出てくるかと存じます。一度、侍女達とも相談させていただいてよろしいでしょうか?」


「もちろんだ。……ユウェルのことを、頼む」


「はい! お任せください」


 力強く頷いたところで、鐘の音が聞こえてきた。時を告げる王城の鐘楼から響く音だ。


「もうそんな時間か……。そろそろ城へ戻らねばならんな。あいつと会うのは気が進まんが……」


 ジェスロッドが重い息をつく。


 あいつとは誰だろうとソティアは思ったが、国王の予定を聞くなど自分には過ぎたことと戒め、聞こえなかったふりをして一礼する。


「お見送りいたします」


 立ち上がったジェスロッドに続いて、ソティアも立ち上がる。


 ジェスロッドは邸内には入らず、庭を突っ切って行くらしい。さくさくと芝生を歩むジェスロッドの半歩後ろに付き従っていると、不意に声をかけられた。


「ソティア嬢は、女性にしては背が高いのだな」


「っ!?」


 息を呑んだ瞬間、足がもつれて転びそうになる。


「おいっ!?」


 かしぎかけた身体を、力強い腕に支えられる。


「急にどうした!?」


「い、いえ……っ!」


 早く離れなければ失礼だと焦るのに、気持ちとは裏腹に身体に力が入らない。耳の奥でこだまするのは、かつての婚約者の嘲笑の声だ。


『やっぱり女は可愛くて小さいのがいいよ。貧乏な上にかかしみたいにのっぽだなんて、御免こうむるね。あいつ、かかとのある靴を履いたら、おれより高くなるんだぜ。あんな女と結婚して、見上げながら催し物のたびに一生連れ歩かないといけないのかと思うと、ぞっとするね』


 行き遅れ令嬢、かかし令嬢と、他の令嬢達に蔑まれてもほんの少し心が痛むだけだったのに。


 男性に指摘されたのは数年ぶりだったせいだろうか。心の奥底に封じていたはずの記憶が奔流のようにあふれてくる。


「も、申し訳ございません……っ」


 反射的にすがりついてしまった指先をほどき、震える身体を引きはがそうとした瞬間。


 身を屈めたジェスロッドに横抱きに抱え上げられ、ソティアは淑女の慎みも忘れて悲鳴をほとばしらせた。


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