8 聞こえてきた泣き声


 廊下を進むうちに聞こえてきたのは、赤ん坊の泣き声だ。聞き慣れた泣き声に、ソティアは思わず駆け出す。


「陛下! 失礼いたします!」


 ノックの返事も待たずに扉を開けたソティアの目に飛び込んできたのは、寝台に腰かけたジェスロッドが、腕の中で泣きじゃくるユウェルリースに困り果てている姿だった。


「ユウェルリース様をお渡しいただいてもよろしいですか?」


 さっと寝台へ駆け寄り、泣きじゃくるユウェルリースをもてあましている様子のジェスロッドから恭しく受け取って横抱きにする。


 すんと鼻を鳴らしてみるが、おむつではなさそうだ。おそらく、昼寝が中断されてしまったので眠くてぐずっているのだろう。


「眠れ眠れ、愛しい我が子。ぐっすりおやすみ、かわいい子。風がそよそよ吹いている。月も星も歌っているよ。朝までぐっすりおやすみと」


 ぽん、ぽん、と一定のリズムで軽く叩きながら静かな声で子守唄を歌う。


 ありがたいことに、ユウェルリースは寝つきがいい。しばらくぐずぐずと泣いていたが、揺られているうちに、すぐにとろんとまぶたが落ちてくる。


 ジェスロッドに話しかけられて寝かしつけを中断されたらどうしようと心配したが、幸い黙って見守ってくれている。


 何度か子守唄を繰り返しているうちに、すぴょすぴょと可愛い寝息が聞こえてきた。腕の中の小さな身体が重みを増す。


 ちらりと床を確認すると、ユウェルリースがクリームでべたべたにしていた床は、すでに拭かれて綺麗になっていた。沐浴をさせている間に、他の侍女達が拭き掃除をしてくれたらしい。


 聖獣の館の侍女達は十人ほどで、十代半ばから後半の若い少女達ばかりだが、気働きに長じた者ばかりなので、いつも本当に助けてもらっている。後でちゃんとお礼をいっておかなくては。


 ユウェルリースが眠ったと気づいたのだろう。息をひそめてソティアの様子を見守っていたジェスロッドが寝台から立ち上がる。


 が、ソティアは寝台ではなく床に置いた低いマットの上にユウェルリースを寝かせるとそっと毛布をかけた。


「申し訳ございません。差し出がましいことをいたしました」


 ユウェルリースを起こさぬよう、小声で詫びると、「いや……」とジェスロッドがかぶりを振った。


「正直、どうすればよいかと困っていたので助かった。ユウェルのことについて、話を聞かせてほしいのだが……」


 同じく小声で応じたジェスロッドが、視線で扉を示す。ここで話してせっかく眠ったユウェルリースを起こしてはと危惧きぐしているのだろう。


 ソティアも頷いて応じ、二人そろって部屋を出る。


「ソティア嬢。どこか落ち着いて話ができるところは……」


 ジェスロッドの問いかけに、ソティアは困って眉を寄せる。


 本当は、ソティアにも部屋が割り振られていたのだが、『主人の部屋に近いほうが都合がいいんですもの。そもそも、かかし令嬢にこんな立派な部屋なんてもったいないでしょう?』と高位の令嬢の侍女達に奪われた。


 そのため、ソティアは聖獣の館の侍女達の部屋に間借りさせてもらっている。そちらのほうがユウェルリースの部屋に近いため、ソティアに不満はないのだが。


「陛下さえお許しくださるのでしたら、台所でお茶をお入れいたしますが……?」


「……いや、俺が行けば侍女達が萎縮いしゅくして話どころではないだろう。仕方がない。こちらへ」


 くるりときびすを返したジェスロッドが歩き出す。ソティアはあわてて後を追った。


 勝手知ったる様子で廊下を進んだジェスロッドが、館の裏手の扉から庭へ出る。裏庭には、青々と葉を茂らせるならの巨木が立っていた。


 心地よさそうな木陰をつくる根元には、年季が入った木製のベンチがひとつ置かれている。


 迷いない足取りで進んだジェスロッドが、二人掛けのベンチの左側に座る。


「何をしている?」


 ベンチのそばで立って控えていると、ジェスロッドにいぶかしげに問いかけられた。


「陛下のお話をおうかがいしようと控えております」


 ジェスロッドの意図が掴めず淡々と返すと、ジェスロッドが機嫌を損ねたように眉を寄せた。


「令嬢を立たせて俺だけが座っているわけにはいかぬだろう? ソティア嬢も座れ」


 そう言われても、国王陛下と一緒のベンチに座るなど、とんでもない。


「いえ、私はこちらで十分でございます」


 かぶりを振って、一歩引き下がろうとすると、それより早く手を掴まれた。剣だこのある大きな手にぐいと引かれ、予想以上の力に体勢を崩す。


「ひゃっ!?」


 反射的に強張った身体が、力強くあたたかな腕に抱きとめられる。ふわりを鼻先をかすめたのは麝香じゃこうの甘い香りだ。


「すまんっ! 加減を誤った!」


 あわてふためいた声にまぶたを開けて視線を上げれば、予想以上の近さにジェスロッドの凛々しい面輪があった。黒瑪瑙の瞳が心配そうにソティアを見下ろしている。


「おいっ、手首が折れたりしていないだろうな!?」


 本気で焦っているらしいジェスロッドの様子に、相手が国王陛下ということも忘れて、思わず笑みがこぼれ出る。


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