タップダンス小学生
椛猫ススキ
タップダンス小学生
面識のない小学校低学年男子に電車の中で手を握られたことがある。
20年以上前のことだ。
当時の私は交通の不便なところに転勤になり、朝の6時の電車に乗っていた。
そんな時間でも東京直通の電車は人が多く、座ることは出来ず立ったまま本を読むのが通常だった。
ある日のことだった。
いつものように電車に乗るとそこに小学生が乗り込んできた。
制服に帽子の小学生、親はおらず1人である。
ここから遠方の小学校に通うためなのだろうがこんな早朝に電車通学するとは大変だなあとぼんやり考えているとその小学生に話かけられた。
「あの、トイレは何両目にありますか?」
「この電車、トイレないんだよ。次に駅でおりないと」
私の言葉を聞いた瞬間、小学生男子が目を見開いた。
ショックと絶望と書いてあるかのような顔。
やばい、と私も絶望した。
そこから、仮名として小川くんとする、は挙動不審になった。
うろうろと電車内を歩き回りたんたんと足を踏み鳴らす。
私との会話を聞いていた人も落ち着かない。
大か小かはわからぬが我慢している小川くんに周囲の大人たちははらはらし始めた。
田舎の電車は一駅区間が長い。
しかも次の電車が来るのが30分後とかざらであり、最悪1時間後もありえるのだ。
だから降りるのをためらう気持ちはわからんでもない。
しかも彼は子供である。
電車に乗る際、親に何時何分の電車に乗るんだよと言い含められている可能性が高い。
金はかかるかも知らんが一緒に通学してくれよと親を恨んだりもした。
まだ着かないのかと気をもんでいるとやっと駅に到着した。
これで一安心と思っていると、なんと小川くんが降りない。
知っている大人たちに緊張が走った。
どうやら我慢しすぎたゆえの凪が訪れたようである。
小を我慢していて凪が訪れることはない。
この時点で小川くんが我慢していたのが大だとわかる。
まずい。
「降りないとトイレに」
と、言いかけたときドアが閉まった。
「間に合わない…」
時は無常であると思った。
知っての通り、腹の痛みの凪はひと時のインターバルのようなものだ。
すぐそこに地獄が待っている。
案の定、小川くんは電車が走り出してすぐに顔色が悪くなる。
まずい。
これはあれだ。
堤防の決壊が近いかもしれない。
皆、祈るしかない。
なぜ、あのタイミングで凪が訪れたのか。
神の悪戯としか言いようがない。
うろうろしていた小川くんの動きが止まった。
たまたま私の近くだったので
「大丈夫?」
と、声をかけた。
小川くんは、涙目だった。
そして、私の手をぎゅっと握りしめたのだ。
これは本当にあかんやつだ!!
溺れた人が掴む藁のように小川くんは知らないおばさんである私に助けを求めた。
親が知らない人には着いていかない、と言い含められているだろうに。
それほどまでに彼は切羽詰まっているのだ。
助けてやりたいがなにも出来ない自分がもどかしい。
私は自分のカバンの中を確認し、そこにスーパーのビニール袋があるのを確認する。
遠方に通勤しているとなにかあったときのためにとあれこれ持ち歩くようになる。
スーパーのビニール袋はいろいろつかえるので大変便利だ。
私は万が一のときのためと覚悟を決めた。
受け止めるか、後始末か。
小川くんは足を踏み鳴らしている。
たんたんと先ほどより荒く、早く。
タップダンサーを彷彿とさせる足踏み。
たたたん、たんたたんたんたん、たん。
力強いタップは彼の切実さを感じさせる。
情熱的に。
荒々しく。
生命の迸りを感じさせる。
タップ。
痛いほどに握りしめられる手。
「うんこもれるうんこもれるうんこもれるうんこもれるうんこもれる」
念仏のように紡がれる懇願。
事情を知っている大人たちも願う。
間に合ってくれと。
長い長い一駅区間だった。
ゆっくりとブレーキが掛かり減速していく。
ホームに並ぶなにも知らぬ人たち。
まだかまだかと焦る車内の人たち。
そして、ドアが開いた。
その瞬間。
小川くんは私の手を振り払いダッシュで駅の雑踏に消えてしまった。
あ、とも言えなかった。
後には安心した大人たちと捨てられた私だけが残された。
緊張感があった車内はいつもの日常を取り戻していた。
まだ熱を持っている手を眺めながら私はまだ不安が残っていた。
小川くん、あの駅のトイレの場所を知っているのかな、と。
私もあの駅のトイレの場所を知らない。
降りない駅はわからない。
再度言うが、本数が少ないがゆえに目的の駅でなければ降りないのだ。
だから一緒に降りて聞くつもりでいたのだが。
背の低い子供がホームの雑踏に紛れてしまえば探せない。
私は何となく合掌し、彼の無事を祈った。
祈ることしか出来なかった。
翌日、私は小川くんが乗ってくるのを待っていたのだが、それから彼を見ることはなかった。
乗る場所を変えたのか、時間を変えたのか。
なんにせよ小川くんはもうこの車両には乗らないだろう。
トイレを我慢し、荒々しいタップを踏み、知らないおばさんの手を握ったことが恥ずかしかったのではないか。
まあ、私でも恥ずかしいから乗る車両を変える。
納得しつつ過ぎる暗い嫌な考え。
もしかしたら。
そう、もしかしたら。
あのとき。
間にあわなかったのではないか。
大惨事が起きていたのではないか。
いや。
私はそこで考えるのを止めた。
知らない方がいいこともあるのだ。
もしかしたらの結果は洗濯が大変だったであろう小川くんのお母さんだけが知っているのだろうから。
私は再度、合掌していた。
小川くんに幸あれ、と。
タップダンス小学生 椛猫ススキ @susuki222
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