その2

 次の駅に停事した時、 一人の女が乗りこんできた。女は通路を隔てた向いの席に、こらら向きに腰を掛けた。私も女も、四人座れる向合せの座席に一人で座っているのだった。                                                       


 仕事帰りという感じの女で、ネッカチーフを頭にまき、ねずみ色の毛のコートを着て、黒いズボンをはいていた。 コートの中に身をすくめたような感じが、うら淋しい印象を与えた。路面電車やバスに荷物を背負って乗ってくる行商の女が、ふと気を抜いた時に浮かべる、虚脱した、そのために一層疲れが滲み出ている表情、あれとよく似た表情がその顔に漂っていた。遅くまで働いて、疲れて夜行で帰る、生活に追われる女、それが私の観察だった。                                                                     


 女は座って一息つくと、青い箱形のハンドバックを膝の上にのせ、その口を開けた。始まったのは熱心な化粧だった。ハンドバックの中からはいろいろな化粧用品が出てきた。女は顔面にクリームをのばし、白粉をぬり、頬紅をつけた。唇をひき締めたり、すぼめたりして口紅をひいた。目を閉じてアイシャドウをつけ、ふるえる睫毛にマスカラをつけた。アイラインをくっきりひいた。動作の合間には鏡の凝視があった。鏡を見つめたまま女の顔はさまざまに変化した。ニッと笑ったかと思うと急にすましこんだ。鏡を横目でにらんだり、下から見上げたりした。それは彼女にとって楽しい時間に違いなかった。この女の生活の他のどこにこんな楽しい時間があるだろう――私はそんな事を思った。                                                                


 窓ガラスに映る女の姿を私はずっと見ていたのだ。女の方からは風景を眺めているとしか見えないだろう。列車の中で突然化粧を始めた女に私は興味を持った。観察しておけば作品を書く上で何か得られるのではという意識も働いた。直接目を向けていないという安心感が私を大胆にさせ、私は窓ガラスに映る女から目を離さなかった。それでも女がこららを向くと、窓ガラスの中の私の目とかち合うのではとドキリとした。                                                               


 電車はやがて今まで過ぎてきた駅の中で一番大きく賑やかなS駅についた。私の降車駅だった。駅前にはキャバレーやスナックのネオンが輝き、トルコ風呂が軒を連ねるK市の中心地、S区に着いたのだ。夜この駅周辺の盛り場を歩く時、それが酔っている時でも、私は心のどこかで警戒していた。S区の駅前は、何に出会うかわからない、放縦で無法な場所だった。今夜の集りのあったN区の駅前――十時を過ぎると人通りもめっきり減り、街路樹とアスファルトの静かな広がりになってしまう――とは大変な違いだった。N区は製鉄所とそこに勤める労働者の街であり、S区は商業都市であった。私はS区の駅前を好まなかった。しらふの時は特に。そこには享楽があふれていたが、一皮むくと暴力の匂いがした。                                                       

 

 電車が止まると、化粧を終えた女は頭からネッカチーフをとった。栗色に染めた髪がこぼれ出た。それを一ふりして、女は立ちあがった。横の通路を過ぎた時、私はまともに女の顔を見た。乗ってきた時のあの疲れたような表情はどこかに消えていた。紅い唇や、くつきり描かれた目は挑戦するように生きていた。髪をゆらしながら、女はドアに向って大股に歩いていった。私はふとマジックを見たような気になった。私はゆっくり立ちあがった。                                                    


 前を女が歩いていく。S駅のホームの明るい照明のためか、コートの毛が車内で見た時よりも白く光って見える。地味に見えた黒いズボンは歩くたびにチラチラと光沢を放つ、裾の少し開いたパンタロンであった。その裾を白いハイヒールがさっさと払う。階段を降りながら、女は玉の大きな色メガネをかけた。目の部分が薄茶色に翳った。仕事に疲れて家路を急ぐ、つましい女のイメージは完全に消えてしまった。 ツンと澄ました表情は、映画に出てくるある種の女を連想させた。 マニキュアの指で煙草でもくわえれば、似合っただろう。ある予感が私に閃めいた。 そうなのか、と思った。それは私の興味をさらにそそったが、一方でプレーキをもかけた。私は少し慎重になって、歩く速度を落し、女との距離を広げた。間に五・大人の通行人が入った。女が改札を通った。さあどうするだろうか、私は女の動きを追った。女は正面のタクシー乗場に立たなかった。大通りの方に歩きだしてもいかなかった。女は右手に曲った。予想通りだった。                                     


 駅ビルの右手にトルコ風呂が軒を連ねる一帯がある。夜になるとその付近にはポン引きや娼婦がたむろした。 一角に洋画専門の映画館があり、その道路に面した壁に貼りつくようにして、被いを垂れて中を見えなくした屋台が並んでいる。屋台と壁とのわずかな隙間に置かれた床几に、娼婦達が客のように腰かけ、通りを行く男に声をかけてきた。その屋台の並びの前を通って、私は家へ帰るのだった。        


 正体に見通しがつくと、女への興味は急速に消えていった。かわりに都会というもの、 この社会というものの凶悪な本性がむき出しにされたような、ザラザラした不快な感覚が広がり出した。恐怖と怒りが混じりあっていた。私は早く家に帰り着きたくなった。こんな所は人の住む所じゃないんだ、S区の駅前に対する嫌悪感が不意につのった。妻が恋しくなった。妻と暖まりたかった。ニ人で何とか築いている現在の生活がいとおしくなった。こんな社会のために俺達の生活をこわされてたまるものか、唐突に私は社会と対峙した。                                         


 屋台の前を少し固くなって通り過ぎようとした。並びの半ばを過ぎた時、女が声をかけてきた。                               「にいさん、どこに行くの」                                                             

 あの女が私の顔を見ていた。口許だけで笑っていた。私はある恐れを感じて、そのまま通り過ぎようとした。                                            「行っちゃうの、あんた汽車の中でじっと私を見ていたの知ってるんよ」                                

 その言葉は私を突き刺した。他の女達が笑った。私は当惑した。同時に女に対する怒りがこみあげてきた。それがどうした、体を売ればそれで済むのか! しかし関り合ってはならない、女の背後にどんな組織があるかわからないのだ。他の女達の視線も背中に感じながら、私は息を詰めて黙って通り過ぎた。屋台の前を過ぎると道は下り坂になり、ガード下に入る。それを抜けると私は走り出した。恐布からではない。暗い静寂を歩いている間に、ある心の昻揚が生まれてきたのだ。押し寄せる暗い思念に抗するように。思いの中で、店を持てた現在の幸福がゆるやかに私を浸した。今自分にあるもの、それに頼るほかはない。店もある、妻もいる、その事を私は声をあげて感謝したかった。早く家に着こう、妻の顔を見よう、明日からしつかり店をやるぞ、そのたった一つの希望が今は焦りのように胸をつきあげ、走りながら私は少し苦しかった。


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帰路 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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