帰路

坂本梧朗

その1

 同人誌の集まりの帰りだった。その集まりの帰りにはいつもそうだったが、何かしら焦燥とそれをなだめる気持の二つを抱いて、私はホームのべンチに座っていた。孤独だった。自分があてのない事をしているような、不安定な心細さだった。店を妻にまかせて出てきていた。それが心に後ろめたくひっかかり続けて、不安な感情をさらに落着かないものにしていた。酔っ払いが妻にからむ様子が浮かんだ。時計を見ると十時を過ぎていた。もう店も終った時刻だった。              


 私の前に上下二線のレールが青白く光っていた。目をあげると、正面にコンクリートの高い壁が、ホームの明りにクリーム色に浮いていた。その向うが、線路に沿って長々と続くT製鉄の構内だった。壁の上の藍色の闇の一角が赤く焦げていた。溶鉱炉が燃え続けていた。              


 製鉄所は昼も夜もなく動いていた。従業員は三交代で、今頃は丙番と呼ばれる夜間動務者が仕事に入った頃か。私は同人のOの事を思った。OはT製鉄の労働者だった。赤茶けた顔、目尻に目ヤニの溜った目。その目をしばたたいて、製鉄を書きたい、製鉄の労働者を書きたい、それがOの口癖だった。本人の焦燥が傍の者に感染うつってくるほどに書けなかったが。今日の例会には、丙番で二時まで残業して、三時間ほど寝た後出て来たと言った。これからまた夜勤だと言って会の終りより一時間ほど早く帰っていった。次の例会の日程について、いつもの黒い手帳を取り出して、甲乙丙の回転表と照合しながら頷いていた。手帳のページの上に置かれたゴツゴツした太い指が印象に残った。左翼的な組合活動のために、二十年近く勤めてヒラであった。


 よく頑張ることだ。一銭にもならんのに、私はそう思った。俺があてがないというのなら、子供を三人抱えているあの人の場合はどうなるだろう――。私は勤務、組合活動、文学活動、家庭、すべてをひっくるめてOにかかっている負担の大きさを思いやった。ため息が出た。そしてOの存在によって励まされ、慰められる自分を感じた。                               


 しかし自分の現況に思いが戻ると、ふたたび不安な圧迫感がよみがえった。私も学生時代から続けてきた左翼連動によって定職が決まらず、最近やっと小さな飲み屋を開く事のできた身の上だった。全く経験のない職種であり、手探りしているような日々が続いていた。本当なら今は何もかも措いて、店を軌道に乗せる事に全力を傾けるべき時だろう。できるだけ長く店にいて、仕事に早く習熟するよう努めるべきなのだ。それが週で一番忙しい時に店をほっぽり出して、例会などにノコノコ出てきている。近頃は世間話程度で終ってしまう停滞しきった例会に。これは生活的基盤を持たずに挫折した左翼活動の悪しきパターンの踏襲ではないか。……それとも長く続いた中途半端なくらしのために、地道に生活を築いていく力を俺は失いだしているのか、私はこの危惧を即座に否定した。……はたして店をうまくやっていけるのか……店の仕事にのめりこんで、文学をやっていけるのか……。                                                   


 カンカンカンと警笛が鳴った。三つのライトがレールの彼方から近づいてくる。上りの通過列車だ。私は前方の静まったレールに目を据えた。間もなくこのレールが巨大な重量に押しつぶされる――。列車がホームに入った。グアーンという音響がホームを揺るがす。ブオッと空気が鳴って、視界に列車が突入してきた。車体のオレンジの線が一直線につながろうとする。足を置いているコンクリートが揺れ べンチが震える。耳を聾する音。私は車輪に踏まれるレールを見続けた。レールの悲鳴を聴こうとしていた 轟音の中にそれは聞こえたように思えた。これが人生なんだと私は思った。流れ去る車体の間に隙間があって、向う側の線路の小石が無関係な静かさで見えていた。ヒュン、と空気がまた鳴いて、最後の車両が過ぎた。                                                        


 ペンチに座っていてよかった。ホームに立っていたら引きこまれたかも知れない―― 。再び静まり、青白い光を放っているレールを見ながら私はそう思った。                                                         


 いつの頃からか、私の内面は挫折感とでもいうべきものをひきずるようになった。それはすでに、緑に囲まれた、のどかな山麗の小学校から、ガラス窓は破れ、教室や廊下は砂ぼこりでザラつき、フリョウ (不良) と呼ばれる非行生徒が横行している都会の中学校に入学して、強い嫌悪感、違和感を覚えた時から、始まっていたのかも知れない 一浪を経験した受験期は、私の自閉症的傾向を昻進させ、私をあらゆる事柄についてのシニックな批判家にした。大学に入ると、抱き続けた社会への批判は、私を左翼運動に向かわせた。実際、運動の理想は崇高だった。私を抑圧してきたものの正体が、そこでは暴かれていた。その理想の実現は私自身の夢の実現と重なっていた。しかし実社会は大学の中のように甘くはなかった。拒絶と迫害が 特に生計を立てるという分野で、立らはだかってきた。私は抵抗したが、しだいに自分の信条の表明を憚かるようになり、遂には押し切られるように運動から離れてしまった。運動を続けられるだけの物質的基盤をつくれなかった私の罪は罪として、その時の不条理感を私は忘れない。理性的には離れる理由はどこにもなかった。生活の要請が私を決意させたのだ。                      


 その時私は動物界を脱していない人問を思った。自分も社会も含めて。私の内部の何かが壊れ、私の世界はこじんまりとしたものになった。よりよい社会、よりよい生活をめざす善意が、この社会ではどのように遇されるかを私は知っていた。列車に重圧されるレールに、私はそうした善意を投影していた。    


 待っていた普通電車が入ってきた。乗客はまばらで、黄橙色に照らされた車内は暖かそうに見えた。 私はホーム側の空席に座り、窓際に片肘をついて、外を挑めた。                                                       

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