十五.前夜

十二月二十三日。


 いよいよ明日、開店だ。

 全ての準備が整った。もういつでもサインボードをOPENに変えられる。サーフショップTerry'sは万全の態勢だ。

 ここまでの道のりを振り返る。テリーの意志を継ぐことで、亜美は強く逞しくなった。私が伝えたかった一人で生きていく喜びとは少し違うかもしれないが、愛する人の力を得て、この店を守り、生きていく喜びを感じることができる。愛の力は素晴らしい。

 店のカウンターの後ろにテリーの席を作った。逗子海岸で、亜美の肩を抱いて満面の笑みを浮かべた素敵な写真。撮ったのは哲也だ。前々から思っていたのだが、哲也は写真のセンスがある。人や景色の最高の一コマを捉えるセンスだ。産まれてくる娘の写真も、きっと素敵な一コマがたくさん並ぶだろう。楽しみだ。


「ちょっと出ないか?」

 哲也が声をかけてきた。今日と明日は開店を控えて休みを取ってくれていた。

「これ片付けたら大丈夫だから、ちょっと待っててね」

「優雨、それあたしがやっておくからいいよ、行っといで」

 亜美がにやけながら促してくる。まぁいい。お言葉に甘えよう。


 店の前を渡り、森戸海岸へ出る狭い路地を、手を繋いで歩く。そういえば最近、二人だけで出掛けていなかった。

「久しぶりだよね、二人だけで出てくるのって」

「そうだな、いつも三人だし。もう今はそれが普通だもんな」

「うん。なんか、幸せだね」

「うん」

 一瞬、付き合い始めの頃に戻ったような気がして、照れ臭くなった。


 冬の海は寒い。でも、こうして哲也と二人でいると、冷たい海も爽やかで清々しく感じるから不思議だ。

「明日だな」

「うん。なんか全速力で走ってきた気がする」

「そうだな。三人とも、いや四人とも全速力だったよ」

「テリー、喜んでくれてるよね、きっと」

「もちろん。あいつ、同棲の報告をしてくれたあの日、帰りに寄った森戸神社から出る時、言ってたんだよ。“俺みたいなやつをみんなが受け入れてくれて、俺を家族って言ってくれて、初めて感じたんだよ、一人じゃないって”って。いいやつだよ、あいつ」

「うん、知ってる。でも最初はもう・・・」

 笑った。上半身裸で、背中を丸めてちっちゃくなって、亜美の隣にちょこんと座ってたテリーを思い出す。そういえばあの時、哲也が低い声で、“で、事に及んだと?”って言ってたけど、あの凄みというか迫力は本物が言ってたんだよね。そりゃ縮み上がるわ。今思うといろいろなことが当てはまる。凄い人だな、私の旦那さんは。


 陽がだいぶ傾いた。防波堤にはまだ釣り人が数人いる。そろそろ陸に戻らないと危ない。と思ったら、ちょうど片付けをして船に積み込んでいるようだ。良かった。


「優雨」

「なに?」

「続き、話そうか」

「続き?」

 あ、思い出した。そうだ、亜美のことがあって、哲也の話の続きを聞いていなかった。えっと、どこまで聞いたんだっけ・・・

「俺の仕事のことを話して、親父の話をしたところまでだったよな」

「あぁ、そうそう、そこまで聞いてたね。続き、話してくれるの?」

「うん」

「ありがとう」

 哲也の横顔。穏やかで、優しい目をしている、私の大好きないつもの横顔だ。

 哲也は上着の前を開けて、私を包み込んでくれた。私だけの場所だ。

「中学一年の夏休みの終わり頃に、親父がいる警察署へ行ったんだ。仕事の時の親父を見てみたくてね。電話して、適当な理由をつけて話してみた。あまり気乗りしないような感じだったけど、署の外で待ってろって言ってくれた。

 署の左の方にベンチがあってね。そこに座って待ってたんだ。しばらくしたら親父が出てきた。ぺこぺこしたおじさんを笑顔で送り出してた。そしたらすぐに今度はおばさんが親父を呼び止めて、なんか笑いながら話しててさ。親父も楽しそうに笑ってた。いろんな人と会ってるんだなって思った。

 終わったみたいだったから声をかけようかなと思った時、学校の制服を着た女の子が署から出てきたんだ。親父はその女の子にもニコニコしながら話しかけて、時々肩をぽんぽんってしてさ。俺と話してる時の笑顔とちょっと違うんだよな。なんか元気付けてるというか、励ましてる感じだった」

「お父さん、いろんな人に慕われてたんだね。哲也、お父さんそっくりなんだろうな」

 哲也が照れ臭そうに下を向いた。

「その女の子がさ、悲しそうな瞳で口を固く閉じててね。親父が笑顔なのに、ぜんぜん笑わないんだ。親父がメモみたいなのを渡したら、ペコって頭を下げて帰って行った。親父、その子が信号を渡って通りの向こうへ行って見えなくなるまで、ずっと見送ってた。印象深かった」

「何か辛いことあったのかな、その女の子」

 哲也の表情が硬くなった。

「それからしばらくして、親父が家に来た時に、普段、台所になんて立たない親父が、お袋に料理を教わってるんだよ。びっくりしたよ。でかい体で、太い指で一生懸命やっててさ。皮剥きとかも下手くそで、あんまり時間かかるもんだから俺も手伝ってさ。大変だったよ。

 その夜、親父が話してくれたんだ。ある事件で本当に気が滅入った、お前も警察官になるなら、少し知っておいた方がいい、現実の怖さ、酷さをって言うんだよな。緊張したよ。どんな事件なんだろうって。怖かったけど、聞いたんだ。

 ある民家に強盗が入った。地元でも有名な資産家の家で、大きな一軒家に住んでいた。お金持ちだから、現金や宝飾品が家にあったらしくて、そこを狙われた。犯人は空き巣狙いで入って、途中で家の人が帰ってきたから、出るに出られなくなって、家の中に隠れていたらしい。耐えられなかったんだろう、夕方になって思い切って出てきたら、家の人に見つかって、持っていたサバイバルナイフでご主人を刺した。奥さんは二階に逃げたらしいんだけど、犯人は深追いしないでそのまま逃走しようとして外へ出た。

 ちょうどその時、家の前を全く関係ない夫婦が歩いていたんだ。家の中から悲鳴が聞こえて、何があったんだろうって驚いたんだろうね、足を止めてしまった。飛び出してきた犯人は、顔を見られたと思って迫ってきた。旦那さんは奥さんを守ろうとして動いたんだと思う。犯人が飛びかかって、先に旦那さんが刺された。そのまま奥さんも刺された。犯人は逃走して、三日後に衣笠の山の中に潜んでいるところを確保されて、逮捕された」

 えっ・・・その事件って・・・

「オフシーズンだったんだよな。葉山はオフシーズンだと人通りが極端に少なくなるだろ。刺されたご夫婦は、声を上げても誰にも気付いてもらえなかった。無念だったと思う。

 親父はそのご夫婦の一人娘が、自分の息子と同い年だと知って、不憫でならなかったんだ。その子のために、なんとかその子に、一人で生きていくことを強いられる運命を乗り越えてほしいと思った。

 毎日女の子の家に寄って、励まし続けた。一生懸命励まして、少しでも笑顔になってもらえるようにって毎日通ったんだ。一生懸命覚えた肉じゃがを作ったって、でもあんまり美味しくできなかったよって笑ってた。親父はどんなに疲れていても、徹夜明けでも、女の子の家に通って、励まし続けてくれた。

 その女の子は、俺が親父に会いに署へ行った時に見かけた、悲しそうな瞳をして、口を固く閉ざした、制服姿の女の子だと思った。親父に訊いたら、黙って肯いた。

 話を聞いて、俺は怒りと悲しさで耐えられなくなった。自分も何かしてあげられたらと思った。でも中学一年の俺に何ができる?何もできないんだよ。亡くなってしまった人を取り戻すことなんてできない。俺は、女の子の支えになりたいって思った。でも親父はそっとしておいてあげるんだと言って、その子の名前や家、通ってる学校を教えてくれなかった。そうっとしておいてあげるべきなんだって、自分に言い聞かせた。

 中学を卒業した春休み、親父は病気が悪化して退職した。癌だった。退職した頃はもう末期の状態で、お袋と一緒に毎日見舞いに行った。親父は俺の顔を見るといつも微笑んでくれた。もう力が入らない、大きな手で、俺の頬を撫でてさ。温かかった。

 高校に入ってすぐ、親父は逝ってしまった。

 お袋は仕事をしながら一生懸命、俺を育ててくれた。高校生になって、アルバイトができるようになって、五月からいろんなバイトをした。でも所詮は高校生のアルバイトだよ。時給も安いし、そんなにシフトも入れてもらえない。学校もある。稼げるのは夏休みだって思った。

 逗子海岸で海の家のアルバイトがあるって友達が教えてくれた。すぐに面接を受けて、夏休みの初日からバイトに入ることができた。仕事は簡単だったけど、暑くてきつい。でも、稼ぎたいから休みなしでずっとバイトを入れてもらった。

 海の家のバイトを選んだのは、お金のためだけじゃなかった。あの時の女の子が、もしかしたら海に遊びにくるかもしれないって、そんな奇跡みたいなことを想ってた。馬鹿みたいだけど、運命は不幸なものばかりじゃない、絶対に幸福な運命があるはずだって信じてた。奇跡を信じてた。信じたかった。

 七月の終わり、新しいアルバイトが二人来るって聞いた。俺みたいに生活をかけてるわけじゃなく、遊びついでにお小遣いを稼ぐみたいな、そんなやつが入ってくるんだろうなって思ってた。

 その日、朝の支度とシャワー室の掃除をしていたら、店長が新しく入った子だから仕事教えてあげてなって、女の子を二人連れてきた。シャワー室の掃除で汗だくだったけど、顔を上げて挨拶をしようとした。そのうちの一人の女の子、緊張してるみたいで口元が固く閉じてた。すぐにわかったよ、あの時の制服姿の女の子だって。

 こんな偶然ってあるか?奇跡ってあるのか?って思った。でも、親父が言っていた“そうっとしておいてあげるんだ”って言葉を思い出した。俺は知らん顔をして挨拶をして、仕事を教えた。

 二人とはすぐに仲良くなった。自然と仲良くなったというか、まるで昔からの知り合いみたいに、男とか女とか関係ないような、不思議な感覚だった。

 バイトが休みの日に三人で遊ぶようになった。海、釣り、遅くまで砂浜に座って話し込んだり、バイト帰りに家まで送って行ったりした。俺はその女の子の力になりたいと思ってた。この人を支えなければって、勝手に責任を感じて、勝手にそうなれると思ってた。

 夏休みの最終日、アルバイトが終わる日だった。今まではバイト仲間だったから一緒にいられた。逢うことも自然だった。でもバイトが無くなったら、もう二度と逢えないんじゃないかと思った。

 その時に気がついた。自分があれほど想っていた支えるという気持ちが、いつしか好きだという気持ちに変わっている。恋をしているんだってわかった。

 最後のバイトが終わって、いつものように三人で帰った。一人を家まで送り届けて、その女の子だけになった。そこから家は近かったから、別に送る必要なんてないと言われればそれまでだけど、これが最後のチャンスだって思ったから、勇気を出して告白した。緊張してうまく言えなかった。笑われた。恥ずかしかった。

 うまく言えなくて笑われたから恥ずかしかったんじゃない。自分がとんでもない間違い、勘違いをしていることに気がついて、恥ずかしかったんだ。いけないことをしたって思った。そうっとしておいてあげるべきなのに、俺はなんて自分勝手なことをしてしまったんだろうって思った。だから、今のは無かったことにしてくれ、忘れてくれって言った。自分勝手なことだけど、そう言うしかなかった。馬鹿だったよ」

「哲也・・・」

「優雨のこと、ずっと知ってたよ・・・黙ってて、ごめん」


 私はなんて酷いことを。

 哲也とはアルバイトで出逢ったと思っていたのに、哲也はもっとずっとずっと前、私が両親を亡くしたあの事件の時から、私のことを覚えていてくれたんだ。あの時から私を支えたいって想っていてくれてたんだ。どうしてそんなに・・・

 私はなんて馬鹿なんだろう。お父さんとお母さんが死んでしまったのは悲しい。でも両親は自分たちの命と引き換えに、こんなに素晴らしい人を私の傍らにおいてくれていたんだ。

 私の運命は、もうあの時から幸福な運命に繋がっていたんだ。私が気付いていなかっただけなんだ。哲也はあの時から運命の人だったんだ。


「知らなかった、ぜんぜん知らなかった。こんなに想っていてくれてたのに、あたしあの時の告白のこと、ずっと揶揄ってた。ごめん、ごめんなさい、あたし、なんて酷いことを・・・ごめん・・・」

 優しく抱き寄せてくれる。

「優雨、やっと話すことができたよ。ありがとう。お前がいつも俺の隣で笑顔でいてくれる。俺はようやくお前を支えることができるようになってきているのかなって、最近思えるようになってきた。俺、お前たちのためにもっともっと頑張るよ。親父が教えてくれたんだ。命をかけて。家族を守ること。それが一番大切なことだって」

 哲也。

「今までずっと守ってくれてるよ、あたしみたいな女のこと、ずっと守ってきてくれたよ。これからもずっと一緒にいるんだから、あたしも哲也を守るから、家族を守るから、ごめん、本当にごめんなさい、あたし・・・」

 哲也が頬を両手で支える。

「親父の苗字は萩原だ」

「うん、覚えてる。絶対忘れないもん、一生忘れないもん」

 哲也が上着のポケットから小さな包みを取り出した。

 青空色の小さな箱を開ける。

「優雨、遅くなってごめん。お前と結婚して、これから娘も産まれてくる。Terry'sもお前のおかげで実現する。お前は俺ができないことを全て実現してくれた。本当にありがとう。愛と感謝を込めて、これを左手の薬指にはめさせて欲しい。お前がいつでも俺を感じていられるように」

 私の左手の薬指が、ムーンロードよりも眩く、輝いた。

「優雨、愛してるよ、心から」

「あたしも愛してる。今までも、これからもずっと」

 唇が重なる。優しく、激しく。感謝と愛を込めて。


「俺、親父に一つだけ勝てることがあるんだ」

「もう何もかも勝ってるんじゃないの?」

「いや、警察官としても人としてもまだまだ全然及ばない。でも、たった一つだけ勝ってることがある」

「なに?」

「肉じゃがは俺のほうがうまい」

 悪戯っぽく微笑む唇に、もう一度、唇を重ねた。




 十三歳の夏にすれ違っていた二人は、今、人生を共にし、運命を重ね合わせた。

 奇跡を信じた哲也と、運命を信じた私。

 純粋であることの尊さ、純朴であることの強さがあったからこそ、終わりのない出逢いがあることを知った。

 私たちの愛は永遠だ。家族の愛も永遠だ。

 哲也、亜美、テリー、それぞれが家族の絆で固く結ばれている。

 生まれてくる娘は、この素晴らしい家族の愛に包まれ、愛に支えられて幸せに育ってくれるだろう。


 私たちの運命は奇跡だ。

 唯一無二の運命を。

 永遠に続く愛として。

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