十.哲也
グラスの氷が斜に傾く。澄んだ音が心地いい。
ソファに並んで座り、アイスティーをグラスへ注いだ。口に含んで哲也の唇に重ねる。二人の喉に潤いが戻った。
膝にのせた私の手を、哲也が優しくポンっと弾ませる。
静かに話し出した。
「俺の仕事から話そう」
哲也の仕事がようやくわかる。
「俺は警察官だ」
「えっ・・・」
「驚くよな。お袋はもちろん知っているが、他には誰にも言っていない。隠していたわけじゃないんだ。そんなんじゃなく、親父が教えてくれたことなんだ」
驚いたが、不思議じゃない。正義感が強く、人のために一生懸命になれる誠実な人だ。納得できた。お父さんの影響で警察官になったのだろうか。お父さんが教えてくれたことってなんだろう。
「お前も知っている通り、両親は俺が小さい頃に離婚をした。俺はお袋に引き取られて、母子家庭で育った。離婚の理由は教えてくれなかったけど、親父が家から出て行って、お袋と二人で暮らすようになっても、お袋は親父を決して悪く言わなかった。“お父さんは立派な人だよ。たくさんの人を守って、たくさんの人を救って生きているの。誰にでもできることじゃない。そこは見習って生きてほしいな”ってよく言っていた。
離婚してからも、親父はよく俺に会いに来てくれた。親父は刑事だったんだ。だから、例え非番の日でも、事件があれば休みを返上して現場に駆けつけた。一緒に遊んでいる途中で、親父が何度も“ごめん”って言いながら出かけていったのを覚えてる。まだ小さかった俺は寂しかったけど、親父が人のために一生懸命頑張っている姿を見て、かっこいいと思った。憧れたよ」
哲也の顔がいつもと違う。なんだろう、この表情。大人びたあの顔とも違う。私が見たことがない、普段の穏やかさとは違う、別の穏やかさ。幼い頃の気持ちに戻っているのかもしれない。傷ついた頃の気持ちに戻っているのかもしれない。抱きしめてあげたい。
哲也の腰に手を回し、胸に顔をつけて抱きしめた。
「親父が家に来る日は、お袋は親父が好きな魚料理をいろいろ作ってさ。側から見れば普通の家族だよな。お袋は親父が来ることを拒んだことはなかったから、親父が来た時はいつもそんな感じで、たくさん笑って、楽しく食事してさ。本当に離婚しているのかって思ったよ。
中学に上がってすぐの頃。いつものように食事が終わってから三人で話してたら、親父がちょっと散歩しようって言ってね。二人で森戸神社へ行って、千賀松の近くの岸壁に座った。いつもにこにこしていた親父が、珍しく真面目な顔で話し始めた」
“もう中学生になったんだな。あんなにちっちゃくて泣き虫だったお前が、もうこんなに大きくなって。親のせいでいろいろ嫌な思いをさせてしまって申し訳ないと思ってる。もしお前が今の俺を見て、自分の将来を重ねて見るようなことがあったらと思ってな。今日はその話をしようと思っていたんだ”
「最初は親父が何を話すのか想像つかなかったんだけど、俺が親父に憧れているのは伝わっていたと思うから、その話だなってわかったよ」
“俺の仕事は刑事だ。悪い奴を捕まえて、被害にあった人の無念を晴らす、まぁ簡単に言えばそういう仕事だ。でもな、刑事の仕事っていうのは、単純にそれだけをやっていればいいわけじゃない。警察官だってそうだ。道に迷って困っている人がいれば教えてあげて、時にはそこまで連れていってあげたりもする。酔っ払いもいれば、泥棒もいる。犯罪者だって人間だ。罪を犯すには理由がある。そこを見ると、根っからの悪党なのか、止むを得ない事情があったとか、その人の真の姿を垣間見ることが多い。刑事や警察官は、犯罪者をただ捕まえるだけじゃなく、その根本のところにある原因を聞き出して、罪を償うための手伝いをしているんだ”
「意外だったんだ、こんな話をするのが。普段、仕事の話は全くしない人だった。仕事の苦労話なんて聞いたことがなかった。俺がまだ子供だったからっていうのもあるとは思うけど、愚痴一つ言わない人だったからね。この日の親父は何かこう、切羽詰まったような、危機感があるように思えた」
哲也がお父さんを心から慕い、尊敬しているのが伝わってきた。
「親父は俺とお袋を捨てたわけじゃない。ずっと見守ってくれていた。俺はそう思っていたよ。親父はね、俺とお袋を守るために別れたんだ。その話がさっき言った親父が教えてくれたことなんだ」
“お前、警察官になりたいって思ってるだろ。お母さんが言ってたよ。それを聞いて俺は嬉しかった。でも、もし本当に警察官になろうとしているなら、これから話すことをよく覚えておいてほしい。
もしお前が警察官になるなら、自分の一番大切な人にその身分を明かすのは、とても勇気がいることだと思っておくんだ。警察官っていうのは、善良な市民の味方だってよく言うよな。その通りだ。だからいつ何時でも、被害を受けた人がいれば寄り添い、悪い人を捕まえて安全を確保する。それが仕事なんだ。一旦警察官になったら、たとえ非番であっても、そんなことは関係ない。常に職務が優先する。自分や自分の家族に何かあっても、優先順位を変えるようなことがあってはならない。困っている家族よりも、困っている人を守り、助けることを優先しなければならない。
俺自身は警察としての自覚があり、誇りがあり、自負があるから当然のことだと受け止めている。でも家族はどうだろう。家族の不安、負担がとても大きくなるんだ。だってそうだろ?普通、お父さんは家族を守るために一生懸命になるのに、警察官は家族を守るよりも前に、市民を守る使命を受けているんだ。そこを躊躇していたら、警察官として失格なんだよ。極論かもしれないが、俺はお母さんとお前を守るよりも前に、市民を守らなければならない。この優先順位を変えることはできないんだ”
「親父はそこまで話すと、少し黙って海を見ていた。離婚をした理由はそれだけじゃ無いと思う。でも、親父なりに、お袋なりに考えた何かがそこにあるんだと思う。そこは訊かないでおこうと思った。親父も辛かったんだと思う。今はその時の親父の気持ちがわかる気がする。親父の話を聞いて、それまで感じていた迷いみたいなものが吹っ切れた。俺も警察官になって、親父のように人の役に立てる人間になるってね」
哲也の表情が清々しく変わった。ずっと胸の内に秘めていたことを話して、気持ちが軽くなったのかもしれない。私は哲也の手を摩りながら、続けるのを待った。
「親父の話を聞いて、一つだけ俺なりの考えとして決めたことがある。警察官になっても、家族以外には決して身分を明かさない。理由は警察官であることを理由に、大切な人を守ることができなくなるかもしれないからだ。だってそうだろ?仕事で命を落とすこともあるんだ。次に逢う約束をしても、そこに行けないかもしれないんだ。それは残酷だよ。だから、家族になるまで、親父のように立派な人になるまで、俺はお袋以外には絶対に警察官であることを話さないって決めた。ごめんな、今まで黙ってて。別にお前のことを家族と思っていないとか、そういうことじゃないんだ」
中途半端な気持ちやいい加減な気持ちで決めたことじゃない。哲也の優しさ、思い遣りがそうさせたんだ。受け止めてあげなきゃいけない。ショックではあるが、理解はしてあげられる。
「中学一年の夏休みの終わり頃、親父がいる警察署へ行った。電話をしてね。仕事の時の親父に会いたかったっていうのが本音だったけど、そんなこと言ったら迷惑かかっちゃうから、適当な理由をつけてさ。警察署へ行って外で待っていたら・・・」
電話が鳴った。
亜美の病院からだ。
「はい、もしもし・・・えっ」
黙って哲也に電話を渡した。
亜美が、自殺を図った。
哲也に抱えられながら車に乗った。亜美の病院へ向かう。
震えが止まらない。嘘であってほしい。間違いであってほしい。
逗葉新道に乗り、亜美が入院している県立精神医療センターへ向かう。夜で道は空いている。三十分もかからないはずだ。
哲也は冷静に運転しながら、時折、私の手を握ってくれた。
テリーの後を追って亜美までも失うことなんて絶対にない。亜美は大丈夫だと信じている。
横浜横須賀道路に入り、横浜方面へ向かい、別所インターを降りる。一般道へ降りれば精神医療センターまで五分程度だ。
病院の敷地に入り、救急外来へ飛び込んだ。入院させた時、緊急事態の時はここへ来るよう言われていた。
受付で亜美の名前を伝える。病室で処置をしていると言うので、走って向かう。エレベーターも待たず、階段を駆け上がった。ナースステーションの前を横切る時、顔馴染みの看護師さんが気付いて、こっちと呼んでくれた。
病室の扉が開いている。二人で飛び込む。亜美の姿が目に入った。
「亜美!」
駆け寄ろうとすると、看護師さんが「大丈夫ですよ」と早口で言った。
ベッドの脇で機械の数値を見ていた医師が私と哲也を手招きする。亜美の顔を見ようと覗き込んだが、別の看護師さんがそのまま部屋の隅に促してきた。
「先生、亜美は、亜美は大丈夫なんですか?」
医師は落ち着いた口調で話し始めた。
「今はもう大丈夫です。驚かれたでしょう、命に別状はありませんので、そこは安心してください」
良かった。力が抜けて倒れそうになったのを、哲也がそのまま受け止めてくれた。
椅子に座り、医師の説明を聞いた。
亜美は首を吊ろうとしたらしい。
今週は何かと用事が多かったのと、思いがけず産婦人科へ行ったりしていたので、亜美のところへは来ていなかった。心配だったので、一昨日電話をして容態を確認していた。
ここ数日、亜美の容態は安定していた。取り乱すこともなく、錯乱するようなこともなく、感情の起伏も穏やかで、この状態が完全に安定すれば退院も視野に入れていこうと言われた。
改善の傾向があるとわかったので、私自身、気を抜いていたのかもしれない。
今日は、日中は散歩に出たり、看護師さんと楽しく話したり、とても落ち着いていたらしく、夕食が終わって消灯時間になって、看護師さんが様子を見にきた時も、いつもと変わらない調子で笑いながら話をしていた。だが、看護師さんが病室を出て他の病室へ入ると、突然大きな音がした。慌てて亜美の病室へ入ると、着替えとして置いてあったシャツを、首とベッドフレームに結びつけ、下向きの姿勢で無理やり首を吊っていた。
幸い、すぐに看護師さんが解いたので大事には至らなかったものの、短時間でも窒素状態だったので、すぐに処置をして、私に連絡を入れたということだった。
首にシャツが食い込んだ痕と、おでこを床に打ち付けた時にできた傷があるが、呼吸が止まったことのダメージはほとんどないということだったので、少し安心できた。無事で良かった。
哲也に支えられて亜美の枕元へついた。おでこに大きなガーゼが貼られていたが、血色はいい。鎮静剤でぐっすり眠っている姿は、子供のようで愛らしかった。
亜美は私の大切な家族だ。テリーを失い、亜美までもと一瞬思ってしまったが、運命はそこまで残酷ではなかった。
手を握り、亜美の温かさを感じると、急に涙が溢れてきた。哲也が隣に来て、私の肩を抱いてくれている。もうこれ以上、家族が傷つくのは嫌だった。みんなが幸せになって、みんなが笑顔で過ごせる日が早く来てほしいと、心から願った。不幸な運命は私の両親だけで終わらせたい。
哲也が看護師さんと話している。今夜、ここで亜美の傍についていてあげたいと言ったが、看護師さんが常駐するので、明日改めて来るように言われた。病院側がきちんと対応してくれるのはわかっている。ここは従わなければならないだろう。
一時間ほどしてから病室を出た。看護師さんにもう一度頭を下げてから病院を出た。
車に乗った途端、不安と安堵と疲労が入り混じり、声を上げて泣いた。哲也は車を動かさず、黙って肩を抱き、手を握っていてくれた。
静まりかえった駐車場。暗闇の中に留まる二人。
運命は薄氷の上。留まればいつかは前へ進めるのに、踏み出せば堕ちていく。
私と哲也が幸福の運命を歩み出しても、一方で亜美は不幸を背負う運命へ突き落とされる。
運命とはなんなのだろう。
夏の夜。
今はただ穏やかに、過ぎ去るのを待つしかなかった。
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