八.秘密

 五月二十四日


「ねぇ」

「ん?」

「あのさ・・・」

「なに?」

 言おうかどうか迷った。

「やっぱいいや、なんでもない」

「なんだよ、気持ち悪いな」

「気持ち悪いってなによ」

「気持ち良くは無いだろ、そんな言いかけでやめられたら」

「なんでもないんだです」

「まだ言うかー、もう本当に一生言うつもりだろー」

 もちろん一生言うつもりだ。だって、一生一緒にいるんだもん。

 寝転がっている哲也に覆いかぶさり、全ての愛を込めて唇を重ねた。


 テリーの葬儀が終わり、亜美が入院してから二ヶ月が経った。

 私たちの生活は随分変わった。亜美のところへは、入院して一ヶ月は毎日通った。徐々に間を空けるようにと言われていたので、今は三日に一度のペースで行っている。

 亜美は少しずつ安定してきたが、それでもまだ時折、全く無反応になって天井を見つめたままになったり、激しく泣いたり、錯乱状態になることもあった。主治医の先生が言うには、単純性PTSDを発症していて、以前患った鬱病の影響もあり、今自分がどういう状況に置かれているのかは理解しているが、心の傷があまりにも大きすぎるため、受け止めることも対処することもできず、精神が極端に不安定になっている状態らしい。投薬と精神療法で治療を続けているが、少しずつ良くなってきてはいるものの、今の状態では、まだ退院の目処は立たないと言われた。

 亜美の両親は未だに帰国できずにいた。時折、私に電話やメールが届くので、その時々の状況を伝えているが、お父さんもお母さんも動くに動けない状況に苛立ち、疲れ切っていた。仕方がない、こればっかりは個人の判断で出来ることではないのだ。

 今、私に出来ることは、亜美が早く元気になるよう、治療に専念させ、励まし、一つでも笑顔になれるよう前を向いて生きていくことだ。


 たぶん、だ。

 妊娠した。


 一ヶ月ほど前、妙に気分が落ち込んだり、無性に泣きたくなったり、哲也の何気ない一言に過剰な反応をしたり、自分でもよくわからない変な精神状態になっていることに気がついた。

 テリーのことがあったし、亜美のこともあって、自分自身のメンタルもボロボロになっているせいだと思っていたが、生理がぜんぜん来ないことに気がつき、もしかしたらと思っている。

 嬉しかった。

 まだ決まったわけではないが、哲也との愛の結晶が自分の身体に宿っていると思うと、言葉で言い表せない程の幸福に満たされる。

 これで想像妊娠だったら目も当てられないので、そろそろ病院へ行って検査をしてもらおうと思っている。一人で行くか、哲也に付き添ってもらうか、どっちがいいだろう。


 ここはあれだ、小説家を目指すものとして、愛の結晶を授かった事が判明する感動のストーリーを描いてみたくなるわけだ。

 ただなぁ、哲也って鈍感だし、私がうまく誘導してストーリーにはめ込んでも、どこかで間抜けなこと言い出しそうだからなぁ。

 あっ、あとは籍だ。子供が産まれるとなれば入籍しなければ。

 待てよ?

 考えてみれば、夢の中では一度あったけど、まだ哲也にプロポーズされていないじゃないか。なんだ、これは。

 いや、ここまで来て“結婚は別”とか“本当に俺の子供?”とか言われることはないと思うが、だからといってこのまま結婚できるという保証があるわけじゃない。

 私からプロポーズしてもいいけどさ。でもさ。あたしだって女の子だもん、ロマンティックなシーン描いて、彼の瞳に自分を映してプロポーズしてもらいたいもん。いいなぁ、そういうの。憧れる。

 ダメだ、乙女モードになってしまう。

 それと、これも大切なこと。哲也の仕事、会社の事もちゃんと訊いておかなきゃ。妻として、夫を支える身として、母として、私がしっかりしなきゃね。


 自分だけが幸福の絶頂にいることが、亜美やテリーに申し訳なく感じている。だが前に進まなければ。今、私のおなかにいるであろう愛の結晶。この子のためにも、顔を上げて、前を向いて、幸福な運命を信じて未来へ進まなければ、私を産んで育ててくれた父と母に申し訳がたたない。

(お父さん・・・お母さん・・・)

 哲也に、両親のことを話しておかなければと思った。

 心の奥にしまっていた、両親が背負った不幸な運命を、未来へと続いている私の幸せな運命へ引き継いでいくために。




 逗子駅前に着いた。これから駅前の産婦人科へ行く。

 結局、一人で行くことにした。もし妊娠していなかったら、哲也もがっかりするだろうし、私も相当気落ちしてしまう。せっかく感動のシーンを描いても、実現しなければ元も子もない。

 先に妊娠検査薬を使って調べておこうかと思ったが、そこで出た結果を見てさらに病院へ行って調べるなら、最初から行ってしまった方が変な期待値を持たなくていい。

 今日の体調は良かった。少し前までは食欲もなく、これが悪阻なのかというような吐き気があったり、よく聞く酸っぱいものが欲しくなるとか、思い当たるようなものは全部当てはまっていたし、これで妊娠していないなら何か他の病気なのか?と思えるほど酷かった。具合が悪い私を、哲也は仕事で疲れているにもかかわらず、面倒を見てくれた。食事の支度、洗濯、掃除、何も言わなくてもどんどんやってくれた。多少雑ではあったが、愛情が全ての隙間を埋めてくれる。どんなに具合が悪くても、心は温かく、気持ちが優しくなれた。

 今は気分もスッキリしている。食欲もあり、というかありすぎるほどで、苦手だった揚げ物や脂っこいものが無性に食べたくなったりする。妊娠するとこんなに変わるのかーと思った。

 もう一度言うが、これが想像妊娠だったら、目もあてられない。半年後には体重も体型も大変なことになる。二つの意味で妊娠していますようにと願うばかりだ。


 クリニックへ入った。淡いピンクの壁、暖色系のLEDが柔らかな光を降り注いでいる。待合室のソファも淡いピンクで可愛い。ちっちゃい子がたくさんいて、お母さんの周りではしゃいだり、備え付けの角にゴムが付いている本棚から絵本を取り出して、そのまま床に広げている。無邪気に遊んでいる姿が可愛くてたまらない。

 元々子供は好きだったが、これが母としての母性本能なのか、テレビを観ても街を歩いていても、小さい子供に目が留まり、子供用品やおもちゃ、何もかも全て子を持つ母親の目線になって見てしまう。

 この前、哲也と二人で買い物に行った時のことだ。

 棚に並んだちっちゃい赤ちゃん用の靴に目が留まり、つい手にとって見てしまった。気がついた哲也が、

「ほしいの?」

と言うので、

「えっ、いや、可愛いなと思って」

と言った。今まで赤ちゃんが欲しいと言ったことはなかった。これでバレたなと思っていると、

「どうせ飾るなら三足くらい買ったら?」

と言われて、“靴じゃねーよ”と思った。ま、そんなものだ。


 番号が呼ばれた。診察室へ案内される。

 女性の先生が問診票に書かれた内容を口頭で再確認する。すぐに血液検査をすることになり、検査室へ案内された。

 血液検査は何度もしたことがあるが、これほど結果が気になったのは初めてだ。採血した後、廊下の椅子に座って待っていたが、どうにも落ち着かない。仕方なく、気を紛らわせようとスマホでネットショップを見ていたが、結局赤ちゃん用品、子供服、初めての出産に関する本、そんなものばかり見てしまうので、却って検査結果が待ち遠しくなった。困ったものだ。


 結果が出た。

「おめでとう、妊娠してるわよ」

 やった!

 涙が溢れてきた。嬉しくて震える。先生と看護師さんが微笑みながら一緒に喜んでくれた。もう何もかも嬉しい。いろいろ説明を受けたが、嬉しすぎて一切頭に入ってこない。それを見越しているのだろう、結構な枚数の案内と説明、注意点などが書かれた書類を渡された。

 診察が終わり、待合室へ戻ると、誰も知らないはずなのに、他のお母さんたちが皆微笑んでくれた。伝わるのだろう、私の幸せが。私もいつか、同じように微笑んであげられるお母さんになりたいと思った。


 クリニックを出た。

 駅前を一人で少しぶらついた。いや、二人で、だ。

 妊娠を意識してから、自然とお腹を守るようになっていた。今、赤ちゃんがいることが確定して、尚のこと意識が高まっていくのを感じる。ただ歩いているだけなのに、前から来る人を避ける時におなかに手がいく。カフェに入って席に着いた時、テーブルに椅子を寄せようと思ったが、余裕を持って広めに空けた。不思議なものだ。

 ホットミルクを注文した。おなかを冷やしたくない。

 待っている間、クリニックでもらった書類をパラパラと捲ってみた。食事や睡眠時間、適度な運動、お酒や煙草についての注意事項、情報が山盛りだが、全て網羅してやろうとやる気になっている自分に驚いた。

 煙草は一切吸っていない。テリーのことがあって、亜美の家に寝泊りするようになってから、亜美が煙草を吸わないこともあって完全にやめた。お酒は嗜む程度に飲んでいたが、妊娠を意識してからは一切飲んでいない。最近の愛飲料はルイボスティーだ。

 食事は哲也と暮らし始めてから、かなり気を使ってきたこともあり、特に問題はないと思う。哲也が休みの日に、長井にある“すかなごっそ”という大きな農産物直売所や、三崎にある“うらり”という港の直売センターへ連れて行ってくれるので、新鮮な食材を美味しくいただくことができている。コンビニのお菓子もあまり買うことがなくなったし、健康的な食生活は大丈夫だろう。

 もう頭の中は赤ちゃんのことでいっぱいだ。幸せすぎて他のことが何も入ってこないのは困ったもんだが、今はもうどうとでも言ってくれという感じ。だって幸せなんだもん。

 安定期に入るまでは充分注意するように言われたので、哲也に話をして、協力してもらえるように頼んでみる。まぁ、わざわざそんなことを言わなくても、パパはなんでもわかってくれるから全く心配していない。ここでパパと言ってみたかっただけだ。


 家に着き、少し休んだ。赤ちゃんが育っていくためにエネルギーが使われているのだろう、まだ小さいのに疲れ方が以前とは違っている。でも大丈夫、幸せだから。

 夕方、六時頃には哲也が帰ってくる。明日は休みだし、疲れているだろうから、赤ちゃんの事と両親のことは明日話したほうがいいだろう。どっちを先に話すか、そこだな。

 布団に寝転がって考えていた。いつしか眠りに落ちていた。

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