七.酷命
「えっ・・・」
全身が凍りついた。亜美が崩れ落ちて床に座り込んだ。支えようと手を伸ばした私も、その場に蹲み込んだ。
哲也が亜美のスマホを取り、話を続ける。
電話の相手はテリーだ。いや、テリーのスマホだ。
テリーが亡くなったという知らせだった。
三月十四日。
今日は夕飯を亜美達の家で食べようということになり、私は先に行って亜美と夕食の仕込みをしていた。そこに夜勤明けで一眠りした哲也が来て、あとはテリーが帰ってくるのを待つだけという状況だった。
テリーは朝早くからの仕事だったが、その分、帰りが早かった。いつもなら三時過ぎには帰ってくる。遅くても四時を回ることはほとんどなかった。
テリーの帰りを待っていたが、四時を回っても帰ってこないので、何かトラブルでもあったのかと思い、亜美がテリーのスマホに電話をかけたが、留守番電話になってしまい、連絡がつかない。メッセージも送ったが、既読にならず、仕方なくテリーから連絡してくるまで待つことにした。
六時を少し回った頃だった。テリーから着信が入った。
何かあったのかという心配はもちろんだが、電話が来たら悪戯心で“遅いぞ、どこの女のとこ行ってるんだ!”と揶揄ってやろうと話していた。亜美は電話を取り、そのままスピーカーに切り替えた。
電話の相手は葉山警察署の交通課からだった。
蹲って動けない亜美を、哲也が何とか抱きかかえて、すぐに収容先の市立市民病院へ向かった。
無機質な壁が向かい合う廊下。冷たい蛍光灯の光が三人を突き刺す。
壁の向こうにテリーがいると思うと、早く声をかけてあげたかった。でもできない。怖い。
救急の受付で名前を言うと、すぐに一番手前の救急医療室に案内された。私も亜美も怖くて足が竦み、動けなかった。哲也が中へ入り、話を聞いてきてくれた。
哲也が長椅子に座る私の横に来た。
「この後、下に移さなければならない。今のうちに逢っておいた方がいい」
手を差し伸べ、私と亜美の手を握る。震えていた。立ち上がり、亜美を支えようとするが、力が入らない。哲也は何も言わず、二人の間に入って脇に手を入れて立たせてくれた。
奥にあるもう一つの救急医療室の前は、看護師さんが慌ただしく動いている。今、目の前で扉が開いている部屋は静かだった。
看護師さんが二人、両脇に立っている。俯きながらも、私と亜美それぞれに手を差し伸べ、ストレッチャーに横たわるテリーの傍らに立たせてくれた。胸元までシーツをかけられたテリーは、穏やかな顔をしていた。眠っているようにしか見えない。
亜美がテリーの上に崩れ落ちた。私も折り重なった。まだ温かいテリーの身体に、二人の体温を重ね合わせ、祈った。
テリーの頬を両手で抱え、声にならない叫びを上げる亜美。今は誰にも何も言われたく無い。好きなだけ、亜美に時間を与えて欲しかった。
哲也を見た。俯き、唇を噛みしめ、大粒の涙を溢している。声は出さず、必死に堪えている。私は哲也の胸に飛び込み、しがみついて泣いた。哲也の胸が私の声と涙を受け止めてくれる。哲也の腕が私を守り、慈しみ、支えてくれる。私には哲也がいてくれる。その現実が亜美に申し訳なくて堪らなかった。
こんな残酷なことまで運命なのかと、これも運命だというのであれば、私は再び運命を呪うしかなかった。
亜美からテリーを奪った運命が憎い。亜美の大切な人、私たち三人の大切な家族、テリーを奪った運命が憎い。
絶望に突き落とされた亜美を、今はただ泣かせてあげることしかできなかった。
三十分ほど経っただろうか。途中、担当した医師と警察官が来て哲也に説明をしてくれた。
交通事故だった。
飲酒運転の車が、テリーが運転する車の運転席側にノーブレーキで突っ込んだらしい。テリーは心臓に大きなダメージを負っていた。病院へ運び込まれた時は既に心肺停止状態で、医師達が懸命な措置を行った甲斐も虚しく、若干二十六歳の若さでこの世を去ってしまった。
これから処置をして霊安室へ移されると言われ、後ろ髪を引かれながら廊下へ出た。
長椅子に亜美を座らせ、私と哲也は亜美を挟んで両側に座った。看護師さんが来て、霊安室と遺族が待機できる部屋を教えてくれた。ここにいては迷惑がかかると思ったので、二人で亜美を支えながら、言われた場所へ移動した。
階下の待機室へ入る。廊下にあった長椅子とは違う、少し深めの椅子へ腰を下ろした。今、ここで起きている事は現実なのか。夢であって欲しいと願った。
亜美はずっと泣いている。私は背中を摩り続けた。こんなことしかしてあげられない自分の無力さが虚しかった。
哲也が部屋の隅で上を見上げている。涙を堪えているのだろう。
三人がそれぞれ、テリーへの想いに打ちのめされている。静かな夜が嫌いになった。これから始まるテリーとの別れを想像し、身震いした。テリーの笑顔が遠く離れていくのを感じて、また涙がこみ上げてきた。亜美の背中に凭れ掛かりながら、静かに時が過ぎるのを待った。
亜美は抜け殻のようになってしまった。当たり前だ。ようやく出逢えた、掛け替えのない大切な人を失ったのだ。あまりにも突然で、あまりにも非情で、あまりにも残酷だ。
私はその日から、哲也と二人で亜美の家で寝泊まりした。一人にしておけなかった。考えたくも無いが、万が一のこともある。亜美が以前入院していた病院の医師へ相談をした。措置入院を勧められた。
夜、亜美に話をした。亜美は、
「あたし、せめて彼が旅立つまでは、一緒に暮らしたこの家にいたい」
と言って入院を拒んだ。無理もない。強制することはできなかった。私には亜美の気持ちが痛いほどわかる。葬儀が終わるまで、この家で過ごさせてあげようと決めた。
亜美の寝床を一階の和室に作った。ここなら私も哲也もすぐに亜美の様子を見てあげられる。常に私か哲也どちらかがいるので大丈夫だとは思っていたが、それでも心配でならなかった。
三日後、葬儀が全て終わった。
テリーの実家は横浜市の南部、東戸塚にあった。葬儀は駅の近くにある斎場で営まれた。空が泣き、雨が降り続いた。
弔問客が長い列を作り、テリーの人柄を偲んだ。
まだ二十六歳。これからという時に、こんなにも早すぎる旅立ちがあってはならないと、口々に悔やんだ。
亜美の胸に抱えられたテリーと一緒に帰宅した。テリーの席は亜美が寝ている和室にしてあげた。ここならいつでも手が届き、微笑んであげられる。
亜美の状態が悪い。突然、声を上げて泣き出したかと思うと、スマホに残されている写真を見て笑い出す。楽しい想い出に浸っているだけであればいいのだが、感情の起伏があまりにも極端で激しい。憔悴し、疲弊しきっているのが目に見えて伝わってきた。食事もほとんど摂っていない。亜美が壊れてしまう。
「亜美、やっぱり入院させたほうがいいと思うんだよね」
哲也が黙って肯いた。考えは同じだ。
「亜美のお父さんとお母さんには連絡ついたの?」
「うん、お父さんと話した。でも、内戦ですぐには帰国できないみたい」
テリーが亡くなった日の翌日、亜美の両親に電話をかけた。
お父さんに状況を説明した。酷く心配していた。すぐに帰国すると言ってくれた。だがその日の午後、お父さんから電話が入り、タンザニアの隣接国で内戦が発生しており、今はどこにも移動できないと言っていた。お父さんは帰国できる状況になったらすぐに行くが、それまでは優雨の考えで支えてあげて欲しいと言っていた。もちろんそのつもりだ。
お母さんとも話した。二人で泣いた。亜美の大切な人がこんな形で奪われたことを、テリーと話したことも、会ったこともないお母さんが、悔やみ、嘆き、慈しみ、悲しんでくれた。
現地で起きている内戦でも、罪のない人々の命が失われ、悲しみが時を埋め尽くし、人も心も奪っているのだ。地球のどこかで常に誰かが同じ苦しみを背負っていると思うと、虚無感が襲ってくる。
だが負けるわけにはいかない。私は亜美を救わなければならない。なんとしても。絶対に負けない。
翌日、亜美は入院した。
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