五.四人
朝、十時過ぎに亜美からメッセージが来た。
〝今日さ、四人でご飯食べない?〟
すぐに返信する。
〝私はいいんだけど、哲也が夜勤明けだから疲れてるかも。訊いてみないとわかんないな〟
哲也は寝室で寝ている。今朝は八時半頃に帰ってきたのだが、いつもよりかなり疲れているようで、お風呂に入ってすぐに寝てしまった。いつもなら一時過ぎに起きてくるが、どうだろう。
〝そっか、じゃあ厳しいのかな。もし大丈夫なら声かけてよ〟
わかったと返信してスマホをテーブルの上に置いた。
私と哲也は一緒に暮らすようになった。迷いもあったが、思い切ったのは哲也のお母さんの存在があるからだ。
哲也と知り合って間もない頃、食材を買いに行ったスーパーで、レジ袋に商品を詰めていた時に、うっかり爪を引っ掛けて破いてしまい、袋の中身を床にばらまいてしまった事があった。拾い上げていると、横から一緒に拾ってくれた女性がいた。“大丈夫?”と声をかけてくれて、嫌な顔一つ見せずに全部拾い上げた後、新しいレジ袋を用意して、詰めるのも手伝ってくれた。お店の人だというのはすぐにわかったが、その数日後、哲也と家への帰り道を歩いていると、その女性に出会した。
「あら、可愛い子連れて。これから帰るの?」
てっきり私に言われたと思い、返事をしようとすると、
「うるさいな、ただの友達だよ」
と哲也が答えた。彼のお母さんだということがそこでわかった。
お母さんもすぐにあの時の私だと気が付き、数日前のお礼を改めていうと、嬉しそうに微笑んでくれた。それ以来、お母さんは何かと気にかけてくれて、哲也の家でご飯を食べたり、親しく付き合わせてくれていた。
近所ということもあり、別に焦って一緒に暮らさなくてもいいのかなとは思ったのだが、曖昧な私を後押ししてくれたのがお母さんだった。
「優雨ちゃん、こんな息子だけどよろしくね。何かあったらばんばん締め上げていいんだからね。あんまりいうこと聞かなかったらお母さんに言ってよ、代わりに締め上げるから」
この時、お母さんが自分のことを“お母さん”と言ってくれたのがとても嬉しかった。長いこと、お母さんという存在がいなかった私を、哲也のお母さんは優しく受け入れてくれた。これからはお母さんと呼べる人がいると思うと、涙が溢れてきた。
亜美の大失態の一週間後、哲也はとりあえずの衣類や身の回りのものをダンボールに詰めて、私のアパートへ越してきた。正直なところ、宝くじのお金があるので、思い切って引越しをしても良かったのだが、亜美の家から離れるのも嫌だったし、せっかく決めた自分ルールを、計画通りに進めていきたいと思ったので、この部屋で同棲を始めることにした。
同棲生活は何もかもが驚くほど順調だった。というか、普通だった。それもそうだろう、哲也との付き合いは十年以上になる。恋人になってからよりも、親友時代のほうが遥かに長い。お互いのことは知り尽くしていたし、哲也はここ数年、週に二、三回は泊まっていたので、そもそも半同棲のような状態だった。まぁそうは言っても、親友として泊まっていくのと、恋人として泊まっていくのでは意味も内容も違うものだ。いろいろ回り込んで考えたし、一緒に暮らしていけるのか不安もあったが、いざ暮らし始めると、それはすぐに取り越し苦労だとわかった。
哲也との生活は本当の夫婦のようだった。変なぶつかり合いもなく、阿吽の呼吸で何もかも伝わる。不思議な感覚だった。
家事一つとっても、哲也はびっくりするほど家庭的で、なんでも一緒にできたし、どんな事もすすんでやってくれた。お料理は得意ではなかったけれど、たまに作ってくれる肉じゃがは本当に美味しい。どこか懐かしい味がすると言ったら、“隠し味におろし生姜を入れるんだ”と教えてくれた。今でもたまにリクエストするが、いつ食べても美味しい。亜美たちが来た時にも出したことがあるが、二人ともびっくりしていた。ただ、これしか作れないと言ったら、亜美に“まさに馬鹿の一つ覚え”と言われてむくれていたが。まぁそれでもこの一つでおかずが成り立つのだから、立派なものだ。
こんなにいろいろやってくれるのなんて、最初だけだろうと思いもしたが、仕事から帰ってきて疲れているにもかかわらず、少し前に私が言っていたことをちゃんと覚えていて、カーテンレールの修理や台所周りの配線の変更など、私が苦手なことをささっとやって、“じゃ、一眠りするから何かあったら起こせよ”と言って休んでくれた。親友時代からいつも面倒がらずにいろいろやってくれてはいたが、一緒に暮らしてからも全く変わらないその姿に、やっぱりこの人で間違いはなかったと常々思っている。
同棲して半年が経とうとしていた。あと二週間もすればクリスマスだ。葉山は海と港の街なので、このシーズンは観光客も少なく、それぞれのお店も地元の客足を稼ごうといろいろ工夫をしてくれる。葉山元町のお店もクリスマス一色に染まり、一晩中イルミネーションが灯ってとても綺麗だし、お洒落なレストランは恋人達のために、今日も温かな光と素敵な料理を用意してくれていた。
その日、私と哲也、亜美とテリーは、森戸神社の近くにあるイタリアンレストランにいた。哲也の実家のすぐ近くだ。
亜美はあれからテリーと真剣に交際をするようになった。付き合い始めたのが同時期ということもあるが、亜美とテリーの大失態は未だにインパクトが強く、一気に四人の距離を縮めてくれた。頻繁に会って楽しく過ごし、今がある。
今朝、亜美から四人で食事と言われて、たまには外で食べようということになってこのお店に来たのだが、席についてすぐ、亜美とテリーの様子が普段とちょっと違うことに気がついた。これはもしかして?と思っていると、察したのか亜美が話し始めた。
「あたしたちさ・・・」
「えっ、まじで?おめでとう」
つい先走ってしまった。
「ちょっと待ってよ、なに言ってんのよ」
亜美が楽しそうに遮る。
「一緒に暮らすことになりました」
テリーが話を続けてくれた。
「そっかぁ、良かったよ、亜美、おめでとう」
哲也が嬉しそうに言う。私は泣き出してしまった。
「ちょっとあんたなんで泣いてんのよ、馬鹿だなぁ、もう・・・」
亜美もボロボロ涙を溢して泣き出した。
嬉しかった。私の大切な家族、亜美。亜美が自分の力で幸せを掴んでくれた。純粋に、その事が嬉しかった。
「決めたのは夕べなんだ。一番に二人に話したくてさ。本当にありがとう」
テリーも涙ぐみながら言ってくれた。私はテリーの手を取り、握り締めた。人の幸せが自分のことのように嬉しく思えたのは生まれて初めてだった。テリーも家族の一員になった。
「じゃあ今夜はお祝いだね。いや、嬉しい。本当に嬉しいよ」
哲也も涙声になっている。
高一の夏休み、海の家から歩んできた三人の人生が、それぞれの幸せを手にしたのだ。これほど嬉しいことはない。
飲み物が届いた。シャンパンだ。グラスを掲げて、乾杯した。
グラスが乾いた音を立てる。唇に触れたシャンパンの泡が舌の上で踊る。心地いい。最高の乾杯だ。もう涙はない。笑顔に溢れた食事が始まった。
哲也がスマホをチラッと見た。
「ちょっとトイレ行ってくる」
席を立って店の奥へ歩いていく。後ろ姿にいつもと違うニュアンスを感じた。どうしたのだろう。気になったが、後にすることにした。今夜のメインは亜美とテリーだ。二人が話してくれるこれからの生活、理想、近い未来と遠い未来、どれも楽しく、微笑ましく、嬉しかった。
哲也が戻ってきた。いつもの哲也だ。
「大丈夫?仕事?」
「うん、大丈夫だよ。明日の予定の連絡だけだから」
いつものやつだとわかった。
私は哲也がどんな仕事をしていて、どこの会社に勤めているかを知らなかった。十年以上一緒にいて、今は一緒に暮らしているのになぜ?と思うだろう。別に興味がないとかそう言うわけでは無い。前に一度“どんな仕事してるの?会社ってどこにあるの?”と訊いた時、あまり話したくなさそうな感じだったので、それ以来、訊かないようにしていた。
別に何の仕事をしていたって構わない。哲也は悪いことをするような人間ではないし、サボったり、手抜きをするような人でもないので、きっと真面目にコツコツ働いている、と思っている。
お金のことも今は別々のお財布で生活しているが、もしこの先、結婚するということになれば、その時に改めて訊けばいい。さすがに妻になっても夫の仕事も会社も知らないと言うわけにはいかないのだから。
ただ一つだけ、気にしている事がある。勤務時間だ。基本的に一度勤務に入ると、拘束時間は二十四時間だ。朝七時から仕事に入り、仮眠を入れて翌朝七時までとか、昼からとか、夕方からとか。翌日は丸一日休みになるのだが、仕事から帰ってくると疲労しきっていてかなり辛そうだ。相当ハードな仕事なのは間違いない。
頑張ってくれていると思うと、身体を壊さないか心配になる。一緒に暮らす前は見えていなかった哲也の日常が、今はいつでも目の前で見る事ができる分、心配は増えた。私にできることは、健康的な食事と、生活の負担をかけないようにし、いつも笑顔で迎え、送り出してあげることだと思っているが、それだけでは足りないだろう。もっとできる事があればと訊くのだが、いつも哲也は、
「大丈夫だよ、お前がこんなにしてくれてるんだから、俺にも頑張らせてくれよ」
と笑顔で言ってくれる。こんなに優しい、思い遣りのある人なんて、絶対いない。私にはもったいない、最高の人だ。
あっという間に九時を回っていた。テリーは明日も朝が早いので、お開きにしてお店を出た。会計は哲也が、
「ご祝儀の前払い」
と悪戯っぽく言って払ってくれた。後で私も半分出すつもりだが、こういう時の哲也の気遣いは、いつもさりげなくて格好良かった。
店を出て、神社の参道を四人でのんびり歩き、石原裕次郎記念碑の横に出た。左手に葉山灯台、その先には名島の鳥居が月明かりに照らされている。海面にはムーンロードが煌びやかに映える。
ふと、あのパーティーの夜、夢の中で哲也にプロポーズされた時のことを思い出した。あの時は、まさか本当に哲也と恋愛をするとは思っていなかった。疑似恋愛だと言って、惹かれていく自分の気持ちを誤魔化しただけ。高一の夏の告白で、哲也の気持ちに応えないまま、自分の気持ちを隠して強がっていただけだったのだ。
それが今では当たり前のように手を繋ぎ、同じ家へ帰り、二人の朝を迎え、次の日も、その次の日も、二人の人生を歩んでいく。
こんな幸せがあるのだろうかと思うほど、私は満たされていた。
右に立つ哲也の横顔を見た。視線の向こうに何を見ているのだろう。
気がついて私を見つめてくれた。唇が重なる。言葉はいらない。
コートを開いて、私を包み込んでくれた。哲也の心が温かい。胸に顔を押し付けて、ちょっとだけ泣いた。
ほんのちょっとだけ。
嬉しかったから。
ムーンロードの先に、四人の運命が続いている。
運命は、四人の未来へ繋がった。
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