二.疑似恋愛
目が覚めた。スマホの時計を見ると六時半を少し回ったところだった。
夕べは素敵な牛丼ディナーをご馳走になり、しもべを連れて帰宅。しもべも疲れていたので、そのまま泊めてやった。私のベッドで隣に寝ている。腹立つ。
身長183cmのでかいしもべ。せっかく一人で広々寝られるようにと買ったセミダブルベッドも、こいつのせいで夕べは窮屈な思いをさせられた。
しかもだ。パーティーの乾杯で一気飲みしたシャンパンのせいでうっかり居眠りした時に、とんでもない夢を見させやがったのはこいつのせいだ。あろうことか、こいつと結婚なんて冗談じゃない。何かせずにはいられない。
ベッドを出て、台所へ入る。朝ご飯は何にしようと冷蔵庫を開けた。卵とベーコンはある。二人分のベーコンエッグくらいはできるだろう。冷凍庫に買い置きした食パンが入っている。まだ起きてこないだろうとは思ったが、三枚出してトースターに平置きしておく。なんて気が利くのだろうと自画自賛してみた。
(あー、なんだろ、変な感じ・・・)
別にあの夢で意識しているわけではないが、今までしてきた数少ない恋愛経験にはない、純粋な恋愛ドラマに思えて悔しい。現実世界では経験できないから夢に出たのか、恵里の結婚を聞いて脳が結婚を意識したのか、原因はわからないが何かモヤモヤしている。頭を切り替えなければ。
卵はスクランブルエッグにした。ベーコンはカリカリに焼いて隣に添えてある。ブラックペッパーを振り、お気に入りのピンク岩塩も振る。この組み合わせは旨味があって堪らなく美味しい。冷えたアイスティーをグラスへ注ぎ、マグカップに熱い珈琲も用意して、オーガニックコットンのランチョンマットの上へ並べた。
グラスもマグカップも、哲也用のものがある。別に意味があってしているわけではなく、あいつが自分で“俺用”だと言って勝手に置いているだけだ。図々しい。しかも可愛い。叩き割るわけにもいかないので、仕方なくあいつがいる時はこれを使ってやっている。せめて使ったら洗っていけ。腹立つ。
「あー、だるい・・・」
起きてきた。
「おはよう。朝ご飯」
ぶっきらぼうに起きてきた奴には、ぶっきらぼうで対応する。
「お、サンキュー。美味しそうだな」
「当たり前でしょ、誰が作ったと思ってんのよ」
何も言わず、アイスティーをごくごく飲んでいる。
「俺さ、今日休みで暇だから、昨日言ってた話、なんだっけ、帰りに家に寄ってって言ってたやつ。それ聞くよ」
そうだった。疑似恋愛のことを相談するつもりだった。私がストーリーを書いて、それをどこかの適当な男相手に演じ上げて、相手の反応も加えて物語を仕上げていく。我ながらいいアイディアだ。
哲也には誰か適当な男がいないかを相談するつもりだった。ある程度の恋愛経験があって、生理的に受け付けないとかじゃなくて、それなりなルックスと清潔感があって、最後の悲しい別れにも耐えられそうな、ちょうどいい男・・・あ。
「私と・・・付き合って」
はにかみながら言ってみる。
「俺が?」
一瞬、沈黙が流れる。
「わかった」
哲也はそれだけ言ってベーコンを一口かじる。その手を寄せて私もかじった。
疑似恋愛がスタートを切った。
電話が鳴った。亜美からだ。
「どした?」
「優雨、このあと空いてる?」
「うん、空いてるけど」
「じゃ家行くわ」
亜美の口調に落ち着きがない。多分、夕べのサーファーと何かあったのだろう。
「亜美?」
「うん。このあと来るって」
哲也が一緒でも別にどうということはない。うちに泊まるのはいつものことなので、朝から一緒にいたところで驚きもしない。
「なんだろ」
「ん?何が?」
「亜美。なんかおかしかったよ」
「どんな風に?」
「落ち着きがないっていうか、焦ってるような感じ。あいつ、昨日のパーティーで変な長髪のサーファーと絡んでたんだよね。帰りは別でって言ってたからそのまま別れたんだけど、その男と何かあったのかな」
哲也は食べ終わって煙草を吸っていた。私も一本取り出し、火をつけた。
「いいじゃん、あいつも彼氏できたとか、そういう話なんじゃないの?」
「だったらいいんだけどさ。亜美、ボロボロになるじゃん、恋愛すると」
亜美は男に弱い。好きな人ができると、普段自分が嫌だと避けることも、彼がいいと言えばYesになってしまう。そこだけを切り取れば健気な可愛い女の子に聞こえるが、実際には見るも無残な変貌でも平気でしてしまうようになる。
二年ほど前のことだ。
亜美の家はお父さんが開業医、お母さんが小学校の先生をやっていた。贅沢な暮らしをしている感じではないが、まぁ裕福ではあった。小さい頃から習い事をたくさんしていたので、ピアノ、お琴、華道、茶道、昔でいうところの花嫁修行的なものは一通りやっていた。育ちの良さもあり、亜美自身、社会から外れたようなこと、ロックやパンクなど若者的なものは、どこか否定的に見ていた。まあ、いわゆる世間知らずのお嬢様、といったところだ。
ある時、ちょうど一つの恋愛が終わったタイミングで出会った、元暴走族で今はパンクバンドのボーカリストというプロフィールの男に惚れてしまった。きっかけは、たまたま逗子海岸でやっていたイベントにそのバンドが出ていて、うるさいなと思いながら避けて通ろうとした時、炎天下のステージでシャウトしている彼が亜美の心を捉えた。彼がプリズムのように煌めく汗を流しながら、力強い眼差しで訴えかける姿は、亜美のそれまでの人生には存在していなかった漢を感じさせてしまったらしい。その時、隣を歩きながら、ふと亜美の顔を見ると、瞳が一瞬で恋する乙女に変わったのを鮮明に覚えている。
翌日、亜美は髪にオレンジとブルーのメッシュを入れ、大きなウェーブでボリュームを出し、Tシャツはあちこちに切り込みを入れて、スキニーのデニムにはピンをつけ、ショートブーツに鋲を打ち、彼のファッションを自分で再現するようになった。
恋をすると女は変わるというが、ここまで極端に変わるとは思っても見なかった。それからの亜美は彼のバンドのライブは全て行き、出待ちをしてプレゼントを渡し、無愛想に帰っていく彼の後ろ姿を潤んだ瞳で見送る。その繰り返し。
一年が経った頃、彼が突然バンドの解散を発表した。解散の理由は、メンバーの音楽の方向性が合わなくなったという、よく聞くものだったが、後でわかった本当の理由は、いつまで経っても音楽では食べていけないので、それぞれ就職することが決まったからという、まったくパンクロッカーらしからぬ生活事情だった。
ついでに分かったのが、彼は年齢を二十七歳と公称していたが、実は三十四歳で、他のメンバーも皆同じように鯖を読んでいた。プロフィールもほとんどが嘘で、売れるためにと虚像のパンクロッカーを作り上げていたのだろう。ライブ終わりの出待ちでも、ステージそのままのド派手メイクで無愛想だったのは、虚像が剥げ落ちるのを防ぐためだったと考えれば納得できる。
肝心の亜美は彼の真実を知り、自分の中に築き上げられた彼のイメージを拭い去ろうと、ナンパされた男についていき、散々弄ばれて捨てられた。私と哲也が状況を知った時、亜美はボロボロになっていた。食事もまともに摂らなくなり、毎日のように私の家にいて、ずっと泣いて暮らしていた。
夕べのサーファーが、同じ類の男でなければいいのだが。
哲也がコンビニへ飲み物とお菓子を買いに行っている間、窓を開けて新鮮な空気を流し込んだ。
朝八時。青空が広がり、風が爽やかで気持ちがいい。モヤモヤした気持ちも、どうでも良くなった。
今日は楽しいことが起きそうな気がする。
哲也が帰ってきた。
ドアを開け、買い物袋を床に置き、私を睨んで言う。
「お前・・・瞼に目、描いたろ」
忘れていた。楽しいことがもう起きた。
憮然とした哲也を前に、手を叩いて笑った。
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