ひきこもり

森戸 麻子

 傾斜のきつい坂に建つ我が家は、坂にめり込むように駐車場と一階があって、その上に玄関のついた二階があった。坂の下側から来ると二階建ての家に見えるが、上側から来ると地下のある一階建てに見えた。だから、通常の家の一階にあるような部屋が全て二階にあり、普段の生活の場は二階だった。


 私が物心ついたときにはもう、しょうきち君は下の階の角部屋に引きこもっていて、いつもその部屋は入った途端すえた臭いがした。「かきのたね」と発泡酒と、微かな汗の臭いだ。それとたまに下水の臭いがした。うちの下水はもともと汲み取り式だったのを後から直したとかで、それも随分と昔のことなので、水回りに関しては昭和の遺物そのものだった。下の階では一箇所だけある小さな洗面台がしょうきち君の部屋にあって、その排水口からときどき下水の臭いが上がってくるのだった。


 しょうきち君はいつも部屋の角のデスクに向かって、背中を丸めて座っていた。昼でもカーテンを締め切った部屋で、パソコンのモニターをずっと見ていた。軽快にキーボードを打つような様子もなく、マウスをときおりカチカチ鳴らしては、あまり動きのない画面を無言でずっと眺めていた。


 しょうきち君はワンセグ対応の携帯電話を持っていた。二つ折り式の携帯で、画面が内側に向くようにも外側に向くようにも折りたたむことができた。私はよくその携帯を借りてテレビを観た。居間のテレビは父が観るものを決めるので、流行りのドラマやアニメはほとんど観られない。しょうきち君の部屋には親が立ち入らなかったから、いかがわしい(父はよくそう言った)番組をこっそり観るには都合が良かった。


 年月が経ってもしょうきち君は変わらなかった。というより、年々私が成長していくぶん、しょうきち君は縮んで幼くなっていくように見えた。同級生の男子よりずっと背の高い大男に見えたしょうきち君は、だんだん同級生と同じくらいになって、しまいには私よりもずっと幼い、歳は経ていてもまったく成熟の兆しがない青年になった。


 両親は何も説明しなかったが、私はなんとなく、しょうきち君がただの兄ではないのだと理解した。その理解はある日急に訪れたものではなく、長い時をかけてじわじわと生活に染み込んで、いつの間にか当たり前の顔をしてそこに居座っていた事実だった。


 父が亡くなった後は、母方の祖母が一緒に住むようになった。祖母はまだらぼけが始まっていて、日によっては取り憑かれたように何度も「あんの、下のはどうなったべ」と言ってじいっと床を睨んだ。その目は床よりも更に下、ちょうどしょうきち君のいる部屋の辺りを見通しているようにも見えた。

「ああ、今日も穴倉ん中」母は毎度、うんざりした声で返した。

「あれ、葬式にも出なかったべ」

「出せるわけねえさ? あんな、風呂にも入んねし、いつまで経っても、あっぺとっぺめちゃくちゃで……」

「仕事は」

「してるしてる言ってっけど、なぁにしてんだか」

「なんかまずい仕事じゃねえべな」

「まずくてもなんでも、働いてくれねと。この子だってまだまだ金も掛かんのに」母は物でも見るような目で私を見やった。

 父が亡くなってからは母はほとんどこの目だった。家事をこなしご飯を作り、暇な時間は茶を飲みながらテレビを眺める。生活に変わりはなかったが、目だけがまったくの無表情になっていた。


 その母が祖母より先に亡くなってしまったときは、さすがに私も先行きが不安になり、数年ぶりにしょうきち君の部屋に入った。

 相変わらず、かきのたねと発泡酒と、汗と埃の混じった臭いがした。


 この後の暮らしをどうするつもりなのかと聞いた。

「リョウちゃんは気にすることないよ」しょうきち君はいつまでも大人びない綺麗な目をちらと私に向け、すぐパソコンのモニターに戻した。「就職したら一人暮らし、するんだろ? 好きなようにしなよ。俺はばっちゃんと二人で何とかしとくから」

 その言葉を真に受けたつもりで安心してしまいたい、という欲に抗えなかった。

 親が遺してくれたもので学費はなんとかなったので、そのまま学校を卒業し就職して家を出た。


 数年間は何とかなっているようだった。実家は目に見えて汚くなり、たまに訪れると壁や天井の劣化が目立ったが、とりあえず普段使う最低限のところは祖母が自分で綺麗にしていた。それも覚束なくなると家事代行が入るようになり、ケアセンターの者が決まった曜日に祖母を迎えに来て連れ出すようになった。祖母のあやふやな説明によれば、市役所の職員が来て手続きを進めてくれたらしい。

「あんたには迷惑かけらんねがら、な」祖母は言いながらまたじっと目を下に向けた。床よりもずっと下、例の部屋を見通すかのように。


 その祖母もある冬に肺炎で入院して、呆気なく亡くなった。


 私は職場で知り合った人と付き合っていたが、そろそろ彼の実家に二人で出向いて挨拶を、という話が出た後、急に彼の実家で揉め事が起きて白紙になった。彼は「こちらの家の問題」と言って詳細を語らなかったが、彼の実家が私を気に入らなかったことは明らかだった。それに、心当たりははっきりとあった。彼からは別れようとも続けようとも言われなかったが、私は黙って転職し、連絡先もすべて変えた。


 祖母が亡くなってからは、家に上がることはなくなっていた。たまにふと立ち寄っては、玄関から靴は脱がずに中を覗き込み、異臭がしたり異様に虫が増えていないかだけ確認する。そしてまた玄関の戸を閉めて鍵をかけた。通りの向かい側から家の外観だけを眺めて、そのまま帰ることもあった。私はこの家の存在を忘れたかった。


 二人目の彼氏とは飲み屋で知り合った。ホスト崩れのバーテンダーで、借金があり、親からは絶縁されていた。付き合い始めたとき真っ先に思ったのは、自分にはこれくらいのきちんとしていない相手が分相応なのだ、ということだった。彼は口がうまく、私の女友達よりもずっとよく喋った。散漫で終わりのないお喋りに、私は相槌を打つだけで良かった。


 結局、子供ができたのをきっかけに籍を入れた。アパートに毛が生えた程度の古いマンションの一室を借り、彼は昼の仕事を得て働き始めた。共に、帰る実家もない流れ者の夫婦なのに、結婚して子を持っているだけで社会の正当な一員として扱われることが増え、妙な居心地の悪さを覚えた。しかし二、三年もするとそれが当たり前になった。


 祖母の死から荒れる一方だった実家には、家政婦が出入りするようになった。荒れ放題だった玄関先の植え込みが小綺麗に刈り込まれ、駐車場には家事サービスの企業のロゴが入った軽自動車がよく停まるようになった。私は胸の重しが少し取れた気がした。娘の世話に追われ、実家からは足が遠のいていった。


 娘が十歳のとき、夫が短い書き置きを残して消えた。

 主婦になって長く経っていた私がろくな仕事に就けるはずもなかった。私は娘を連れて実家に戻った。


 駐車場には知らない車が停まっており、鍵が変えられていた。


 チャイムを押すと前に出入りしていた覚えのある家政婦が出た。驚いたことに、その夫と思われる若い男も一緒に出てきた。


「どちらさまでしょう?」と、女は言った。

 その服装と立ち方、動き方で、おそらく妊娠しているだろうとわかった。

「あの、この家の下の階にずっと……」

 私が愕然としながら説明しかけると、夫婦は「ああ」と頷いた。

 兄なんです、と言おうとして、私は躊躇った。今の私はしょうきち君よりずっと歳上になっているに違いない。

 言葉を失って黙り込む私と娘を、夫婦は助け舟を出すでもなく無言で見ていた。その目がもう、帰って欲しいと告げていた。

「ねえ、もう行こうよ」娘が私の袖をぐいぐい引いて言った。

 私はそれを振り切って、夫婦を押し除けるように家に上がった。廊下の突き当たりの階段を降りる。下の階の最奥のドアを勢いよく開けると、懐かしいすえた臭いがした。


「ああ」しょうきち君はモニターから目を上げ、こちらを見た。「リョウちゃんか。久しぶりだ」


 しょうきち君は変わらず、歳経ることを知らない綺麗な目の青年だった。肌は生白く、顔も身体も脂肪がついて丸い。脂っぽい癖毛が乱雑に伸びて、先が頬や額に張り付いている。いつも丸めている背中は、もはやその形に凝り固まってしまったように見える。


「この子はいいんだよ」しょうきち君は後を追ってきた夫のほうに向かって言った。「前にここにいたばっちゃんの孫だ」

「けども、子連れで出戻るなんて」聞いてない、とでも言いたげだった。

「いいんだ、置いてやって。生活費のぶんは、俺が何とかしとくから」


 私と娘、家政婦だった女とその夫、そしてしょうきち君、五人での奇妙な生活が始まった。

 家政婦の女の子供は結局生まれなかった。代わりに、私の娘に何かと世話を焼き、第二の母親のように接してくれた。おかげで私は時間を気にせずパートに出られて、なんとか子供を食べさせていくことができた。


 家政婦の夫の仕事も私と似たり寄ったりのアルバイトのようで、私たちは全員、しょうきち君が居座るこの家と彼が家に入れてくれる金のおかげで、なんとかまともぶった生活を保っていた。しょうきち君の仕事は相変わらずよくわからなかったが、最近は在宅勤務も普通になってきて時給もけっこう良いんだ、と言っていた。


 娘が独り立ちする頃に、ふと家政婦の女が出ていった。特に予兆もなく書き置きもなかった。そのうち戻るだろ、と言って残された夫はのほほんとしていた。その頃にはほとんど働いておらず、しょうきち君が生活費を入れてくれる口座から勝手に金を下ろしてはぶらぶら遊んでいるようだった。

 数年経つと男は若い水商売の女を連れてきて、一緒に住み始めた。女は若さだけが取り柄で、細かいことは考えないたちのようだった。すぐに子供が産まれた。女が働きに出る間、私がその聞かん坊の男児の世話を焼いた。

 女は私のことを夫の姉、しょうきち君を私の息子だと勝手に決めて納得しているらしかった。


「うちのお兄ちゃんは、なんで、下の部屋から出てこないの」

 小学校に上がって口の達者になった男児がある日聞いた。

「さあなあ」私は遠い日の自分の祖母の口調と顔を思い出しながら、じっと床を、その更に下にあるはずの部屋の方向を見た。「出たぐねんだべ、な」


 あるいは、永遠にそこにいて欲しいという私達の暗い望みが、しょうきち君をあそこに閉じ込め続けているのかもしれない。


「ったぐ、いい歳してろくな仕事もしねで。どうすっつもりなんだが」家政婦の夫だった男が、さも本気で憂いているかのように溜息をついた。

 もしかしたらこの男は、すっかり忘れているのかもしれなかった。私の両親がそうだったように。


 何か知っているふうだった祖母もきっと、今の私と同程度にしか知らなかったのだろう。

 そして目の前の聞かん坊の男児は、幼い頃の私と同じく、何も知らない。


「あれは、バァバが何とかやっとぐから。あんたには迷惑かけらんねがら、な」

 何かを察したように不安な目で黙り込んだ男児に向かって、私は低く言い聞かせるように呟いた。

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ひきこもり 森戸 麻子 @m3m3sum

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