第9話 檸檬
「じゃあ、見ていてね」
新家は言う。こめかみのガーゼは取れ、傷跡もほとんど目立たなくなっている。
夕美は助手席で頷いてみせた。
いつか夕美が吉岡を張っていた路地の近く。目の前には贅沢な作りの邸宅が鎮座し、今まさに、銀色のセダンが車庫へ入っていったところだ。
「町内会のくじ引きで当たったんだと。どうせ仲間を使ったやらせだろうけど」
新家が唇を尖らせた。
セダンから、物部が下りる。尊大な態度も、にくらしい顔つきも以前のままで、相変わらず快活そうだ。彼は今、十日間に渡る「豪華温泉・お肉食べ尽くし旅行」なるツアーから戻ったところなのだと言う。
「試してみるね」
新家は折りたたんだ紙を胸ポケットから取り出し、広げてみせる。夕美の描いた檸檬の絵だ。しばしそれを眺めてから、新家は物部へ目を向ける。
物部はしばらく郵便受けをごそごそやっていたが、やがて敷地の奥へと引っ込んでいった。
わずかな沈黙。新家の親指が、ゆっくりと動く。
しばらくの間、二人の呼吸音しか聞こえない。新家の呼吸は深く、いつまでも続いている。
少しして、新家は手帳を取り出した。慣れた手つきでページを繰る。
ずらりと並んだ名前。その一番下、「物部誠人」の横へ、「完了」と書きつけた。
「いいね。うまくいった。爽快だ」
滅多に見せない笑顔を――といっても視認できるかどうかという微笑レベルなのだが――浮かべ、新家は手帳と檸檬の絵を仕舞った。
「さあ、目的は果たされた。行こう」
新家の軽自動車(車体はボコボコに凹んでいる)は、今にも故障しそうなエンジン音を上げてその場を走り去った。
夕美が新家に、勝手に手帳(「弁証ノート」だ)を見てしまったことを謝ったのが二時間前のことである。
ちょうど、一命を取り留めた南城の証言から、彼の娘による一連の犯行が裏付けられ、警察の調査が本格的に前進したとの一報がもたらされたときだ。
夕美の懺悔を聞き、新家はむしろ嬉しそうに言った。
「弁証法って知ってる?」
「いえ……」
「ある考え方に対し、対立する考え方があるとするでしょ。多数決であれば、どちらの考え方を採択するか挙手や投票で決めるわけだけど、弁証法ではそうしない。双方の主張を尊重しつつ、よりよい解を見出そうとする。たとえば、『飛行機の離着陸において、鳥が障害とならないように、排除すべきだ』という主張がある。このとき、それと対立するものとして『動物愛護の観点から、鳥に危害を加えてはならない』という主張が考えられる。弁証法的に考えて、両方の意見を否定せずに導き出されるのが、『実弾ではない空砲で鳥を追い払いましょう』という一つの解決策なわけ」
「分かります」
「僕の話になるんだけど、僕はこの弁証法的な考え方が本当に苦手なわけだよ。普通なら、集団や社会の中で生きていくうちに、自然と身に付くことなのかもしれない。でも僕はそうならなかった。白か黒かはっきりさせたい。白には両手を上げて賛辞を贈りたいし、黒には絶対的な罰を与えたい。まあ、生きづらいよね」
それが彼の言う「自分の特性」なのかも知れなかった。とは言え、そうした彼の苦手さが異常なものとは思えない。誰しも、白か黒かで線を引きたいという思いは、胸のどこかに転がっているはずだ。
「だから自分なりに、こうして書き出すんだよ。自分が譲れないと思う、いや思い込んでいる主張に対し、あえて対立する主張をぶつけてみる。そして、どちらも否定しないような策を考える。そうやって自分自身に揺さぶりをかけるんだ。主観的には、僕もかなりこなれてきたと思うんだけど」
主観。その言葉で、ノートの最初にメモしてあった「弁証」を思い出す。
「客観的であることが理想である」一方で、「現実には、人は主観から逃れられない」。だから、「『客観的』と言えそうである事象を複数人で見出し、共有しようとする努力を止めてはならない」。それが、この問題に対して彼の導き出した解なのだ。
「人の名前は、見た?」
新家の問い掛けに、わずかな逡巡を挟んで夕美は頷いてみせる。
「ええ。すみません」
「謝らなくていい。それこそ、僕の見出した一番大きな『弁証』なんだよ」
一番大きな弁証。夕美は身を乗り出す。心のどこかでは、やはり物部の件が気に掛かっていた。家を留守にして一向に戻ってこない当人。炎上していたセダンの映像。
「さっき言ったみたいに、僕は極端なんだよ。だから、気に食わない相手がいると――強い言葉を使うけど、危害を加えたくなる」
「私でも、そういうことはありますよ」
「感情としてね。でも、僕はそれがこらえきれない。気付くと、頭の中で爆弾を設計している。どれだけの威力で、どんなギミックのある凶器をこしらえて、どうやって設置してどうやってスイッチを押すか。他人が聞いたら真っ青になるくらいの精度でね」
やはり、新家は爆弾に関する知識を必要以上に持ち合わせているようだ。でも、彼が話そうとしているのは決して危険な話ではない。夕美はそう直感し、だからこそ落ち着いて聞いていられた。
「それを消化するために、『弁証』だよ。ある主張は、『気に食わないやつを爆散させたい』。でも『人を殺めてはならない』。そこで僕が導き出しのが、『人を爆散させたつもりになればいい』」
彼の言わんとすることの輪郭が、ぼんやり見えてきた。頭を去来するのは、梶井基次郎の「檸檬」だ。主人公は、本を積み上げて、そのてっぺんに檸檬を置く。店を出た後で、あの檸檬が爆弾だったらどうだろう、と想像する。
「昔はもっと過激だった。檸檬を爆弾に見立てて購入する。手に握ったときに、『爆弾として』しっくりくる檸檬を探すんだ。そしてその檸檬を、気に入らない相手の家にそっと置いておく。あるときは郵便受けの中に。あるときは軒下に。そしてその場を離れ、架空のスイッチを押すんだ」
新家の親指が、ぐっと沈み込んだ。そこにあるはずのないスイッチを押し込むように。
「でも、それだって嫌がらせの度合いとしてはひどい。下手をしたら、腐った檸檬が郵便受けから出てくるんだ。それで、ステップアップを図ることにした。それこそ、君にやってもらった『試験』が関係してくる」
「檸檬の絵ですか?」
「そう。檸檬はもう買わない。『爆弾』に見立てる檸檬自体を想像で補ってしまうんだ。君の絵はリアルで申し分ない。僕は絵を見て、檸檬を持っているつもりになり、それを相手の家に仕掛けたつもりになる。最後に、架空の檸檬を架空の爆弾にして、架空のスイッチを押す」
新家はどれだけ「架空」という言葉を使っただろう。そんなことを思って、夕美は少しおかしくなった。しかし、新家は至って真面目なのだ。
「でもやっぱり、習慣っていうのは怖いものだから、いつ何時、また檸檬を手に取りたい衝動に駆られるか分からない。その予防策として、もう一つの『試験』、『檸檬を買いたくなくなるようなキャッチコピー』を考えてもらったんだよ。君の考えたコピーはいい。『神経の通った檸檬を齧る』なんて、檸檬を前に唱えてたら確かに買いたくなくなるもの」
あれにはそんな意味があったのか。
夕美は苦笑いする。新家の意図が分からないわけだ。これほどまでに私的な理由だとは思ってもみなかった。
「ちょうど、物部が旅行から帰ってくるころだと思う。どう? もしよければ、記念すべき第一回目の試行に同行してみない?」
そんなふうにして、夕美は物部爆破計画を見届けることになったのだ。
興信所の慌ただしさは少しずつ落ち着いてきた。
現行の調査がそれぞれ軌道に乗り、種々の事務手続きも終わりを迎えようとしている。
新規の依頼を受けられるようになるにはまだ時間が掛かるだろうが、目下のところ、興信所を畳む必要はなさそうだった。
「ねえ、今いいかしら?」
張りのある声に、デスクで作業を進めていた夕美は顔を上げた。
見覚えのある女性の顔が覗いている。舌打ちをしたくなった。
「ごめんなさい、今、相談業務は停止中で――」
「張り紙がしてあったわね。でも、ちょっとだけでも聞いてほしいの。長くはならないわ」
図々しくも、女性は夕美の横まで歩を進める。
「やっぱり、あの人は浮気しているのよ。今回それが本当によく分かったわ。今度こそ、私は許すつもりなんてないの。これ以上、あの人に振り回されて生きるなんてまっぴら。何があったかって言うとね――」
他の所員たちから、憐みの視線を感じる。女性は所内でも有名人だ。もちろん、ネガティブな意味で。
助けを求める視線を向ければ、誰かが仲裁に入ってくれるだろう。しかし、夕美はそうせずに、一度だけ深く呼吸をした。
手の中に、檸檬をイメージする。
それは周囲のあらゆる色を吸収してしまうくらいに黄色く、カーンと冷え切っている。ずしりとした重量を手の中に感じる。うん、しっくりくる。
その想像上の檸檬を、夕美はゆっくりと女性の前に置いた。
「お引き取りください」
一語一語、はっきりと発音する。
「相談業務は停止中です。せっかく御足労いただきましたのに申し訳ございません。大変大きな悩みを抱えていらっしゃるところ、わざわざ弊社までお越しいただきまして誠にありがとうございました。それでは、お引き取り願えますでしょうか」
一息に言ってしまう。
女性は返事もできないまま固まっている。
夕美は右手にスイッチを握りながら、そっと微笑んでみせた。
神経の通った檸檬を齧る 葉島航 @hajima
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