第8話 対峙

 夕美は事務所を飛び出した。

 手先をもたつかせながら、鍵を車に差し込む。

 エンジンの点火音。サイドブレーキを押し下げ、ギアを入れ込む。

 急発進した。すぐにでも、病院へ行かなければならない。

  新家の残したキーワードは四つ。

「一、肺と肝臓、二、健康診断の結果、三、紹介・禁煙、四、抑止力?」

 南城院長から依頼を受けた後、角田は実際に健康診断を受けに病院へ足を運んだに違いない。実際の状況を把握するためには、ひとまず「患者」という肩書を手に入れてしまうのが近道だ。夕美でもそれは分かる。

 しかし、思いがけず、本当に異常が見つかってしまった。悪性の腫瘍だ。それらは肺、そして肝臓へとばらまかれていた。

 角田が煙草を吸わなくなったのもそのせいだと考えられる。それに、。自分に万が一のことがあったとしても、誰かが後を引き継げるように。その幕引きは、本人も予想しないほどに早かったのだけれど。

 そして、奇妙な符号が一つ。角田の遺体に残された傷が、肺と肝臓に達していたこと。これについて理由は不明だが、偶然にしては出来過ぎている。おそらく。そこに病魔が巣くっていることを知っていて。

 当然、素人が的確に臓器を傷つけられるわけもない。


 夕美はアクセルを踏み込む。

 急がなくては、新家の命が危ない。

 その強い直感と、燃えるような焦りが全身を包み込んでいる。

 新家がなぜ、南城院長への疑いを夕美に説明しなかったのか。むしろ、なぜ吉岡のことを疑い、調べるように仕向けたのか。

 何度目か分からないほどに、角田の言葉がうわんうわんと反響する。

 ――ただ言えるのは、新家が人に見せるのは、あいつの中のたった一面だけってことだ。その背後に何があるのか、常に気を配れ。

 新家はわざとそうしたのだ。

 適当な理由を付けて吉岡を張らせていれば、夕美が真犯人と接近することもない。逆に、犯行がばれることを恐れた南城が凶行に走ったとしても、夕美が興信所から離れていれば襲われる可能性はぐっと減る。

 だから新家は夜の興信所に入り浸っていたのだ。

 そして、その彼が手帳を放り出したまま失踪した。事務所内へ戻ったときのことを思い出す。セキュリティも解除されたままだった。

 南城に。あるいは、

 その推測は、いばらのように夕美の胸を締め上げた。

 

 南城の個人病院は、民家から少し離れた辺鄙な場所に位置していた。これで本当に経営が成り立つのかどうか疑問に思うほどに。

 入口のカーテンは閉められていたが、その向こうでぼんやり室内灯が灯っているのが見て取れた。

 夕美は小さな駐車場へ乗り付け、入口へと向かう。

 と、かかとに鈍い感触があった。

 薄暗くて分からなかったが、何かが足元にあるらしい。

 まだ目が順応していなかったため、携帯電話を取り出しライトを点灯する。

 悲鳴が喉元までこみ上げた。

 そこには、南城院長が倒れていたからだ。その胸元からは、刃物の柄が伸びている。それは細く、銀の色に光っていた――おそらくメスだろう。

 院長の胸はそれでもゆっくり上下していた。今ならまだ間に合う。

 震える手で携帯電話を操作し、救急車を要請する。男性が倒れている、何者かに刺されたようだ、呼吸はあるが意識がない。そういった情報をまくし立て、最後に病院の名前を告げる。

 夕美はそのまま、病院の中へ目を向けた。思考がまとまらない。

 犯人と目された南城は、ここで倒れ伏している。

 新家はこの中にいるのだろうか。そして、ここで何が起こっているのだろうか。

 玄関扉に手を掛ける。鍵は開いているようだ。

 一思いに引き開け、カーテンの向こう側へと夕美は飛び込んだ。


 待合室の奥に、新家が立っていた。

 左のこめかみに切り傷を負っていて、そこから血が流れている。右肩を押さえているから、そこも負傷しているのかもしれない。

 そして、新家の正面――ちょうど夕美に背を向けるかたちで、女が立っていた。

 長すぎる白衣を引きずるようにして羽織っている。両手を高くかざしていて、そのどちらにも、光るものが握られていた。

 ――メスだ。

「こっちに来るな!」

 新家が一喝する。夕美に対する言葉であることは明白だった。

 しかし女は、それを自分に対する牽制だと理解したようだ。おかしくてたまらないというように、高笑いを響かせる。まだ夕美の存在には気付いていない。

 ――四、抑止力?

 その最後のキーワードを、夕美はおぼろげながら理解し始めていた。

 南城もまた、興信所の調査によって抑止力を生み出そうとしていたのではないか。取り返しのつかない事態に発展する前に――。

「あたしだって! 医者になれるんだから!」

 女が絶叫した。

「パパは絶対無理だって言うけど! あたしも一生懸命勉強した! だから、手術だってできるの!」

 凄まじい勢いで新家の方へ向かう。新家は手近にあった椅子を持ち上げて振り上げたが、女の方が一歩速い。

 椅子に足を取られながらも、絡みつくようにのしかかり、刃物を振り下ろす。

「切ってあげる! 悪いところは全部切ってあげるから!」

 考えるより先に、体が動いていた。

 夕美は玄関脇にあった傘立てを掴み、待合室の中ほどへと走り出る。そのまま、女の側頭部へと振り抜いた。

 いやな手応えがあった。

 女は奇妙な動きで上半身を反り返らせ、そのまま脇へと転がる。

 反対に、新家はぎくしゃくと上体を起こした。右肩の出血がひどくなっているが、新たに切り付けられた箇所はないらしい。

「何で来た? 危ないじゃないか」

 相変わらず愛想のかけらもない言葉だ。夕美もつっけんどんに返す。

「こっちの台詞ですよ。危ないじゃないですか」

 その直後、サイレンの音が遠くから聞こえてきた。


 後に新家が語った顛末は、夕美の想像とおおよそ合致していた。

 夕美を危険に晒さないため、あえて嘘の推理を披露した新家は、南城の調査を独自に開始していた。結果、それほどの苦労もなく、南城の娘に関する情報が集まったと言う。

 精神的に不安定。医者を目指していたが勉強が捗らず断念。親の情けか、医療事務として雇われてはいたものの、「あなたの病気、私に処置させてくれませんか」と口走ることもあった。

 十中八九、角田殺害はこの娘によるものだと新家は考えた。おそらく、健康診断の結果について口実を作り、呼び出したに相違ない。調査を進めたい角田も、幾分の怪しさは覚えつつ、あえて誘いに乗ったのだろう。

 父親の南城は、娘の危険性を感じ取り、監視する意味で興信所を頼った。しかし結果は、娘が興信所の人間を殺害してしまうという悲劇に終わる。やむを得ず南城は死体の遺棄に協力し、警察の捜査状況を探るため、あえて興信所からの呼び出しにも応えた。

 そこまでの確信を得た新家は、夜を待って南城へ電話を掛ける。

「角田殺害の調査に当たり、特にあなたの娘さんについて、聞きたいことがある」

 我が身の危険を顧みない、新家らしい切り口だった。当然、南城は全てが瓦解したことを悟る。そして、南城の方から、病院で話をしようという提案があった。早急に事件解決を図りたい新家は、取るものもとりあえず、病院へ駆けつけたというわけだ。

 南城が本当に真実を話そうとしたのか、それとも新家の口を封じようとしたのかは分からない。

 ただ、顔を合わせた直後、彼は娘の手で刺されてしまった。どうやら、住宅としている離れから出てきたらしい。人を一人殺害したことで歯止めが利かなくなってしまったのか、娘は「手術」「摘出」といった言葉を繰り返しながら刃物を振り下ろしたという。

 新家も幾度か切り付けられたが、一度建物内に逃れた。夕美が目撃したのは、新家を追いかけて娘が待合室へ入り込み、互いに対峙している瞬間だったのだ。少し到着するタイミングが早ければ、先に襲われていたのは夕美だったかもしれない。


「何で来たんだ。角田さんに叱られる」

 救急隊員による応急処置を受けながら、新家がそうぼやく。夕美のおかげで窮地を脱したのは間違いないはずなのに、減らず口は相変わらずだ。

「今さら何言ってるんですか」

 夕美も強気に返すが、角田の遺志を――夕美を頼みにしているという意思を――尊重していることが感じられて、つい口元がほころんだ。

「動機の可能性は無限にある」

 新家がぽつりとこぼす。吉岡に関するでたらめな推理を披露したときに、彼が口にした言葉だ。今思えば、人を刺したことで曲がった刃物を蒐集するなんて予想は突飛すぎる。よくぞ信じたものだ、と夕美は内心赤面した。

「でも、今回のはさすがに分からなかったな」

 医者になりたいという思いが、南城の娘をおぞましく歪んだ「お医者さんごっこ」へと走らせた。彼女にすれば、メスで患部を「摘出」することそのものが「治療行為」に他ならなかったのだ。

「新家さんでも分からないことがあるんですね。」

 彼の言葉が反芻される。

 ――普通じゃ考えられない常軌を逸した理由で殺人を犯した人間がいたとして、って。

「分からないよ」

 新家は言う。

「人を殺める動機なんて、僕には分からない」

 救急隊員が止血のために、ガーゼを切り傷へと押し当てた。いてて、と新家は顔を歪めてみせる。至極人間的な反応だった。

「ねえ、夕美さん」

 唐突に名前を呼ばれ、どきりとする。

「何?」

「いろいろ終わったら、神経衰弱やらない?」

 やはりわけの分からない人だと、夕美は笑った。

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