第7話 弁証
日もすっかり暮れた頃、会社を出た吉岡はよどみない足取りで駐車場へと向かった。しわ一つないスーツに、紺色のバッグ。仕事のためだけに生まれてきた人間がいるとすれば、こんな感じなのだろうか。
吉岡が駐車場内へ消えてからきっかり三分後、ミニの赤い外車がエンジン音を響かせて出ていく。吉岡の車だ。
夕美は、何食わぬ顔で車をゆっくり発進させる。
間に二台を挟み、吉岡の車を視認する。直帰するのか、それともどこかに寄るのか。
気付かれている様子はない。そもそも、夕美が彼女の監視を始めてまだ二日目だ。不審に思うには早すぎるだろう。
吉岡の乗った車はコンビニに寄り――吉岡はものの二分で弁当を手に出てきた――それから安アパートへたどり着いた。彼女の自宅だ。
今日も特に収穫なし。夕美は腕時計を確認し、時刻が十一時を回っていることを認めた。
――君だよ。君が、吉岡を監視するんだ。
新家の言葉が蘇る。
最初、夕美は自分にそんな役目が務まるのかと訝しんだ。しかし、新家は「自分にも都合がある」とにべもなく、監視の方法だけを指示して帰ってしまったのだ。
曰く、角田さんは夜間に刺殺され、その後山中に運ばれたことが濃厚であることから、吉岡が勤務時間中に次なる犯行へと(あるいは過去の反抗の証拠隠滅へと)及ぶことは考えにくい。つまり、退勤から出社の時間帯を見張ればよいし、それであれば興信所の業務に(つまり夕美の日中の業務に)差し障りもないだろう。
しかし、そのやり方では、夕美が夜を徹して吉岡を監視することになってしまう。さすがに連日ともなると、実行は難しいと思われた。そう伝えると、新家はあっさりと「それもそうだね」と認め、「ひとまずは、退社して帰宅するところまでの追尾だけでいいんじゃないかなあ。すぐに別の人間を狙うなんて考えづらいし」と言う。
なんだか彼らしくない、と思った。疑惑が揺るぎないものであるのならば、「それは君の都合だ。僕には関係ない」とか何とか言って、妥協のない調査を求めるような気がする。ただ、それは夕美の思い過ごしなのかもしれなかった。
ともあれ、夕美はこうして吉岡の帰宅を遠巻きに見送っているのだ。
吉岡は、社内の夕美にも聞こえるほどの深いため息をついて、外付けの階段を上っていく。彼女のヒールがカンカンカンと音を立てた。
偶然にも、この辺りは先日の町内会で夕美が訪れた地域だった。新家が物部に喧嘩を吹っ掛けられた会である。吉岡があの場にいた記憶はないが、もしかしたら同じ区内の住民なのかもしれない。
昨日、初めて吉岡の帰宅を監視したときに、今日とは違って比較的早い時間の退社だったこともあり、近隣住民の立ち話を漏れ聞くことができた。
聞こえたのは、「物部」という名前だった。
夕美は資料を読み込むセールスか何かのふりをして、窓を少し開け、その話に耳を傾ける。
対象の主婦たちは、「井戸端会議」をそのまま体現するかのように、噂話に興じていた。
「最近見ないわよねえ」
「もうどのくらいになる? 一週間?」
「さすがにそんなにはならないんじゃない? でも、昨日なんか家の前を通ったんだけど、車もないんだよ」
「どこかへお出かけしてるのかしらね」
燃え盛るセダンのイメージが、夕美の脳裏を駆け抜けていく。
同時に、「試験」のときに新家が言った台詞が蘇る。
――僕の専門領域は電子工学と高エネルギー物理ですが――
夕美はそのどちらにも明るくないが、それらの知識を援用すれば爆弾を作ることだって可能なのではないか。
そんなことを、脈絡なく思った。
興信所への道を引き返す。
興信所にはもう誰も残っていないだろう。夕美も荷物は全て持ってきているし、特に必須の要件があるわけではなかったのだが、なんとなく足を向けていた。
というのも、昨日、吉岡の監視を終えて興信所へ戻ると、新家が優雅にくつろいでいたのだ。聞けば、セキュリティの解除方法や開錠の仕方を、夕美を見て覚え、調査員らが帰路についたのを確かめて入り込んだのだと言う。
肝心の鍵はどうしたのかと問いかけると、勝手に作成した合鍵をプラプラと揺すってみせた。「それで、こっちが元の鍵」と取り出してみせたのが、熊のキーホルダーがついた見覚えのある鍵である。まごうことなき、夕美の鍵だった。
鍵を盗まれても気付かないなんてと笑う新家を、半ば蹴り出して昨日は帰ったのだった。
合鍵は没収できなかったから、今夜も勝手に興信所でコーヒーを淹れているかもしれない。そんなことを思いながら、夕美はすでに明かりが消えているはずの職場へと戻る。
「やっぱり……」
車を降りて見上げると、興信所内にはうっすら明かりが灯っていた。おそらくは、新家が入り込んでいるのだろう。自分の鍵を使って開錠し、中へと入る。案の定、セキュリティは解除されていた。
「新家さん?」
そう声を掛けながら事務所内へ進み出てみたが、中には誰もいない。もしかしたら夜勤担当の調査員が戻っているのかもと考え、給湯室やトイレなどを見て回るが、人気はなかった。
どういうことだろう。最後に施錠した人間が、明かりを消し忘れただけだろうか。それとも、やはり新家が一度ここへ来たのだろうか。
確かめようのないことが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
一通り事務所内を回り、また入口へと戻ってきた。来客用のブースに加え、所員のための机が寂しく並んでいる。
ふと、角田の机の上に見慣れないものを発見した。
革のカバーが掛けられたノート。新家のものだ。
やはり彼は、ここへ来たのだ。そして、ノートを放り出したまま、電気も消さずにここを出ていった。一体何があったのだろう。
彼のノートに手を伸ばす。以前は、ここに書き留められたおびただしい人名と、その横の「完了」というメモ書きを目にしただけだった。
一ページ目を開く。タイトルの欄には、「弁証ノート」と書いてあった。その下へと目を走らせる。
「この世界に客観というものは実在しえない。人間である個々人は、常に主観というフィルターを通してしか世界を認識できないからだ。所謂『客観的』という言葉にしても、複数の人間が『客観的だ』と主観的に判断しているだけなのである。そしてその『主観』であることを逆手にとれば、あらゆる物事は『ああ言えばこう言う』ことができる。『それは主観的判断だ』という反論に、真正面から立ち向かえる者など存在しない」
新家が書きつけたメモだ。夕美はそれを全て理解できたわけではなかったが、以前、喫茶店で同様のことを彼が言っていたと記憶している。ただし、ノート上には続きがあった。
「客観的であることが理想である場面は少なくない。科学がその代表格である。ただし、現実には主観から逃れることが難しい。ではどうするべきか」
「主観的から逃れられないからこそ、僕らは『客観的』と言えそうである事象を複数人で見出し、共有しようとする努力を止めてはならないと思う」
夕美は動きを止めた。静かな驚きがさざ波のように広がっていく。
あまりにも新家らしくない。しかし、筆致は確かに彼のものであるようだ。
新家が「主観と客観」について話したのは、夕美のことを信頼できるかどうかについて角田と意見を交わしたときだったと覚えている。
「彼女は信頼できる」と言う角田に対し、新家は「それはあなたの主観だ」とやり返していた。そしてその落としどころが、「試験」による判断だったはずだ。
あのときは不愉快にしか感じなかったが、今思えば、新家が妥協したとも言えなくもない。本来なら、「自分は信用できない」とばっさり切り捨てることもできたのだ。しかし彼は、角田の「俺が心から信用していることを担保にしてほしい」という言葉を「この場では、それでかまわない」と受け入れた。そして、一度「試験」を受けてほしいと提案したのだ。彼の(やや特異な)感覚からすれば、それは最大限の歩み寄りではなかったか。
角田ですら彼を「サイコパスな感じがする」と評し、新家本人も「ちょっと普通じゃないところがある」と自身を語っている。ただ、本当にそれだけだとは思えない。
角田の言葉が蘇る。
――ただ言えるのは、新家が人に見せるのは、あいつの中のたった一面だけってことだ。その背後に何があるのか、常に気を配れ。
これを聞いたとき、夕美は「あいつは油断ならない」くらいの意味合いでしか受け止めていなかった。しかし、もしそうでなかったとしたら。新家が自分の特性を超えて、自分たちに歩み寄ろうとしていたのだとしたら。
はやる気持ちを抑え、ノートのページを繰る。新家の哲学的な自問自答はそれ以降もしばらく続き、やがて以前目にした人名と「完了」の文字の並びが目に入る。それをさらに過ぎると、角田殺害の犯人に関するメモ書きが現れた。
「黒川……浮気調査。ほのめかしに対し、顔面紅潮と一時的な深大性呼吸、及び身体の硬直化。性的興奮を得るための手段として依頼したと推測。犯人である可能性『極めて薄い』」
新家が説明したとおりだ。こうして生真面目にメモを残している辺り、犯人を突き止めたいという思いは本物なのだろう。
しかし、と夕美の中で疑念が起きる。
それならば、新家はなぜ夕美に吉岡の監視を頼んだのだろうか。こう言っては何だが、張り込み調査やそれ以上の(つまり、強引に証拠を押さえるような)動きを取るには、新家の方が確実に適任であるはずなのだ。「都合がある」なんて言葉も白々しい。何か新家には意図があるのではないか――そんなふうに邪推してしまいたくなる。
頭を振って、そんな思考を飛ばす。まずは、自分にできることを着実にしていくほかない。新家には新家の考えがある、そんなことは明白なのだ。
そのままメモの続きを読み込むと、夕美は目を見開いた。
「吉岡……企業の人事に係る素行調査。興信所の対応にクレーム、暴言あり。パーソナリティに偏りのある印象。犯人である可能性『極めて薄い』」
「南城……医療事務のパートの交友関係調査。なお、対象は実の娘。唯一、こちらの情報を探る言動あり。犯人である可能性『濃厚』」
夕美が聞いていた話と違う。メモには、吉岡が犯人である可能性は低く、南城の方が疑わしいと書いてある。
なぜこんな相違が生まれてしまったのか。新家はどういうつもりなのか。結局のところ、疑わしいのは吉岡なのか、それとも南城なのか。
疑問が脳内を渦巻く。
――こちらの情報を探る言動あり。
確かに、真犯人がいるのならば、こちらの――引いては警察の――掴んでいる情報について探りを入れてくることもあるだろう。
南城の言動を今一度思い返してみる。
――「角田さんには本当に、親身になって話を聞いてもらいました。感謝してもしきれないくらいです。何か分かったことはあるんですか? 犯人とか」
彼は確かにそう口にしていた。ただ、それだけで疑わしいと決めつけてしまっては、早計に過ぎるだろう。
南城が犯人であろうと新家が本当に考えているのであれば、他にも根拠があるのではないか。その思考過程を知りたかった。
しかし、それ以降に残されていたのは、乱雑な走り書きのみだけである。
タイトルのように、「キーワード」という言葉が大書きされ、下線が引いてあった。
「キーワード
一、肺と肝臓(この二単語は丸で囲まれていた)
二、健康診断の結果
三、紹介・禁煙
四、抑止力?」
これらの短い文字列が、何を示しているのか理解できない。
「肺と肝臓」が意味するところは分かる。角田の遺体で、激しい損傷を受けていた臓器だ。
「健康診断の結果」とは何だろうか? 確かに角田は最近、大きめの茶封筒を手に考えごとをしていることが多かった。もしかしたらデスクに残っているのかもしれない。
「紹介・禁煙」の前者は全く分からない。誰が何を紹介したと言うのだろう。後者については、角田が禁煙をしていたことが関係しているのか。今どき珍しい喫煙可能の喫茶店で、彼はポケットから煙草のボックスを出したものの、再びしまい込んでいた。
「抑止力?」も何のことやらだ。新家と初めて出会った事件――薬物中毒の主婦が自分自身への「抑止力」として調査を依頼した件だ――と共通のキーワードだが、今回の事件で「抑止力」が絡む要素など思いつかない。
ひとまず、分かるところから手を付けるべきだろう。
夕美は角田のデスク上で、書類をかき分ける。案外すぐに見つかった。角田が繰り返し手にしていた茶封筒。よく見れば、表面に病院名が印字してある。
――南城が院長を務める病院だ。
この符号が何を意味しているのか、まだ夕美は掴みかねている。
もどかしい思いで、中身の用紙を引っ張り出す。
健康診断の結果が一枚だけ入っていた。細かな字で、身長体重や血圧の測定結果などが記載されている。
その中で、否が応でも目につく言葉があった。
「悪性の疑い」そして「再検査の強い要請」。
なおかつ、その部位は「肺」と「肝臓」だった。
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