第51話 問答夢様(1)

 試合会場になっていた競技場の更衣室で、すずは、雨と跳ねた水ですっかり湿ったユニフォームを脱いで、サッカー部のジャージに着替えた。着替えながら泣いて、湿ったユニフォームで顔を拭って、また泣いて、というのを何回か繰り返して、ジャージ姿になるのに、いつもの倍は時間が掛かった。


 更衣室の空気は重い。

 何人もまだ泣き続けている。この準決勝が最後の大会になって引退する3年生と、彼女たちとの別れを惜しむ残る3年生と後輩たちが、すすり泣いている。泣いていない者たちも明るい気持ちではない。

 ようやく万年ベスト8を抜け出して、初めて準決勝まで進んで、県で3位になったというのに、誰一人として喜ぶことはできなかった。


「今日は、ここで解散する」

 大久保先生が静かに言った。ふだんなら一回高校に全員戻り、ミーティングをしてから解散するが、今日は違った。

「1年生は荷物を私の車に乗せるところまでやって。それから3日間部活は休みにする。バスや電車で帰る者は気を付けて。みんな家に着いたら私のスマホにメッセージを入れなさい。じゃ、解散」


 1年生に片付けをするよう大久保先生が言ったにもかかわらず、宮本先輩ら引退する3年生が、スッと立ち上がると名残を惜しむように荷物を運び出した。慌てて涼たち1年生たちが動こうとすると、2年生がそれを止めた。3年生たちは、自分達が1年生のときから荷物を運んでくれていた大久保先生の自動車に別れを告げようとしているのだ。

 大久保先生とその自動車に別れとお礼を告げて、3年生は、後輩たちに頭を下げると、全員一緒に競技場から出て行った。

 残された2年生と1年生は、一人また一人と、三々五々競技場から出て行った。いつもだったら、賑やかに帰っていくというのに、誰もが沈んだ気持ちを引きずっている。


 涼と、ユニフォームのまま着替えずに立っているまさが最後に残っていた。

 涼は、雅のバッグの上に乗せられていたジャージの上着を雅の肩に掛けた。

「帰ろう、ニシザー」

 雅は答えず、ただ頷いた。



「あ、出てきた」

 競技場から出たところで、3人の大人が雅たちに近寄ってきた。涼の両親と雅の母親らしき女性だった。

 涼の両親は、涼がスタメンで出ると聞き、ちょうど雨がひどくて畑仕事にならないと判断して応援に来ていたのだった。そして、応援席で雅の母親に話し掛けられたという。雅の母親は、涼の両親が高身長であることを伝えられていたので、すぐに分かったらしい。


「あ、長谷川涼です、いつもニシザじゃない、雅さんにお世話になってます」

 涼は慌てて、いつも通り直角に上半身を折るように雅の母親に頭を下げた。

「こちらこそ雅がいつもありがとうね」

 雅は雅で、涼の両親にお辞儀をして、先日は泊めていただいてありがとうございましたと神妙にお礼をしていた。


 ニシザー


 今の雅の目は澱んでいる。ボールを追いかけてる時はキラキラしていて、試合中は爛々としている大きな目から、光が抜けたみたいだった。

 そんな雅を見て、大人たちも痛々しいものを見るように少し表情を曇らせていた。


「に、ニシザーのお母さん!!」

 涼は大きな声で雅の母親に話し掛けた。

「は、はい、何かな?」

「きょ、今日も、にしっじゃない、雅さんをうちに泊めさせて下さい!」

 ぶんっと音が鳴るくらい、頭を下げると、雅の母親がたじろぐ。


「ニシザーを、雅さんを、一人にしたくない、しちゃダメです」


「……ハセガ、そんなのいいよ。そんなに気にしなくても私は大丈夫だから。ご迷惑だし、ハセガーだって疲れてるんだから」

 母親に頭を下げている涼のジャージの裾を引っ張って、雅が涼の申し出を断ろうとした。

 大人3人は、そんな涼と雅を見て困った顔になる。


 決定権は、雅か、その母親にある。


「やだよ、駄目だよ。大丈夫じゃないよ」

 涼は体を起こして、雅の方に向き直る。

「わたしは、そんな顔してるニシザーを放っておくの嫌だよ。泣きたいんだったら、ちゃんと泣いてよ!」



「……うちの娘は、昔から感情を出すのが下手で。素直に泣けなくて、ずるずる気持ちを引きずる悪い癖があるんです」

 雅の母親が苦笑いをしながら言った。

「うちのは、時々、大泣きするんで困るんですけどね」

 涼の父親がそう言って顔を綻ばせた。


「涼ちゃん、ちゃんと雅を泣かせてやってくれるかな。雅ね、中学校時代どこのチームにも所属出来なくて、ちゃんとサッカーチームに入ったの小学校以来で、負けるのもそれ以来なの」

「お母さん……!」

 雅が母親の言葉に顔を顰めた。余計なことを言うな、と言いたげだ。


「うちにおいでよ、ニシザー」




_____




「なんで、こんなことに……」

 雅が、涼の父親が運転する自動車ミニバンの中で呟いた。

「わたしがニシザーを、なんだっけ、カチランキン……?」

「拉致監禁?」

「そうそれ」

 つい、いつものように雅は涼の語彙の不足を補ってしまう。


「もう、涼、バカなんだから難しい言葉を使おうとするの、やめなさいよ」

「お母さん! わたしのことバカって言った!」

 その会話を聞きながら、涼の父親がガハハと馬鹿笑いをする。その笑い声に雅の頬が少しだけ緩んだ。

 自動車は雅の住むマンションに寄って、雅の母親から着替えや明日学校に持っていくバッグを受け取ると、涼の家に向かった。

 雨はすっかり上がっていて、西の空は赤くなりつつあった。明日は晴れるだろう。


「明日、学校行くの面倒臭いな」

 空を見ながら涼が言うと、同感と言うように雅も黙って頷いた。



 準決勝は接戦となり、最後はPK戦になったが、雅が最後にPKを外して試合が終わり、それで夏の大会が終わった。

 負けたのは、もちろん、雅のせいではない。

 雅も自分に責任がないことなど、頭の中では理解している。

 しかし、大事な場面でゴールを決められなかった不甲斐なさから、自分で自分を許すことができないでいる。最後の試合だった3年生たちの顔が目に浮かぶと、腹が熱くなって、目をぎゅっと瞑る。そして、はああっと息を吐き出す。

 その雅の深いため息に、涼が心配そうに雅の顔を覗き込んだ。そんな涼の視線に雅は気付かなかった。

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