ライター
わっか
第1話
ライター
思い出すのは音だ。
ライターを開閉するときの金属音。
キン、という独特の音にいつも耳を澄ましていた。
俺はあの音を聞くのが好きだった。
「今、何て?」
久しぶりに遠藤から掛かってきた電話は、知っている人の訃報だった。
「佐々木さんが亡くなったんだよ。覚えてるだろ?」
高校一年の夏に同級生だった遠藤と一緒に、民宿の短期アルバイトをした。
そのときに知り合ったバイト仲間の一人が佐々木だった。若い人が多くてみんなすぐに仲良くなったが、特に気があったのは佐々木だった。当時大学三年で自分たちに比べてずいぶん大人に見えたものだ。
「まだ若いだろ。事故?」
「……多分な。山で一人でキャンプしてて、崖から落ちたらしい」
「えっ、山で? アウトドア好きだったっけ」
「最近嵌まったって言ってた。白井は一年以上会ってないもんな。俺は家近いから、酒飲めるようになってからは結構一緒に飲みに行ったりしてて。この間飲んだとき、久しぶりに白井とも会いたいなって言ってたんだよ」
「そうか」
バイトがきっかけで仲良くなったが、会うときはいつも三人で、俺自身は個人的な付き合いはなかった。何となく年上ということで気を遣っていたのかもしれない。
「いつ亡くなったの。葬式は」
「二ヶ月前だよ。俺は佐々木さんのお母さんとも交流あったから、すぐに連絡もらってさ。白井にもすぐに連絡するか迷ったんだけど家族葬だったし、色々落ち着いてからの方がいいかと思ってやめといたんだ。連絡遅れてごめん」
「いや、連絡くれてありがとう」
最後に喋ったときの記憶が少し蘇った。佐々木は少し照れ屋なところがあって、あまりうるさいタイプではなく寡黙な印象だった。
「線香上げに行ってもいいかな。家知らないんだけど」
「俺と一緒に行こう。それと、今日電話したのは頼みがあってさ」
「はぁ……」
「どうした?」
重いため息をついた俺に遠藤が問いかける。
「いや、何かやっぱり。勝手に人の私物を見てもいいのかって思って」
遠藤の頼みとは、一緒に佐々木の部屋を片付けてほしいというものだった。
「仕方ないじゃん。部屋は引き払わないといけないし。おばさんには片付けなんか無理だし」
佐々木の父親はすでに亡くなっていて、母親は高齢で力仕事は無理らしい。部屋は結構物に溢れていて、片付けるのは大変そうだ。
「家電とか、でかいやつは業者に頼んでいるから、それ以外のものを分類して箱に詰めよう」
「わかった」
しばらくは二人で黙々と作業をしていたが、背中を向けた遠藤がぽつりと呟いた。
「事故だったのかなぁ」
遠藤が手を止めてこちらを振り返る。
「最後に会ったとき、佐々木さん悩んでたっていうか、落ち込んでたような気がするんだよな」
「具体的な話はしたのか」
「いや全然。でも、仕事で悩んでたっぽいかな。佐々木さんて有名な大手に入社したじゃん?」
「うん。一緒にお祝いしたよな」
佐々木に内定が出たと聞いて、三人でパフェを食べに行った。何が食べたいか尋ねたら佐々木が食べたいと言ったのだ。食べたいと思っても一人では恥ずかしくて中々店に入れないと言っていた。
「でも、思ったように結果が出ないみたいで」
「営業だっけ」
「うん。俺は内心営業なんて向いてないんじゃないかって思ってたんだけど、佐々木さんは、自分でもわかっててあえて挑戦したみたいに言ってたよな」
そういえばそんなことを言っていたなと思い出す。
佐々木は甘いパフェを食べながら、俺はいつも苦手なことから逃げてたからなぁと言った。
だからそういう苦手なことを少しずつ減らしていければいいなと。
俺は正直苦手なことがあってもそのままでいいじゃないかと思ったけど、佐々木の言っていることも理解できた。
克服していったら、確かに自分の自信につながるだろう。
でも、もしも克服できなかったら。
「ごめん。何か変なこと言ったな」
「いや全然。遠藤はもしかして佐々木さんは自分で、その、自殺したって思ってる?」
遠藤は、ふうっとため息をついた。
「そんな考えもちらっとな。そうじゃなきゃいいなぁとは思ってるけど」
そういうふうに考えてしまったら、最後に会ったときにもっと何か言えることがあったのではないかと後悔が沸いてくるだろう。一年以上会っていない俺がそう思うのだから、遠藤にしてみたらもっとではないだろうか。
何か自分にできることは、あったんじゃないかって。
「またパフェ食いに行きたかったな」
俺がぽつりと呟くと、遠藤は少し吹き出した。
「だな。佐々木さんって見た目が強面だからさ。パフェ食ってんの面白かったよな」
外見は少し怖そうなのだが、中身は穏やかで誰にでも優しい人だった。
仕事で色々助けてもらったことを思い出す。
そして、視線だ。
気づくとこっちを見ていることが何度かあった。
その視線から何となく好意的なものを感じていたが、当時はそれがどういう意味なのか深く考えることはなかった。
今になって考えると。もしかして、あれは。
「……あ」
「どうした?」
俺のかすかなつぶやきに遠藤が振り向いた。
机の引き出しを開けたら、見慣れたライターが出てきた。佐々木がいつも手にしていた物。
それと。
「いや、ライターが」
持ち上げて遠藤に見せると、ああ、と頷いた。
「佐々木さんがいつも持ってたやつな。山に持って行かなかったのか」
休憩中に煙草を吸う姿より、ライターを手でもてあそんでいた姿の方が浮かぶ。
蓋を開け閉めする音が耳に蘇る。
蓋を開けると、その懐かしい音がした。ちゃんと火もついた。
「それ、亡くなったお父さんからもらったって聞いたことある」
「そうなんだ。後で直接佐々木さんのお母さんに渡しておく」
部屋を片付けた後に、佐々木の実家に行くことになっていた。
「おお。危ないもんな」
いつもこれを持っていたのは、お守りのように思っていたのだろうか。
上着のポケットにライターを入れた。それともう一つ。
引き出しに入っていた一枚の写真。
いつ撮られたのかわからない、俺だけが写った写真だった。
目線は違うところを見ているから、隠し撮りみたいなものだろうか。
今ではずいぶん昔に思える、高校生時代の俺が写っている。
同じバイトをしていたとき、何度かみんなで写真を撮ったのは覚えている。
カメラを持っていたのは佐々木で、みんなと写った写真は佐々木から後日もらっていた。
これは、こんなことがなければ一生見ることがなかった写真だ。
一生見なくても、良かったのに。
「何か、元気ないな」
いつの間にか、黒川の顔が近くにあった。
「えっ? そうかな」
「疲れか? この前も引っ越しの手伝いに行ったって言ってたもんな」
部屋中に、荷物を詰め込んだ段ボールが溢れている。
黒川が完全に俺の家に来ることが決まったため、黒川が住むマンションで引っ越しの準備をしていた。
「疲れっていうか。その」
俺は佐々木の話を大まかに話した。昔バイトで世話になったこと、仕事で悩んでいたらしいこと。
「ふぅん」
黒川は俺の顔をじっと見つめた。
「事故じゃないかもって思ってるんだ?」
「まぁ、少しだけ」
そうか、と呟くと黒川は荷物の整理を再開した。
「終電には余裕で間に合いそうだな」
大体の荷物を詰め終わって、黒川がほっと一息ついた。
今日の予定は、終電までには整理を終わらせて俺の家に帰ることだった。
「なぁ、帰りにラーメン食って行かねぇ?」
ほっとしたら腹が減ってきた。賛成、と黒川が笑う。
「あっ?」
「おぉっ?」
突然部屋が真っ暗になった。
「て、停電?」
「そうみたいだな」
ベランダの近くにいたのでカーテンを引いて外を見たが、外の建物も真っ暗だった。
「中も外も、何も見えないな」
「目が慣れたら、少しは見えるかも。しばらく待ってみようか」
「そうだな」
段ボールがその辺に積まれているので、あまり動かない方がいいだろう。
少しだけ離れていた黒川が、俺の方に移動してくる気配がした。
手を伸ばすと、黒川の腕に触れた。
そのまま手を握ったら、黒川も握り返してくれる。
「俺の親父さ」
しばらくして暗闇の中、黒川が口を開いた。
「ん?」
「俺が小学校三年の時、学校から帰ったら家で死んでたんだ」
思わず息をのんだ。
「それって」
「自殺だよ。首を吊って。最初に俺が見つけたんだ。まぁ、今となってはそのときのこと、あんまり覚えてないんだけど」
俺は黙って握っている手に力を込める。
そんなものは小さな子供が見る光景ではない。
「原因は、はっきりとはわからなくて。遺書もないし。俺たち家族にとっては突然の出来事で。もしかしたら仕事の悩みがあったのかもしれないけど、母が職場の人に聞いても思い当たることはないって言われたんだって。その日は休むって連絡はあったらしいけどな」
「家の中ではどんな様子だったの?」
「時々落ち込んでいるように見えたことはあったけど、そんなに深刻なことだとは捉えてなかったって。共働きでお互い忙しかったから、微妙な変化に気づかなくても無理ないよな」
黒川がふっとため息みたいな息を漏らした。
「俺、小さい頃は何でもかんでも何で? って聞く癖があってさ。わからないことはすぐ、親父に聞いてて。親父はどんな質問にもちゃんと答えてくれて。内心親父は何でも知っているんだなって、すげぇなって思ってて。それなのに」
黒川はしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「わからないことをいつも教えてくれていた親父が、最大の謎を残して死んだんだ」
「黒川」
「何で? って聞いても、もう教えてくれないのにな」
「黒川が心霊に興味があるのは、そのことがきっかけなのか?」
「う~ん? どうなんだろう。元々好きだったのかもしれないし。でも少しは影響あるのかもな。もしかしたら親父の幽霊が見えるんじゃないかって、少しの期待はあったかも」
「そうか」
ふと、亡くなった伯父の顔が浮かんだ。
その命がなくなるまで、必死に生きようとした伯父。
それとは反対に自ら命を絶った黒川の父親。
比べられるものでもないのに、比べてしまう。
自ら命を絶った黒川の父親を責めたいわけではなくて。ただ、どうすれば良かったのかと。
「まるで暗い穴の中に、落ちてしまったみたいだ」
「えっ?」
すぐそばで囁くように呟かれた言葉。
黒川の声とは違う、別の。
「黒川?」
問いかけても反応がない。
暗闇の中、確かに近くにいる黒川の気配。
俺は少し不安になったのか、無意識に繋いでいない方の手を上着のポケットに入れた。
「あれ?」
覚えのない物の感触にはっとする。
「あ、これ」
ライターだ。あのとき、上着のポケットに入れたまま返し忘れていた。
もう一つの感触。二つに折りたたんだ、俺が写っていた写真もそのままだ。
あの日に着た上着は、ハンガーにかけて今日まで着なかったから今まで気づかなかった。
ライターを取り出して、蓋を開ける。
黒川がいる側に向けて火をつけた。明かりに浮かんだ顔は。
「さ、佐々木さ」
ライターの明かりに照らされた佐々木の顔が、こちらに向いた。
「それ、忘れたんだ」
「えっ。あ、ライター?」
「いつも持ち歩いていたのに」
そう呟くと、少し悲しそうに目を逸らした。
ライターの火がふっと消える。
「あっ、そんな」
何度も火をつけ直そうとするが、つかない。オイルがなくなったのだろうか。
繋いでいた手も離される。手を伸ばすが隣には何の感触もなかった。
「黒川?」
何度か呼んでも返事はない。
「佐々木さん?」
「暗い」
ああ、と思わずひとりでに声が漏れる。思い出してきた。
これは佐々木の声だ。
「佐々木さん、山登りに行ったって聞きました」
「ああ……」
ため息が混じったような声だった。
会話ができるのなら、俺は何か話しかけ続けようと考えた。
「山、好きだったんですね」
「好きかはわからないな」
しばらくの間があってから、小さな声がした。
「ただ、どこか違う場所に行ったほうがいいだろうと思って」
「どうして?」
「ひどく、疲れていて。誰もいない場所で一人になりたかった」
「仕事のことで悩んでたんですか?」
「多分」
「多分?」
「わからないな。あまり、何かを考えるってことがなくって。ボーッとしてて。だからライターも忘れてしまったのかな」
それはかなり、疲れた状態だったのでは。
「ライターは引き出しに入ってました。どうしてそこに入れたんですか?」
「いつもそこに入れてるから。帰ったらすぐに」
「毎日? それって面倒じゃないですか。いつも持ち歩く物みたいなのに」
「大切なものだから。無くさないように」
「え」
「大切なものは引き出しに」
大切なもの。
引き出しに入っていた俺の写真。
俺は言葉に詰まって、何も言えなくなった。
何を言えばいいのかわからない。佐々木さんに言える言葉が、浮かばない。
「ライターの炎を見ると、なんでかほっとしたんだ」
か細い声がする。
「まだ、俺は大丈夫だって思えて」
「佐々木さん」
「どんなに暗くても、この明かりが見えている間は、大丈夫」
イメージが浮かぶ。暗闇の中にぽっと光る明かり。
いつ飲み込まれるかわからない暗闇の中で、それだけが心の支えだ。
「佐々木さん、俺、ライター返しに行きます。忘れててすみません。すぐに届けに行くので。だから」
ライターをぎゅっと握りしめた。
「だから、大丈夫です。佐々木さんは、大丈夫」
すぐ近くで、ふっと笑う気配がした。
「佐々木さん? わっ」
急に部屋の電気が点き、眩しさでしばらく目が開かなかった。
隣には誰もいない。
「やっと停電終わったな」
黒川がのんびり廊下から歩いてきた。
「黒川、どこに行ってたんだ?」
「ん? トイレ行ってくるって言ったじゃん。ちょっと冷えちゃったからか、我慢できなくなった」
一瞬で消えてしまった。あれは俺の夢か幻か。
手の中にあるライターを見つめる。
蓋を外して火をつけてみたら、簡単についた。
暗い穴の中に落ちてしまったみたいだ。
さっき佐々木さんが言った言葉。
佐々木さんは今もまだ、あの闇の中にいるのだろうか。
「白井? どうかしたか」
黒川の父親はどうなのだろう。今、どこにいるのだろう。
「……黒川」
「ん?」
「もしも、今お父さんに会えたら、どうする?」
突然の質問に黒川は少し目を見開き、考え込むように手で口を押さえた。
「何度も考えてみたことあるんだけどさ。もし会えたらどうするのかって。何で死んだのかを聞きたいのかとか、そういうこと。でも何で? って聞くことは責めてるみたいにも思えて」
「うん」
「責めたいんじゃなくて。ただ俺は、会いたいだけだ」
黒川は、ひとつ頷いて俺を見た。
「親父にもう一度会いたい。ただそれだけなんだ」
黒川はふっと息を吐く。
「でもそれはそれとして、親父に会えないってことにもほっとしているけどな。矛盾してるけど」
「何で?」
「だってさぁ、天国とかそういうの俺にはよくわかんないけど、それでも死んだ人間がこの場所に留まっているってのは良くない気がするだろ」
「まぁ、そうかな」
「俺は親父が生きてても死んでいても、幸せな場所にいてほしいって思ってるよ」
幸せな場所。それはきっと、明るくて暖かい場所なんだろう。
ぐう、と黒川の腹が鳴った。
はっと黒川と目を合わせて、同時に吹き出した。
「腹減った。結構頑張って働いたもん俺」
「だな。ラーメン食いに行くか」
やった~と黒川が大きく伸びをする。
死んでいても生きていても、どうか幸せな場所にいてほしい。
穴のような暗闇に、誰でも簡単に落ちてしまうことがある。
その度に何とか這い上がろうともがく。
その方法は人それぞれで。
とりあえず俺は。
「餃子も食べようかな」
「いいね! 俺も食う」
とりあえず今日は。
黒川と思いっきり、温かくてうまいものを食べるのだ。
ライター わっか @maruimono
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