8話:露天風呂とエレベーターホール

 1000階旅館の大浴場は、本館とは離れた渡り廊下を進んだ先の建物にある。

 ひんやりと涼しい夜の空気を肺に入れつつ、杞憂きゆうは着替えとタオルを手に、無垢の木で作られた渡り廊下を歩く。



『ウチの露天風呂は源泉かけ流しの温泉でね。眺望も良いから杞憂きゆうもきっと気にいると思うよ』



 ――別れる前に、白蛇様がそう教えてくれた。

 仕事は少々残念な結果に終わったけれど、杞憂きゆう自身にやれることはやったし、温泉で疲れを癒す権利くらいはあるだろう。

 ただでさえ仕事の後のお風呂は気持ちいモノで、それが旅館の露天風呂ともなれば気持ち良さも倍増の筈。


(露天風呂、実は初めてなんだよな。何だかんだで写し世うつしよに来てしまったけど、景色の良い温泉にタダで入れるのはラッキーかも)


 この写し世うつしよに来て初めて、テンションが上がったと言っても過言ではない。

 杞憂きゆうは内心で心躍らせながら脱衣所へと向かい、引き戸を開けて中へ。


 二手に分かれ通路の右側:「男性」と書かれた方を進み、一日働いて少々汗臭くなった作務衣を脱いで籠に入れ、下着も脱いだら準備万端。

 思わせぶりな曇りガラスの引き戸を開けると――


「おぉ~、これまた風情があるなぁ」


 裸の杞憂きゆうを出迎えたのは、内風呂(*この場合は「室内」にある風呂を指す)のある大浴場。

 全体的に年季を感じる木のぬくもりに溢れており、全面ガラス張りによって外との繋がり・一体感を感じられる造りとなっている。

 そこから外へと繋がるガラス扉を開けると、開ける前から見えていた“高さ15メートル・幅30メートル程の「滝」”と、その滝から聞こえてくる水の音が杞憂きゆうの身体を包み込む。


「旅館の裏にこんな滝があったとは……全然気付かなかったな。下には川も流れてるのか」


 その川沿いの少し高い位置に露天風呂は設けられており、確かに白蛇様の言う通り眺望は申し分ない。

 中庭みたいに滝もライトアップされていたら尚良かっただろうなと思いつつ、月明かりだけでも十分美しい滝を眺めながら、ブルルっと身震い。


「裸でうろついてたら流石に風邪引くな」


 急いで内風呂に戻り、洗い場で頭と身体を洗って、それから改めて露天風呂へ。

 肩まで浸かって長い息を吐くと、温泉の熱で解されたのか、ようやく杞憂きゆうの心も落ち着いて来た。


 そして落ち着いて来たからこそ、改めて自分の状況がよくわかるというもの。


(何か、勢いのまま1000階旅館で働くことになったけど……本当にこれで良かったのか?)


 現実から逃げる様に――否、逃げて来たと言っても過言ではなく、白蛇様が現世へ戻る選択肢を与えてくれた上で、それでも変化を求めて写し世うつしよを選んだのだ。

 そこに後悔が無いかどうかは、今となっては正直よくわからない。 


(これから俺はどうなるのか……まぁ考えても仕方がない、のか? それは単なる逃げでしかない気もするが……でも、そもそも夢を諦めた時点で――)



 着水ドボンッ!!



「わっ!?」


 すぐ隣に水柱が立った。

 慌てた杞憂きゆうが何事かと警戒するも、犯人はすぐに判明。


琥珀こはく君?」


「おう、何だ?」


「いや、何だじゃなくてさ、いきなり飛び込んだら吃驚するから」


「そりゃそうだろ。吃驚させる為に飛び込んだんだからな」


 さも当然と言い放ち、それから琥珀こはくが露天風呂をバタ足で泳ぎ出す。

 実に子供らしいその行動を微笑ましく見守るべきか、それともマナーがなっていないと断固立つ態度で注意すべきかと悩んだところで、後者の選択肢を取れるような人間ではないと、杞憂きゆう自身が自覚している。

 必然的に何を言うでもなく、彼はユラユラ揺れる小金色の尻尾を眺めるに留まる――が。


「新しい扉、開いてなかったぞ」


「ん?(……扉?)」


 バタ足での遊泳中、琥珀こはくが通り過ぎ様に告げた。

 バシャバシャと水飛沫も上がっていた為、何かの聞き間違いかと思ったものの、Uターンして戻って来た琥珀こはくが再び口を開く。


「おもてなしが出来てない」


「……何の話?」


 聞き返す間に通り過ぎ、湯船の縁に手を着いてから再び泳いで戻って来た琥珀こはく

 今度も通り過ぎるかと思いきや、杞憂きゆうの前でバタ足を止めて、彼は「バシャンッ」と立ち上がった。


「お前に見せる物がある。風呂上がったら、ボクに付いて来い」



 ■



 ~ 10分後 ~


 1時間くらいは温泉でのんびりしたいと、そう思っていた露天風呂から早々に上がった杞憂きゆう

 己の気持ちとは相反する行動だったが、泳ぐのに飽きた琥珀こはくが早々に脱衣所へと向かったので致し方ない。


 身体を拭き、部屋から着替えとして持ってきた紺の浴衣に着替えた後。

 脱いだ服はどうしようかと迷ったものの、入口付近に置いてあった大きな籠に琥珀こはくが放り込んだのを見習って、同じように放り込む。

 その後は渡り廊下へ出た琥珀こはくの後を追って、本館の建物へと戻って来た。


琥珀こはく君、俺に見せたい物って?」


「ついて来ればわかる。こっちだ」


 勿体付ける感じでもなく、単に言葉で説明するよりも見せた方が早いのだろう。

 大人しく彼の後に続き、ほとんど把握していない旅館の通路を進む。


 そして、せっついてから1分も経たない内に辿り着いたのは、淡く光る「無数のボタン」が壁一面を覆いつくす場所。

 明らかに常軌を逸した空間を前に、杞憂きゆうも動揺を隠せない。


「ここは……?」


「“千の間”。この旅館のえべれー……エレベーターホールだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る