第54話

 結局のところ、何処にも絵に描いたような悪はいなかったのだろう。僕は肩に背負った少女の重みを感じながら思う。唯愛の心臓の傷を霧が再生する寸前にナイフをもう一度刳りこむ。真っ暗な階段を登りながらビルの階段を登る。東京タワーは少し彼女には高すぎる気がした。暗がりが晴れて霧に満ちた世界に戻る。閑散とした屋上。手すりはボロボロに崩れてねじれ曲がっている。僕は静かに肩に背負っていた唯愛の死体を屋上の中央においた。ぼーと空を見上げる。眼を見張るような満月が霧の影から少しだけ見えた。何かが羽ばたく音がする。屋上の手すりに漆色の烏が止まった。こちらを眼球でぎょろりと見てくる。僕は伝わるとも思っていなかったがコクリと頷いた。無数の羽ばたく音が聞こえた。一斉に烏達が死体に群がる。皮膚を嘴で刳り、筋繊維を引きちぎり口に含む。蠅のように烏達は彼女を貪り尽くし、その眼球を突いて引きずり出す。烏の眼から涙が溢れていた。悲しみなど覚えないただの水。悲しげな一際響く声を聞いて僕は振り返る。純白の烏がじっと僕を責め立てるように見ていた。数時間後、僕は顔も分からない見るも無惨な唯愛の死体に近寄る。烏達が僕に気づきその場から離れる。唯愛が常に持っていた黒い本があった。僕はそれを取り開く。僕は止まった。

「酷い趣味だ」

 その中身は本なんかではなくただの手記だった。最近の日付は空っぽのスカスカ、ただ少し湿っている気がした。僕は唯愛の日記を腕で挟み込み階段を下る。天井のシミをずっと見ていた。降りる階段がなくなって下を見ると白衣の女性が血まみれで立っていた。腕からは真紅の血液が垂れる。

「どう……何か……良い情報でもあったかい?」

 百合園は途切れ途切れに言う。僕は無言で首を振るった。本の中にあったのは知りたくもなかった嫌な真実だけだ。

「そっか……」

 百合園は苦笑した。




 今日は雪が降っていた。僕と百合園は捨てられていた上着を着て寒さに備え更に北に進む。有りもしないと確信した楽園を目指すために。僕は休憩のたびに黒い本を読んでいた。六年前の夏休み、僕と唯愛は確かに出会っていた。僕が本から推測できる唯愛の性格は傲慢で自分勝手。良いとこのお嬢様の癖に誰かに勝てば、誰かに愛されると勘違いしている大馬鹿者だ。彼女も僕もやっぱり不器用だった。

「それ、面白い?」

 百合園が振り返り言う。少し顔色が悪い。

「どうでしょう……けど唯愛のこと少しだけ知れました」

 四年前のあの日彼女は幸せだった僕との何でもない記憶にすがったのだろう。名前だけの鏡音鷹也という存在に。その後の日記は機械みたいで、ただたんたんと彼女は効率的にギフトを使って組織を作り上げていたことが伝わる。僕は白い息を吐いた。霧と雪の中からうめき声が聞こえた。同時に背後から倒れる音。

「百合園さんッ!」

 僕は振り返る叫ぶ。百合園は熱っぽい瞳で倒れたまま僕を見上げていた。僕はすぐさま刃物を抜き放つ。ゾンビは倒れた百合園に牙を立てようと跳んだ。僕は右手でナイフを一閃。ゾンビの首の根元を突き刺す。ゾンビは僕の手を噛もうと口を開く。僕は左手でゾンビの顔面を殴り飛ばす。同時にナイフを引き抜き、硬い頭蓋に突き刺した。ゾンビはこちらを見ながら膝を曲げて倒れた。

「百合園さん……熱があるなら言ってくださいよ」

 僕は廃墟の一室で百合園の頭に濡れタオルを置く。百合園は朦朧とした瞳で僕を見上げる。

「そうだね。言いづらかった……てのが本音だね」

「ウイルス……ですか……?」

「やっぱ…………気づいてたんだ」

 百合園はベッドの上で目を見開く。

「唯愛なら絶対に貴方を殺すと思っていましたから」

「信頼してるねー。その通りなのが癪だけど」

 僕はベッドの上に座り込んだ。軋んだベッドが音を立てる。静寂が包み込む。死にゆくしかない人間に何を言うべきなのか僕には分からなかった。窓外では雪が降っていた。一日、一日と時間が過ぎて七日目に――なった。窓の外の雪は山のように降り積もっていた。百合園が頭のタオルに手で触れる。

「感染が遅いのが……本当に人を殺したからというのは皮肉だな。私の同僚は……世紀の大発見だとほざきそうだ」

 僕はつられて笑ってしまった。それが科学者というものなのだろうか。

「僕もあの村で感染したはずなんですけど……」

「殺した人間の数と質が違ったんでしょ……それか霧に気に入れたんじゃない?」

 百合園は苦笑。僕の胸に紙束を押し当てて来る。僕はそれをパラパラと見るが数式と小難しい専門用語ばかりでよく分からない。僕の表情を見て察したのか苦笑する。

「適当なやつに渡しなよ、少年」

 僕は紙束を背嚢に積み込む。重たい背嚢を背負った。きっとこれで終わりだ。扉へと歩を進める。

「ねぇ、少年。お願いがあるんだけどさ――もう殺していいよ」

「はい……そうですね」

 僕は拳銃の冷たい銃身を額に押し当てた。ただ瞑目して、僕は振り向かずに拳銃を後ろのベッドに向ける。引き金を引いた。微かに漂う硝煙の匂いと広がり始めた鉄の匂い。僕は重たすぎる扉を開けて霧だらけの世界に戻る。

 何日も何日も歩く。後ろを振り返ると降り積もった雪に自分が歩んできた道が刻まれている。一歩、また一歩と足跡を刻んでいく。無限の彼方にある楽園を目指して。霧の奥に三つの人影が見えた。体格は男。僕は白い息を吐く。

「アイ、愛してる……鷹也」

 アイ……愛……頭の中を不気味な霧の甲高い声が反響する。黙れ黙れ! 消え失せろ! 僕の偉大なる幸福を、僕の友達を、仲間を惑わしやがって。必ず本体、引きずり出して――殺してやる。背負っていた血塗られた散弾銃を下ろす。やるべきことなどずっと昔から決まっている。戦え! 何かを喰らうか如く歯を剥き出しにする。語るべき名など一つしかない。僕を愛してくれた、全てを捨てでも愛を、歪んだ幸福を貫いた怪物の名前。それでも生きていく意志そのものの名。

「さぁ! 虚飾様のお通りだぞ!」

 俺は騙り叫び、散弾銃をコッキングして霧に向かって躊躇なく引き金を引いた。鮮血の花が雪に堕ちた。

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終末世界アイコール 古海 心 @pasoko

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