みみちゃんのゆううつな朝

　みみちゃんはどうしても、今日だけは布団から出たくなかった。

　２段ベッドの上の方から梯子を１段飛ばしでおりてくる姉ちゃんの足が見えても、体を起こしたくなかった。だって起こしたら姉ちゃんと目が合って、おはようを言わなくてはならない。おはようを言ったら最後、今日が始まってしまう。逆に言えばおはようを言うまではまだ、今日は始まらないのだ。

「みみちゃん、朝だよ。起きないの」

　梯子を無事おりきった（姉ちゃんは昔５段しかない梯子の４段飛ばしに挑戦して、足をひねったことがあり、みみちゃんはそれはもうほぼ落下だ、と思った）空気の読めない姉ちゃんが、みみちゃんの布団を無理やりはがす。姉ちゃんは口の端にはりついた白くてカピカピのよだれのあとをひび割れさせながら、無駄に大きな声で「おはよう」と言った。みみちゃんはいつまでも足先でタオル生地のシーツを撫でて居たかったけれど、諦めて小さな声でおはようと返した。

　このまま中途半端な返事をしながら横たわり続け「今日のみみちゃんは具合が悪いのだ」と感じ取ってもらうのでも良かったが、そういうフリをするのはそろそろ使いすぎな気がする。みみちゃんは今日を始めてしまった。

　まんなかにマーガリンが入ったロールパンとぼつぼつのぶどうパンが１つずつお皿に乗っている。そのすぐ横にケチャップがかかったぐちゃぐちゃの黄色い卵が乗っていて、薄黄色の液がパンの底に染みている。染みているのは別にいい、問題はぶどうパンだった。

　マーガリンの入ったロールパンは、何も入っていないのより随分とアタリなのに、しわしわのぶどうがいくつも埋め込まれたぶどうパンはみみちゃんにとって大ハズレだ。しわしわになった途端ぶどうは不味くて仕方がない。

　向かいでは姉ちゃんが小学校の青い帽子をもうかぶりながら大ハズレを口に放り込んでいる。この４月から２年生に上がった姉ちゃんの青い帽子は、まだ１か月も経っていないのに黒いゴムがびよんびよんに伸びきっていて、顎よりずいぶん下の方で揺れていた。

　姉ちゃんが台所に立って洗い物をしているママの背中に勢いよく喋りかける。また隣の席が坂下だったよママ、でもその坂下の前にいる佐伯くんと坂下が同じくもん行ってるらしくてね、喋ってたら先生にうるさいよって言われてね小池先生って化粧がケバくて魔女みたいなんだあははたまにツバ飛んでくるの。姉ちゃんは息継ぎなく言い切ったあと、一人で笑っている。ママは「ほ～ん」と生返事をした。

　みみちゃんはと言うとぶどうパンに埋め込まれたしわしわぶどうを外科手術ばりに慎重にすべて取り除き、座っている木で出来た椅子の座るところとクッションの間に１個ずつ隠していた。先週隠した先客の手ごたえも感じながら、バレないように視線は前を向いたまま。すべてのぶどうをお尻の下に押し付けると、手元のぶどうパンは元はぶどうがそこにあった、紫のあとが点々と染み付いたロールパンになった。卵の液はいいけど、この紫の液はしっかりぶどうの嫌な味がする。でもギリギリこれなら食べられるので、小さくちぎりながら口に運んだ。ママは姉ちゃんが話の最後にランドセルの底から取り出したくしゃくしゃの集金袋を手にしばらく部屋をうろうろしていたが、みみちゃんが朝ごはんを食べ終わる頃には無事タンスの上にあった謎の１０円玉を袋におさめ、事なきを得たらしかった。

「みみちゃん、もうすぐバス来るよ」

　よく喋る姉ちゃんが小学校に行ったあと、ママの目はようやくみみちゃんの方に向いた。ハミガキをちょうどし終わったみみちゃんが、さっきより爽やかな息を静かにスーハ―しながら床の絨毯と木の境目を見つめていると、ママはちゃっちゃとしなさい！、と追い打ちをかけた。ママの口からツバは出なかった。（出る日もある。）

　でもやっぱり、今日だけは嫌なのだ。仕方ないけど具合の悪いフリをします。みみちゃんはそう決めてとても具合の悪そうな、肺から少しずつ絞り出すような呼吸を始めようとした。

「今日はうんていがあるから嫌なんでしょ」

　ママの言葉にみみちゃんの心臓は飛び跳ねた。この間から始まった体育のうんていの時間がこの世の何よりも嫌いなのだ。あんなのを登って下りて、だからなんだというのだ。あの高さから落ちたら打ちどころ次第で死んじゃう可能性だってあるにも関わらず。みみちゃんは「危険なこと」を本当にいっさいしないで生きていきたいと願っているのだ。

「もうみみちゃん今年度から菊組だよね？　年長さんだよ？　仮病は禁止！」

　みみちゃんは絶望感にうちひしがれながらお迎えのバスに乗り込んだ。すごくゆううつだった。こんなことなら一生菊組になんて上がりたくなかった。

　揺れるバスの中、ふと窓の外に目を向けると、少し前に家を出た姉ちゃんが友達とおしゃべりしながら、ゴムを指にかけて、青い帽子をぶんぶん振り回しているのが見えた。みみちゃんはゆううつな気分の中、だから伸びるんだ、と思った。