1906年の大地震(4) Paper Son & Daughter


 今日は余談です。


「アンビシャスな人々」の話ではなく、大地震と関係のある話です。たぶん日本では知られていないことで、他に書く機会がないと思うので、ここに書いておきたいと思いました。


 一つ目は戸籍(こちらでは住民票)の話です。

 松本清張の「砂の器」に、大阪で大空襲により戸籍名簿が焼失してしまった時、主人公が新しい名前で戸籍を作った話が出てきます。

 あれと似たような話ですが、それが、こちらは何万という数でした。



                 *


 1906年の大火災の時サンフランシスコのチャイナタウンは全滅した。

 そこに住んでいた人々に関する書類が焼けてしまったので、実際に何人の中国人が住んでいたのかはわからないが、たぶん1万5千人くらいなのではないかと言われている。

大方の人はオークランドに逃れ、400人ほどが残り、その400人はプレシディオ(市の北にある米軍基地)の仮施設に移った、と記録に書かれている。


 さて、1882年に中国人排斥法という法律ができていて、以来、中国人の移民は禁止されていた。(それは1943年まで続いた)

 

 大地震の後、新しく住民登録をすることになった時、中国人の多くはアメリカ生まれの「アメリカ市民」と記入したから、多くの中国人が正規の「アメリカ市民」になったのだった。


「アメリカ市民」なら、中国から家族を招くことができるのである。

 中には中国に帰って家族を連れてきた者があったが、中にはそういう書類を作って、売る者が出て来た。


 書類にはアメリカ市民である両親の名前が書いてあり、その紙を持参すると、アメリカに入国できるのである。

 

 中国の貧しい家庭ではお金を集めて(2千ドルくらいだという)その書類を買い、子供をアメリカに送り、そこでお金を稼いで送金してくれることを願ったのだという。

そうやって非合法な方法でアメリカに渡ってきた子供達を、ペーパーサンとかペーパードーター、つまり「書類上の子供」と呼ぶのである。


 その数は確かではないが、1910-1940年間に、サンフランシスコに入国した中国人は25万人だという。


 私はその話を米国テレビのドキュメンタリーで見た。中には、ひとりで500人の父親になった人がいたと言っていた。

 そんなことがあったのかと驚いたのだが、実際に、親しい友達エミリーのおじいさんが「Paper Son」だったと知った時には、もっと驚いた。


 エミリーの話によると、こうである。

 おじいさんの郷里は香港からかなり離れた場所にある田舎で、言葉もそこ独特の中国語を話している。おじいさんはその時十代で、家の暮らしが貧しいので、少しでも豊かになりたいとアメリカを目指してやってきた。


 おじいさんの苗字はヤンだが、書類上の父顔はソンである。しかし、彼はソンとは一度も会ったことがない。

 アメリカに着いて、すぐに軍隊にはいった。


 英語が全くできなかったから、軍隊の受付する時、何か訊かれてイエスと言ったら、書類には「フン」と書かれていて、軍隊での名前が「フン」になった。

 だから、おじいさんはアメリカでは「ソン」であり、軍隊では「フン」であり、本当は「ヤン」なのだという。


 嘘みたいだが私が直接に聞いた話である。父親の頃、このことについては口外禁止だったとエミリーは笑って話していたから、そういう時代になったということだと思う。


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